ぽたぽたぽた……と、頭上から水滴の音がした。屋根づたいに聞こえる不規則で単調な音は、頭の奥まで響いてくる。
これは、雨音だ。肌に触れる空気はひんやりと冷たく、ときおり吹くそよ風が湿った土の匂いを運んでくる。
誰か窓を開けっぱなしにしたのだろうかと、混沌とした意識の中で平凡な思考が形作られる。
ガンナーは寝返りをうとうとして異状に気づいた。
今、自分が横になっているのは体になじんだギルドハウスのベッドの感触ではない。腰骨や肩にごつごつした異物感がある。彼女はシーツのない、木板の上に直接横になっていたのだ。
ガンナーはゆっくりと目を開けて、上体を起こした。
ひどい立ち眩みに襲われる。視野が周囲からじわりと狭まり完全に溶暗してしまう血の巡りが回復するのを待ってから辺りを見回すと、パニックに似た感情が沸き上がってきた。
ここは、どこ?
目の前に出くわしたのは建物の礎石だった。
おそらく木造だったのだろう、柱や壁は跡形もなく朽ち果てているが、土台となる石組は蔦に覆われながらも残っている。さらに奥に目をやれば、似たような跡地というか、廃屋が点々と見えた。
ガンナーがいたのもそんな廃屋の一つだった。
ただ、周囲のものよりも一際大きく、四隅に柱が残っており屋根も形を留めている。それで雨も防がれていたのだ。辺りを見回すと、廃屋の他には家畜が飼われていただろう柵に囲まれた――ところどころ破損しているが――牧草地の跡地や、石組の井戸が滑車小屋の下敷きになっているのが垣間見えた。
ここは廃村だ。村全体を取り囲むように、枯れ藪がどこまでも続いている。
だが、どうしてこんな所にいるのだろう。
ガンナーにはとんと見当がつかない。
強風が吹いて廃墟をがたがたと軋ませる。秋風のような涼やかなこの風は、とてもマギニアの気候とは思えない。もちろんそうした地域を飛ぶこともあるが巡航予定になかったはず。
そもそもこんな景観の地域を、ガンナーは見たことがなかった。
ここはマギニアではない。そしてマギニアの航路上にある国々でも樹海でもない。
再び自分が眠っていた廃屋を見渡すが仲間の姿はなく、それらしい痕跡もない。理由はわからなかったが、ガンナーだけがこの廃村に来てしまったと考えるのが適当だ。
「どうしてこんな所に?」
昨晩のことがまったく思い出せない。
どこで何をしていたのか、誰かと一緒だったような気がするが頭に靄がかかってしまったかのようにはっきりしない。
酒を飲み過ぎて前夜の記憶が曖昧になる経験はあるが、ここまで綺麗さっぱり記憶が途切れることはなかったし、見知らぬ場所で起きたことも一度もなかった。
前向性健忘だろうかとガンナーは思った。それは以前、メディックから聞いた病名だった。事故や戦闘で頭を打って気絶した際、回復後に自分が何者か、住所はどこかといった根本的な記憶を維持したまま、ショックを受ける直前の記憶だけが抜け落ちてしまう症状だ。
しかし、記憶喪失だとしてもこの場所に説明がつかなかった。
記憶をたどっていると、どこからか鳴き声が聞こえてきた。雨音にかき消されるぐらいに弱々しい声量だったがガンナーは聞き逃さなかった。
ガンナーは廃屋を出て声の主を探した。
廃屋を何軒か通りすぎ、村の外れにあった林へ足を踏み入れる。
歩くたびに腐葉土に足が沈みこむ。
この林も長年手つかずだったらしく低い位置――ガンナーの帽子に触れるくらいの高さ――に枯れ木のように細い枝が伸びている。途中、幹にぶら下げられた私有地を示す古い看板が音もなく揺れているのを見つけ、その真下に、鳴き声の主はうずくまっていた。
声の主は、全身濃い灰色の毛に覆われた狼だった。
「どうしたの?」
ガンナーの声にむくりと狼が起き上がり威嚇するようにぐるると唸る。
刺激しないよう、ガンナーはその場から動かずに狼を観察し、気づいた。
狼の前足に、刺のついた錆びた鉄の罠が食い込んでいる。地面に設置して獲物がその上を通ると口をとざして拘束するタイプのもので、刺は深々と前足に刺さっていた。
