「フーッ…。」
呼吸を整える。準備は十分すぎるほどした。あとは走るのみ。足のことは今考えてはいけない。
「いつになく真剣ですね。」
隣ではトレーナーが笑う。1年でこのトレーナーも冗談を言うようになった。
白玉を刺したフォークが私の頬の前に差し出される。
「失礼だな、私は常に一定の真剣さは持ちあわせているよ。」
ひとくちでぱくりと口の中に納める。いつも通りの、フルーツの甘味をたくさん吸った美味しい白玉だ。
「そうですね、勝ってくださるんですもんね。」
いじらしく笑うそれは、無邪気で純粋な信じる心の現れだろう。約束をした以上、それはどのような形であれ果たすつもりである。
勝利、敗北、あるいは__
「タキオンさん!」
混沌とした思考から、大きな声で引き戻される。
「勝負服!そろそろ着ましょうよ!」
皐月賞はGⅠレース。勝負服を着用して挑まなければならない。勝負服は先日届いたが、まだ着たことがなかった。
「ふぅン…そうだね、では手伝ってくれるかな。」
「はい!」
自分の教え子の晴れ姿を見たくない者はいないだろう。トレーナーは満面笑みで白衣に試験管をくくり付けている。
この勝負服は小物が多く裾が長い。着るまでに少しだけ手間取ることは明らかである。だが、トレーナーはもう一度着ることになってもまた満面の笑みで白衣に試験管をくくり付けることだろう。何回でも何回でも。
何回目でこの笑顔が消えるだろうか、何回目で面倒だとボヤくだろうか。私はこの服をあと何回着れるだろうか。
タイツを履く。シャツを着る。スカートを履く。ゆったりとタイを巻く。ニットを着る。ひとつひとつが私の走りたいという気持ちを加速させる。この勝負服は、私を1番良く知っているトレーナーが描いた思いの形である。それに応えるために、何度でも何度でもこの勝負服を着てみせよう。そしてこの勝負服でウィナーズサークルに立とう。
レース靴に履き替えるころ、ようやく白衣にすべての小物が取り付けられた。
「走り辛いとか不具合は無いですか?」
そんなことはない。袖が長く垂れ下がる。白衣の裾は膝下まである。だからなんだというのだ。この思いを身に纏って走ること以上に素晴らしいことは無い。
「いや、最高の気分だよ。」
嘘偽りのない気持ち。心の中に晴れわたる青空が広がるような心地よさがあり、脚が軽い。今日は空をも駆けて行けそうだ。月だって、太陽だって超えられる。
いつか私は走れなくなるときが来る。だがそれは今日ではない。何度だって立ち上がって、何度だって勝負服を着てみせる。
「なあ、トレーナー君頼みがあるんだが」
なんでしょう?、と見つめる目。私の心と同じ晴れ渡った青空の色。
「フルーツポンチ、もう少し頂けないか?」
「はい、どうぞ。」
微笑みながらトレーナーはフォークを差し出す。パイナップルは甘酸っぱい。桜桃は香りが良い。さくらんぼは可愛らしい。白玉はそのすべてを持ち合わせている。
白玉を口の中で転がしながら、2人でパドックへ進む。
食べられなくなるのが少しだけ名残り惜しい。
「勝ってくるよ。」
白玉を飲み込んでから、聞こえるように呟いた。