芝の上を駆ける。足を芝に突き刺して大きく蹴る。もう一度、もう一度。
速度は未だ足りない。自分の可能性をイメージする。私の脚には可能性が満ちている。絶対の速さのその先へ行くために、脚へと力を込めて大きく蹴り、もう一度芝を蹴る。
2秒縮める、その先に私の求める速さがある。未だ遠いその道を支える者がいる。そこへ至るまで競い合う者がいる。これがなんと恵まれたことだろうか。
日が傾き、橙色の光で満ちる。気温は少しずつ下がり、風が冷たくなる。汗をかいたあとには少し辛い。いつか見た夕暮れもこんな色と冷たい風を纏っていた。
「今日のメニューは全行程終了ですね!お疲れ様ですっ!」
息が上がる。どうにも今日は疲れてしまったようだ。
「ふぅ……データとしてはどうだい?」
「そうですね…、タイムとしては良くなっていますが、坂路の伸びがイマイチですね。」
これまでの3レース、私は最終コーナー手前で中段から飛び出すスパートによって勝っている。だが皐月賞では訳が違う。序盤からハイペースで流れることは必至だ。末脚だけで勝とうとするならば、相当な実力差がなければいけない。それこそ無敗で3冠を制すような圧倒的な実力が必要だ。
「蹴りが弱くなったんですかね?」
いつもより芝の抉れが小さい。無理な力が抜けてタイムが伸びているなら良い兆候である。だが、中山の最終直線は短いうえに急坂だ。スパートでは脚を溜めた後続に負けないだけのパワーが求められる。
「ふーむ……、どうだろうねぇ、そこは蹴る力のデータを取らない限りはわからないよ。」
皐月賞はすぐそばまで迫っていた。フォームの改善は間に合わない。筋力トレーニングをしても効果は見込めないだろう。
「じゃあ私はこれで失礼するよ。ラボに行かなきゃならないんでね。」
「わかりました、お疲れさまです!」
嫌な予感がした。自分の体を今一度調べるべきだと何かが告げる。
私は1年間、ここまで走ることができた。ラジオたんぱ杯では試薬の反応も出なかった。フォームだって大きく変えた。体の筋肉量も柔軟性もあのころよりは格段に上がっている。確かに脚部不安はあったが、それは乗り越えたはずなのだ。
試薬を飲めばいい。それで全てが分かる。蹴りが弱いのは練習が続いたことによるただの筋肉疲労で、私の体に異常は無い。きっとそうだ、現にタイムは伸びた。痛みすら無いのだから、何もあるはずがない。
堂々巡りする思考を抱えながら、薬品を混ぜる。ラボの窓からは夕日差し込んでいた。安らかで暖かでありながら何かの終わりを感じさせる光は、私の影法師を作り出す。
試薬が出来上がるころには、辺りはすっかり夜の帳に包まれていた。服を脱ぎ、鏡の前に立つ。出来上がったそれを一気に飲み干す。ひどい味がした。
ほら、何も起こらないじゃないか。そう思ったとき、ラボの扉が開いた。
「タキオンさん…?」
雲ひとつない青空のような美しい目が私を見つめる。他でもない、私のトレーナーだ。
「門限過ぎてますよ!寮長さんがタキオンさんのことをさがしてます!」
いつか聞いたようなセリフだ。
「あっ……」
何かに気づいたような、そんな声がした。
「その薬、トレーナー契約のときに私が飲まされたヤツですよね。」
「こうして見ると、ホタルみたいで綺麗ですね。」
いつか見たような光が、私のつま先に灯っている。
目の前がぼやけて滲む。黄緑色の光がゆらゆらと揺れた。だが、ここでは堪えなければならない。
「なぁ、トレーナー君。」
「なんですか?」
不思議そうに私を見つめる目は純粋で眩しい。この目は金色の彼女の目とは違う。
私は嘘をついたりはしない。金色の月に雲がかかるのは美しくあるが、青空が曇ることなど私は望まない。
「皐月賞、絶対に勝ってみせるよ。」
だから私はもう一度、取り返しのつかない約束をした。