狼は長い間拘束されていたらしく、渇ききった血が黒い塊になっていた。
「待ってて。すぐにはずしてあげる」
思わずしゃがみこみ、バネ仕掛けの罠を力づくで取り外した。狼は傷ついた前足をペロリと舐めると、その場で立ち上がる。狼はガンナーの腰くらいの背丈があり、寝そべっていたときよりも更に大きく見える。
「罠は他にもあるかもしれないわ。気を付けるのよ」
狼は大きなお世話だと言わんばかりにぷいっと顔を背けると、ガンナーに尻を向けて林の奥へ歩き去ってしまった。
「まぁ。可愛くない狼ね」
立ち上がって、周囲を見渡すガンナー。
このまま廃村に戻っても何かわかるとは思えない。ここが何処か確認する為にも、ガンナーは探索することに決めた。なんとなくあの狼と同じ方向に進むのが癪だったので、ガンナーは逆方向にみえた曲がりくねった獣道を進むことにした。
狼がいるのだから他に野生動物がいてもおかしくない。
ところが歩けど歩けど野鳥一匹の姿もない。
「不気味ね。まるで死後の世界だわ」
若干雨が強まったところで林が途切れ、枯れ藪に出くわした。
「狼と一緒の方がよかったかしら。足元に気をつけて進まないと……」
罠があるかもしれないし、迷宮のように落とし穴がないともいえない。藪というよりも森といった方がいいような薄暗い中を歩いていると、しばらくして突然目の前がパッと明るく拓けた。
前方に鉄の門があった。
そして門柱の向かい側は噴水――水は渇れていたが――のある中庭で、その奥には三角形の尖塔が屹立する古めかしい館が建っていた。
雨で濡れたせいか石造りの外観は暗色に染まり、上下式の窓は光を拒むかのように全て内側から木板を打ちつけられていた。
遠雷が聞こえ、林をくぐりぬけたかん高い風が吹きつける。
廃村の建物とは違いほぼ外観を保っている館なら雨風も凌げるし、ひょっとしたら住人がいてなにかしらの施しを受けられるかもしれない。
雨水を吸い込んでしとどに濡れた上着や帽子もだんだんと重くなってきた。早く服を乾かして暖をとりたいところだが、ガンナーは館に向かうのを躊躇っていた。
その館からは、厭な気配が伝わってくるのだ。足を踏み入れたら二度と外に出られなくなるように自分を襲うような『邪悪な住人』が住んでいるようなイメージがわいてくるのだ。
そのとき、ガンナーの視界に人影が映った。
真っ黒い肩掛けをしてスカーフを頭巾のように頭から被った老婆が、音もなく中庭を歩いていたのだ。
「あの、すみません!」
こちらの声に振り返ることなく、老婆はすーっと噴水を通りすぎ玄関を開けて館に入ってしまった。
人が、いた。
今日、初めて誰かに会えた。その興奮にガンナーは思わず館の門を開け、ハーブが生い茂っていたであろう中庭を走り抜ける。
「……おじゃまします」
声をかけながら玄関の扉を開けるガンナー。
そして、一瞬その場に立ち竦む。
暗い。
雨とはいえまだ明るい時間帯なのに、異常なほど真っ暗な室内。窓が塞がれているにしても暗すぎる。これは真夜中の暗さだ。廊下の突き当たりすら見えない。
しかし、このまま突っ立てっているわけにもいかない。
まずはあの老婆に事情を説明しようと壁伝いに廊下を進むガンナーの鼻に、何か生臭い臭いが届いた。
鉄臭さと生ゴミがすえたような、厭な臭いだ。何度か嗅いでいるうちに、これとよく似た臭いを迷宮で嗅いだことを思い出す。
これは死臭だ。
死体温が下がりきり、硬直を終えて溶解が始まった死体から発せられる悪臭だ。
人の住む館からこんな臭いがするはずがない。住人がいたことで揺らぎかけた館への邪悪なイメージが再び甦る。
やはり、この館に入ったのは間違いだったのか。しかしガンナーを閉じ込めるかのように外の雨音は急に強くなる。
今更外に出るのは難しい。やはり老婆を探してみよう。逃げるのは話してからでも間に合うはずだ。
ほとんど何も見えない暗中を手探りでそろそろと進む。
廊下の突き当たりにたどり着いたとき、何かを啜るような音が聞こえた。幽かだが、ぴちゃぴちゃ、じゅるじゅるという音が聞こえる。
