この模擬レースでトゥインクルシリーズの選手生命が終わる。
ギャラリーに囲まれながら、昔日の出来事を思い出す。
レースでは出遅れた、内ラチに体を擦り付けても走った。
向正面の直線で、ギャラリーのハナを明かしてやろうとペースを上げた。3つ目、4つ目のコーナーを抜けて肉薄する。あと少しで捉えられる。だが絶対の速さにはたどりつけなかった。
面倒なことになった。私につきまとうトレーナーができてしまった。やはり気分で言葉を発するのは良くない。
模擬レースの後、しばらくの静寂のあと拍手が起きた。勝者に対する祝福なのだろう。私のものではない。
拍手の中、絶対の王者は下を向いていた。王者は王者らしく胸を張ればいい、勝利に酔いしれるべきだ。しかしそれを良しとしない何かが彼女にはあった。私には惨めさしかなかった。
あのとき声をかけてきた女はトレーナーだった。新人のようだが名のあるトレーナーの一族であるらしい。表紙の光沢がなくなったノートをにぎりしめて私を何度も追いかけてくる。
その女が今、私のラボにいる。招いたわけではない。元気な挨拶とともにラボの扉が開いたときの私の心境は諦めに近い。だがこの気持ちはトレーナーにお返しする。泥水でも飲んで帰ってもらおう。
私のコーヒーの淹れ方は間違っていた。粉に湯を注げばコーヒーになるものだとおもっていたが、アレはインスタントコーヒーというものらしい。液体のコーヒーを乾燥させることで粉末にする。こうすることで手軽にコーヒーを味わえる代物だ。完全に溶けるので、カップに粉がへばりつくことはない。
「コーヒーでもどうかな」
「頂きたいです!わざわざすみません!」
素直なお礼に肩透かしをくらう。
コーヒーの淹れ方は様々ある。紙や布のコーヒーフィルター、サイフォン、フレンチプレス、水出し、煮出しなどなど。
私の泥水はどうやらギリシャコーヒーといったものに似ているらしい。コーヒー粉末を煮出すかカップの中に入れて湯を注ぐ。そして粉が沈殿するまで待ってから上澄みだけを飲むという。
私は泥水を作るとき、かき混ぜればいいものだとおもっていた。しかしそれでは粉が水中を泳いでしまうし、泡の上にコーヒーの粉が乗る。飲むときには砂利のようなコーヒー粉末が口の中でパレードをする。まあ、目の前のトレーナーにはそのパレードに加えて、私の試薬の実験台になってもらおう。
「ゔぶッ!」
そうだ、そういう反応を待っていた。
「おやぁ?どうかしたのかい?何か変なものでも入っていたのかい?もてなしの品をそう扱われるのは心外だなあ。」
実際変なものは入っている。
「すみません…トルココーヒーだったんですね…普通のコーヒーだと思ってそのまま飲んじゃいました…えへへ。」
へらへら笑うな!私はお前を追い出したいんだぞ!あとなんなんだトルココーヒーって!私は彼女にギリシャコーヒーって聞いたぞ!なんで名前がふたつもあるんだ!
そう言いたい気持ちをぐっと抑える。気分で言葉を発するのは良くない。気分で言葉を発したから模擬レースにでてしまったし、このトレーナーにつきまとわれるハメになったのだ。
「そうだ!トレーナー契約の件なんですけど、どうでしょう?トレーナー契約をしていただければ、こういうサポートが可能ですよ!これは一日の練習メニューの例ですね」
ノートを渡される。水に濡れたようで紙がヨレてインクが滲んでいる。表紙には足跡がつき、破れた箇所がセロハンテープで補修されていた。
「また汚いなあ、ほかのノートはなかったのかい?」
「すみません……模擬レースのあとにプラン立てたんですけど……ノート落としちゃって……必死に探したんですけど……こんなことになっちゃって……」
最初のページには蛇がのたうちまわったような字がある。途中途中、寝てしまったのかなめくじが這ったような書き損じがある。最後のページにも書き損じがあった。これは雨に濡れたのだろう。読めなくなった部分には、紙が貼られて書き直されている。
「すみません……やっぱりダメでしょうか……?」
なんでそうすぐに謝るんだ。腹立たしいことこの上ない。お前は何か私に迷惑をかけたのか、いや実際には迷惑を被っているが、これはこの女の職務なんだ、お前は私をスカウトすることに後ろめたいことでもあるのか。
我慢の限界である。言ってやろう。もうどうでもいい。そもそも学園から退学になる予定の身だ。今更スカウトなんかするな。
ふと目を見遣ると、トレーナーは黄緑色に発光していた。泥水に混ぜた試薬が反応したのだろう。私の足など比ではない。全身が黄緑色に発光していた。
私は契約書にサインをした。目の前の腹立たしい女に可能性を賭けてみることにしたのだ。
1話でフィルタードリップのコーヒーが出てきたな
あれは幻だ。(編集済み)