優先出走権が手に入るのは3着まで
マンハッタンカフェは4着であった
不良馬場で後続に5バ身差をつけての勝利。完勝だった。レース前の熱を帯びたあの感覚が原因だろうか、私自身としても想像以上の結果である。だが、私に残ったものは何か表現のしようがない不快感と、僅かな喜びだけであった。
靴の中に泥水が溜まり、脚が重い。踏みしめるたびに足から水が染み出してくる気持ち悪さとその不快感はよく似ている。歩みを進めなければならないというのに、それが嫌になる。
負けないという気持ちは誰もが同じだ。彼女が私に負けないと言ったことを笑うつもりは毛頭無い。
クラシックには夢がある。ウマ娘が、人々が、「勝ちたい」「こうありたい」といった願望がクラシックを夢の舞台たらしめる。
弥生賞はその踏み台である。踏み外せば皐月賞への道が絶たれる。
彼女は本気で勝とうとしただろう。私はどうだったか。その先の可能性の眩しさに目が眩み、勝利と敗北という勝負に起こりうる至極当然の結果を見ないでいたのではないか。
勝利という結果を私が知らないでいた。多くのウマ娘の夢を壊したという現実が重く私に刺さる。
たかがレースだろう。
そんなはずはない。ひとつひとつのレースに青春も人生も全てを賭けて臨んだ者がいるはずだ。クラシックのトライアルレースであればなおさらだ。
たくさんの夢の死骸たちの上に立つ。そして夢あればこそ他者の夢を殺すことになる。膝をついて泣くものも、じっとうずくまり何もできないものも、「しょうがない」と涙を浮かべながらへらへら笑うものもいた。
彼女はそのどれでもない。私をただずっと見ている。
「カフェ…」
「次は負けません…絶対に…」
私の言葉が遮られる。どんな気持ちでその言葉を絞り出したのか私にはわからない。これは誰であっても理解はできない。
辛さ、苦しさを「分かる」というのは傲慢なのだ。だから彼女は私が泣いていたときも何も言わずに見ていたのだろう。
彼女の表情が次第に崩れていく。目には涙が浮かび、薄桃色の唇が鬱血する。いつかの傍若無人な彼女はどこにもいない。ただ等身大でその悔しさを噛み締める少女が居るだけだ。
泣かないでくれ。君を泣かせてしまっては、私は勝負という重みに耐えられそうにない。
「皐月賞では勝ってください」
「あぁ」
「また私と勝負してください」
「あぁ」
ぽつり、ぽつりと彼女が必死に紡いだ言葉が出る。
「さっきのレースであの子と姿が重なった…それがなによりも悔しいっ……!」
彼女は走り去ってしまった。
自らの目標を超える者が現れたときの絶望は私の想像の遥か上なのだろう。
彼女はこれからずっと強くなる。確信はないがそう思った。
これで良かったのだ。
彼女に敗北を贈ったことも、これで良かったのだ。
強いからこそ、勝負を期待される。
強いからこそ、また挑む者が現れる。
彼女の期待に沿うような強者になろう。