右奥の部屋からだった。部屋の扉は開いている。廊下から覗き、目が慣れるうちに寝室であることがわかった。
天涯つきのベッドに誰かが眠っており、足元に誰かが立っている。立っている人物は前屈みのような姿勢で眠っている人の膝に覆い被さっている。服装は老婆と似ているが、こちらに背中を向けているので当人なのかはわからない。
声をかけようとして、ガンナーはあることに気づいて息をのんだ。覆い被さる人物の足元。そこにはシーツから滴り落ちた赤黒い液体が溜まっていたのだ。
液体は床板の木目にそって廊下側に立つガンナーの爪先まで流れている。
「血?」
聞き間違いと思いたいが、何かを啜る音はベッド側から聞こえる。しかも廊下で耳にしたときよりもはっきりと。ついにはごりごり、ぐちゃぐちゃといった何かを咀嚼する音まで聞こえ始めた。それはまぎれもない、食事をする音に他ならなかった。
雷鳴が轟いた。
窓に打ちつけられた板の隙間から射し込んだ雷光が、寝室を斜線状に照らし出す。光のうちの一つが、ベッドで横たわる人物の姿を浮かび上がらせた。
「ひっ……!」
ガンナーは悲鳴を漏らしてしまった。ベッドの人物の顔に蛆が蠢いていた。落ち窪んだ眼窩は白く濁り、毛根から抜け落ちた髪が枕に付着している。
鼻を衝いていた臭源はベッドの死体からだったのか。すると、それに屈んで食事をしているのは何者なのだ?
ガンナーの漏らした悲鳴に応えるように、立っていた人物がゆっくりとこちらに振り向いた。
目が合ったその瞬間、全身の毛がぞわりと逆立った。
それは自分と同じくらいの年齢の女性に思えた。しかし普通の人間ではなかった。なぜなら彼女もベッドの死体と同じように、顔が腐っていたからだ。黒く澱んだ顔色に、頬の肉は削げ落ちて顎の骨がみえている。口元からは真っ赤な血が垂れ、生気のない目でガンナーを視認すると『あ』とも『お』ともつかない呻き声をあげながら両手を伸ばして近寄ってくる。
「とまりなさい、近づいたら撃つわよ!」
対人戦闘の経験から反射的に警告をしたが、ガンナーにはわかっていた。
半生半死――いや。
これは、ゾンビというべきか。
コイツは私たちとは違う。
生きている人間じゃないんだ。
一歩後ずさり、腰のホルスターに手を伸ばすと女の胸を狙って二発速射した。
魔物だろうと化物だろうと、心臓を狙えば致命傷になるはずだ。しかし
「嘘でしょ……?」
女は着弾時にのけぞったものの、何事もなかったかのように再接近してくる。
効いていないのか、あるいは致命傷にならなかったのか。
ガンナーは三連発式の拳銃(ハンドガン)の最後の一発を温存したまま、廊下へと後ずさる。
予備の弾はあるが、先込め式の拳銃では再装填に時間が要る。ここは後退すべきと決断したとき、背後で破裂音がして鋭い音がガンナーの左耳を掠めた。
過ぎ去った音は女の額に風穴を空ける。
女の歩みが止まり、両手が落ちる。
女は頸をさらしだすように頭をあちら側へかくんと倒したままベッドへ倒れた。
最初は音の正体を弩と思ったが、違う。
今のは拳銃だ。背後から誰かが女を撃ち倒したのだ。
ガンナーはゆっくりと廊下へ振り返った。
そこには奇妙な仮面の男が立っていた。顔は下顎から額まで覆う黒いマスクに隠され、一見ペスト医師のマスクに似ていたがレンズは大きく、嘴部分がない。
衣服や頭の鉄鉢、膝や肘のサポーター、レースアップブーツから手袋にいたるまで黒一色で、まるで夜盗や暗殺者のような色彩だが、腰や肩に巻かれた弾帯や首に提げられた火器――それも見慣れない形状の――から察するに、彼は特殊な任務に就く兵士に思えた。
「……報告しろ」
男が詰め寄ってきた。額が触れ合うような至近距離である。
「報告するんだ」
「……報告?」
復唱したところで、室内に異変が起こった。
ガンナーの背後から、樹皮が剥がれるような甲高く耳障りな音が聞こえたのだ。
振り返ってみれば、倒れた女の体から黒い巨大な影のようなものが飛び出し、天高く伸びているではないか。女から飛び出した影は、黴が風呂場の壁を覆っていくように瞬く間に女を含む周囲の空間を黒く埋め尽くしていく。
