レースが始まるたびに、私はトレーナーという職業を呪う。ターフを駆ける彼女たちに、いったいどれほど私の持っているものを与えられるのだろうか。
与えるというのもおこがましいかもしれない。トレーナーができることといえば、練習メニューを作り、練習を見る。それくらいしかない。ゲートに入る孤独、レースへの恐怖、勝利へのプレッシャー、それらを分かちあうことすら難しい。
ターフを駆けるものにしかわからないものがある。トレーナーはそれを垣間見ることすら叶わない。
お弁当を作っても、一緒に遊んでも、いたずらをされて笑っても、それはレースの外のこと。レースの外のことに一生懸命になったとしても、レースの時にはただ手を合わせて祈ることしかできない。
トゥインクルシリーズはエンターテイメントである。私はそれを否定するつもりはない。トゥインクルシリーズをたかがレース、たかがかけっこごとき、と言う人も少なくはない。だがそのレースに青春も運命も全てを賭けて走るウマ娘がいる。だからこそトゥインクルシリーズは太陽のように輝き、人々の心を動かし、ウマ娘たちの夢となってその夢への道を照らす。
私がウマ娘ならばどれほど良かったことか。走り方のレクチャーも、フォームの指導も、トレーニングのメニューも、コースの特徴も、お弁当の作り方も、担当ウマ娘との触れ合いかたも、すべては座学によって積み重なったものにしか過ぎない。担当ウマ娘が走る姿を見てもなお感動の片隅に「あそこはこうするべきだった」「ここではこれをしてはいけない」と、知識として湧き出る言葉があった。
少しだけ、私の担当ウマ娘がわずかにゲート入りを嫌う姿が見えたとき、私もあの場所に立てたなら、と悔しく思った。
私の担当ウマ娘はたぐい稀なる才能を持っては居たが、デビュー前はレースへの意欲が低いと見做されていた。しかし今誉れ高いクラシック三冠路線の初戦、皐月賞を走る。
ゲートが解放されて、ウマ娘たちが走り出す。それだけで私はトレーナーになってよかったとさえ思う。担当ウマ娘は速いペースでも難なく乗れている。好位につけ、譲らない。
彼女は確かに速い。だが勝利までは望まない。怪我無く無事に走り切ってほしい。ただそれだけを願って強く手を握りしめる。
3-4コーナー中間で一気に展開が動く。大外に進路を取り、飲まれないように一気にスパートをかけた。
何かがおかしい。歩様には練習時の鋭い末脚がない。いつもならばスパイクのように深くつまさきを芝に突き刺す走りをする。だが今はかかとから着地し、脚を滑らせてしまって芝を強く蹴れていない。上体は上がり、ただ気力のみで走っている。
そのままぐんぐんと加速する。もうやめてほしい。体に異常が出ているのは明らかだった。このままでは走れなくなってしまう。それでも、それでもと私の意思に反してウマ娘は必死に駆ける。汗が飛び散り光る。砂を被って泥だらけになっても構わず、ただただ力を込めて、自らを燃やし尽くして輝かんとするかのように走っている。
わからない、なぜそうなってまで走ろうとするのか、私もターフを駆ければその理由がわかるのだろうか。ただ自分の身を呪うことしかできない。
私はその姿から一瞬たりとも目が離せなかった。
「トレーナー君…」
地下バ道で私を呼ぶ声がした。息も絶え絶えなそれは、私の担当ウマ娘のものだった。
「私は……勝ってみせたよ……」
「褒めては………くれないのかい………?」
「タキオンさん!!」
倒れかかるウマ娘を抱きかかえる。
左脚を引きずり、歩くことすらままならない。
「泣かなくったっていいじゃないか……キミは皐月賞トレーナーなんだぞ……?」
何も言えない。ただ私は唇を噛んで必死に嗚咽を噛み殺すことしかできない。
「実は、秘密にしてたことがあってね、それを話さなくちゃならないみたいなんだ…」
「聞いてくれるかい…?」
呼吸が落ち着き、ゆっくりと話し始めるその姿を通路誘導灯だけがぼんやりと照らしていた。