report:超光速の粒子とその行方   作:Patch

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ラボにまた彼女が現れた。
もう既に門限は過ぎており、私を迎えに来たようだった。
帰路につく途中、少し散歩をしないかと言ってみた。
とても短い間であったが、充実した時間だった。



report:公転と自転、惑星と君

 翌朝の私はひどい顔をしている。という仮説は想像以上の成果となって鏡に写る。

目を激しく擦ったからかまぶたの粘膜が腫れており、角膜がいつも以上に充血している。髪はいつも通りであるが顔はくっきりとシーツの皺を転写しており、よだれの跡というおまけまでついている。

 こういうときは紅茶をいただきたい。茶葉から煮出したものがいい。暖かければ暖かいほど溶解度が上がる。角砂糖はいくらあっても良いものだが、ミルクとレモンは結構だ。温度が下がってしまう。

 カフェテリアに行くのは億劫だが、ラボに行く気にはなれなかった。きっとコーヒーのニオイが充満している。

 嗅覚というものは厄介だ。なんとかと言った小説で紅茶にマドレーヌを浸したら、その香りで少年時代を思い出す。なんてものがあった。

あながち間違いではない。嗅覚の受容体は嗅細胞、嗅球を介して大脳周辺縁系に繋がっているという。感情を司る扁桃体や記憶を司る海馬などの周辺に位置すると言われており、嗅覚と記憶にまつわる臨床実験は数多く行われている。

 言えることがあるとすれば、紅茶にマドレーヌを浸したくはない。思い出したい記憶などないのだ。そして、バターの浮いた紅茶は飲みたくない。マドレーヌよりもスコーンの気分だ。ジャムをたっぷりと盛りたい。ジャムならば、紅茶に浮かべても支障はない。

 

 カフェテリアは学園内でも特に賑わう人気のスペースだ。『食堂』とは異なり、広々としているが内装は小綺麗にまとまっている。名前の響きも幾分かマシだ。

 空き時間には暇を持て余したウマ娘が集まる。トランプなどのカードゲームに興じたり、チーム会議を行う姿も見られる。カフェと名がある通り、バイキング形式ではあるが食事も可能だ。特徴的なのは、これらが全て無料で利用できるところだろう。目の前で芦毛のウマ娘が山のような唐揚げを頬張っていることから、学園予算の大部分がここの維持・運営にかけられていることが伺える。

 カフェと名がある通り、ここにコーヒーサーバーがあることもまた必然だった。紅茶はティーバッグしか置かれていないのに対して、黒いコイツはカラフルなドリンクサーバーの真ん中に我が物顔で陣取っている。

 紅茶を得るためにはコイツから湯を奪取せねばならない。鹿の糞を炒って濁った泥水を出すしか能がないコイツを操作してお湯を頂戴しなければならないことと、ボタンをひとつ押すだけのことを嫌がる自分に気づいたことがまた屈辱的であった。コーヒーサーバーの放つニオイは精神的に負担であるとして、紅茶サーバー設置の嘆願書を生徒会に提出しよう。

 余計なものは置いてあるくせに、私のお気に入りのいちごジャムは品切れになっていた。ラズベリージャムでは酸味が強い、マーマレードは苦くて食べられない。ブルーベリージャムは色が好みではない。クロテッドクリームとかいうバターもどきは味がしないし甘くない。

 スコーンをそのまま食べるわけにはいかないので、仕方なくフィナンシェという菓子を手に取った。

 

 ティーバッグの中で茶葉が広がると、えも言われぬかぐわしい赤い液体が抽出される。歴史上を生きた先人たちがこれを追い求めて航路を切り開くのも頷ける。見た目も美しい。薬効もあり、何より美味である。

 口に含むと、目の覚めるような甘みと春風のような香りが脳を走り抜けた。煮出したものでないことを除けば、この茶は有史以来の極上のものだろう。

「ん〜〜〜!」

 血液に乗って糖分という幸福の栄養素が満たされる。多幸感に少しだけ声が漏れたが、恥をかかずに済んだ。前の机に座っていた芦毛のウマ娘は6回目のおかわりをもらいに席を立っている。

 角砂糖を3つカップに放り投げ、紅茶を口に含む。わたしも淑女のひとりであるから、音を立ててすするようなことはしない。火傷した。

 フィナンシェをかじると、また角砂糖を3つ放り込み、紅茶を口に含む。フィナンシェはあともう二つほど取りに行こう。

 

 幸福のルーティンの裏で機械の動く音がした。すぐに水を注ぐ音がして、少し遅れて彼女に似た香りがした。振り向いてみたが、彼女はどこにも居ない。ほんの少しだけ、ラボに戻りたいと思った。あそこはおそらく彼女の香りで満たされている。

 

 手元に視線を落とすと、私のカップには赤い紅茶が注がれている。水面には丸い電灯が金色に映る。

 赤い紅茶は夕焼けのようで、金色の電灯は満月のようだ。夕焼けのなかに時間を間違えた金色の満月が浮かんでいる。可笑しい。このままでは満月が太陽を追い越してしまう。

 

 カフェテリアにはコーヒーがある。満月は夕焼けの中に浮かばないし太陽より速く沈まない。これは必然だろう。

 月に雲がかかり、風が彼女の髪を揺らすのであれば、少しだけ彼女を独占したいと思うのも必然ではないだろうか。

 

 紅茶にフィナンシェを沈めてみる。正直なところ、マドレーヌとフィナンシェにどのような違いがあるのかわからない。ふたつとも甘い洋菓子であるということは先ほど知った。

 カップを覗き込む。フィナンシェのバターが溶けてカップに浮かぶ。底に沈んだ砂糖が舞い上がり、金色の月に白く雲がかかる。

 昨日の風景を思い出し、カップに写る私が笑う。そのとき、跳ねた私の髪が揺れた。

 




百合じゃない設定なのにどんどん百合百合してきた…

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