暗くて遮るもののない闇の中を、影は際限なく蔓延していき、寝室そのものが黒い穴のようにしか見えなくなってしまう。
「モールデッドに変異したか――――」
男が呟き、首から提げていた火器を構える。
ガンナーには何のことかわからなかったが、屍肉を食いあさっていたゾンビがより凶悪な変異を遂げていると察しがついた。
びくりと、黴に覆われていたゾンビの体が動く。
繭から孵るようにゆったりと身を起こした体は、先程とはまるで異なる変身を遂げていた。
植物の蔦のようなものが腐りかけの体表を覆いつくし、おぞましい姿になっている。
頭部も同じように黒い蔦で覆われ、目があった部分には穴のようなものが空き、歯にいたっては肉食獣のような鋭い牙に生え換わっている。
「……っ!」
ガンナーは咄嗟に横に跳び、勢い余って衣装箪笥――らしきもの――に右肩をぶつけた。急接近したモールデッドが鋭い爪を槍のように貫いてきたのを回避する為の行動だった。
モールデッドは悠然とした足取りでガンナーを追ってくる。
ゾンビ状態とは移動のしかたがまるで違う。ゾンビが食欲に突き動かされている骸なら、モールデッドは明確な殺意をもって襲いにくる化物だ。
ガンナーが銃をかまえた瞬間、タタタタタタタタ…………と、後ろの男が発砲した。
音を聞いた時点ではそれが銃声だとは思えなかった。
これほどまでに途切れずに一定の声量を保つ銃声を、ガンナーは耳にしたことがなかったからだ。
それでも発砲したとわかったのは、視界の隅で銃口炎がせわしなく瞬いているのが見えたから。
あびるように銃弾を受けたモールデッドは――腕で頭部を防御する点もゾンビと異なる――ヘドロのような体液をまき散らしながらその場に倒れ伏す。
男は倒れたモールデッドの頭部に単発で二発撃ち込んで死亡を確認すると、音もなく廊下へ駆け戻ってしまった。
「待ってよ!」
男の背中を追ってガンナーも廊下を走る。装備は暗色なので、明りのない館の中では少し離れただけで見失いそうになる。置いてかれまいと、ガンナーは必死で追いかける。
「応答せよナイトホーク」
男は自分の手首を口元にあて、誰かに話しかけている様子だった。
「’検体’の奪取に成功したが、隊員とのコンタクトは失敗。既に死亡したものと思われる。これより集合地点に向かう」
『こちらナイトホーク。またアンタだけか’死神’。指定時刻に遅れるなよ』
まるで気球艇の無線機越しの会話だが、通信端末があんなにも小さいわけがない。だがたしかにこの男は、死神と呼ばれたこの男は誰かと会話をしていた。
「死神? それがアンタの名前?」
「…………」
死神は何も応えない。
ふと死神が足を止め、ガンナーはつんのめる。
「どうしたの?」
「……銃は使えるのか?」
そう訊いて、死神が前方を指差した。よく目を凝らしてみるが、濃密な闇が広がっているだけでガンナーには何も視認できない。
しかし、この奥から聞こえる無数の呻き声とギシギシという何かの軋む音に厭な予感を覚えた。
雷光が照らし出したのは廊下の奥に作られた椅子やテーブルを針金で固めただけの粗末なバリケード。そしてその奥で蠢く、個々の境界がわからなくなるほどのゾンビの大群であった。
ここまで読んでいただきありがとうございました。後半に書いた作品は『バイオハザード』とクロスオーバーさせた作品です。
ガン子ちゃんが死神こと『ハンク』とともに館から脱出するお話にしたいのですが、ただえさえ合わない両作品の世界観がぶち壊されそうなので完成させるのは無理でしょう……。
それに、お客さんもいないでしょうし……。変なクロスオーバーさせずに、本編をなぞった物語を描いた方が需要ありそうですね。SWITCHで世界樹の新作が発売されたら、pixvだけでなく、こちらにも二次創作を投稿しようと思っているので、そのときはよろしくお願い致します!
また、オリジナル作品も投稿しているので、そちらもぜひ一読下さいませ!