速さとはスピードだけではない。体の成長を含めた仕上がりの速さも含まれる。
そのトライアルレースである弥生賞で彼女と対戦する
過酷な坂のあるコース、中山。
平坦なコーナーから続く最終直線は短く、そこにも坂がある。
体を補強し頑健なものにするためのトレーニングが始まった。
斜面では歩幅を小さく、平地では歩幅を広く。これを意識して走る。歩幅を小さく取ることで登りであれば速度の維持を容易にし、降りであれば速度の増加を抑えやすくする。走る時に発生する1歩の衝撃を小さくし、足への負荷も抑える。
「フッ、フッ、フッ…」
テンポよく、速度を下げずに、だが脚を出す回数は増やす。
雪溶け水が染み込んだ芝はよく滑る。1歩1歩を確実に踏み込まなければ、走ることはおろか、転倒し前に進むことすらままならない。滑らぬようにしっかりと足を突き刺し、蹴る。
「フゥッ…!!」
速度を上げる。速度が上がれば上がるほど、足の接地時間は短くなる。染み出した水の上を靴が滑り、止まれない・加速できないと言った現象が起きる危険性が上がるため、しっかりと足が芝を噛む感覚を体に叩き込むのだ。
馬場状態が悪くなればなるほど、踏み込む力と加速にかかる力が要求される。現在の雪解け水が染み込んだ馬場はまさにトレーニングにうってつけであった。
マンハッタンカフェは趣味として登山を行なっている。意外にもアウトドアな趣味があるのだ。
登山とレースの性質は大きく異なる。レース場には芝が敷かれているが登山道にはもちろん芝は敷かれていない。悪路に対する足首の柔軟性は彼女のほうが上だろう。パワーも鍛えられているはずだ。中山の登りと降りではおそらく勝ち目は薄い。
だが私にも利点はある。向こう正面から第4コーナーまで続く平坦なコースと、私の走り方だ。
私の走り方は足の先、母指球からつま先を芝に突き刺すように走る。靴に取り付けられた蹄鉄をしっかりと芝に噛ませることができれば、登りでは加速しやすくなり、降りではスピードを抑えやすくなる。道悪の場合は滑りにくくもなるのだ。平坦なコースでは私の瞬発力が活きる。第3コーナーから第4コーナーまでの中間は比較的カーブが緩い。ここで彼女との距離を離すことができれば、最終直線では幾分か余裕ができる。そこに賭けるしかない。
坂路を3本走り、少しだけ息を入れる。次はダートを走るのだ。
ダートの良馬場はサラサラとしたクッション砂が踏み込む力を分散させる。素早く走るには圧倒的なパワーを持ってクッション砂を踏み抜き、砂の下にある地面を踏む必要がある。
だが今日のダートは雪解け水をたっぷりと吸って不良馬場となっていた。
稍重や重馬場であれば砂の間に水が入るため、路面が引き締まる。良馬場と比べて走りやすくなるのだ。
不良馬場となると話は変わる。水を吸って踏み抜くのが困難な上に足元が崩れて滑る。足に泥が重りとなってまとわりつく。
「走るの、やめておきましょうか…?」
「いや、私がどれだけ適応できるのかデータを取ろうじゃないか。」
春先は日本を覆う気圧配置が大きく変わる。このような道悪で戦わなければならないことだってあり得るのだ。そう説明すると、トレーナーは静かにうなづいた。
彼女は強い。どんな状況であっても負けられない。
その後も雨と雪が降る日が続いた。
レース当日にも雨は降り、芝状態は近年稀にみる不良馬場となった。