亜種特異点 獣病隔絶都市ヤーナム   作:山田澆季溷濁

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「大橋」

 ヤーナム市街。それは、ヤーナムの中心地から少し離れた場所にある一つの地区。天を貫かんとする聖堂街の建造物と違い、この市街の建造物はかなり庶民的なものが多かった。実際に、ヤーナムに住む一般市民の居住区はここに集中しており、複雑に入り組んだ路地や大広場には、それこそ活気溢れる賑わいがあった。

 それは獣狩りの夜においても、まったく同じことが言えた。自身が獣の病に侵され、そして人ならざる者に退化したことすら理解できない者共が、それでも獣を狩ろうと本能のままに闇夜を跋扈するのだ。その様子は、まさしく百鬼夜行。群れをなした獣の蕩けた瞳には、正常な人間こそが獣に映るのだろう。

 

 故に、獣狩りの夜に出歩くべからず。

 群衆の最後尾に加わりたくなければ、獣狩りの狩人に暁闇を任せよ。

 しかし、忘れることなかれ。狩人に夜明けは無い。故に、聖剣の英雄に居場所無し。獣を狩ることが出来るのは、もはや人の領域を越えた者にしか出来ないということを。

 

 

 カルデアでくつろいでいた藤丸と邪ンヌの二人は、何の前兆もなしにヤーナム地方に飛ばされてしまった。自身らが置かれた環境に、難なく適応できたのは、それこそ二人が幾度となく特異点を修復し続けた正義の味方だからであろうか。とにかく、奇想天外な現象には慣れている様子の二人であった。

 そんな二人が現在理解していることは、『獣の病』という正体不明の風土病により、『医療教会』と『狩人』が、獣に変容した群衆を殲滅する──『獣狩りの夜』が行われている。という仕組みだけだった。

 

『ギルバート』という親切な男からの情報から、カルデアのサーヴァントである、降臨者(フォーリナー)、ファン・ゴッホが同じくこのヤーナムの地に居ることが判明した。

 瘴気渦巻くヤーナム市街。だからと言っていつまでもこの場に留まる訳にも行かず、藤丸と邪ンヌの二人は、ファン・ゴッホと合流することを第一目標に定め、彼女が向かったとされる『オドン教会』を目指して足を踏み出したのであった……。

 



 

「ちょっと、邪ンヌさん! 少し歩くのが早いんじゃないですか!?」

 

「ハッ! 獣が炎に弱いということが分かったら、この私が獣狩りの夜とやらに幕を引いてあげるわ!」

 

 二人の行く手を阻む獣どもは、ことごとく邪ンヌの炎で黒焦げになっていった。あまりにも快調すぎる道中に、慢心の意を隠さずに曝け出していた。言うなれば、かなり危険な状況である。「イケる」と思った時、その時点で既に敗北しているのだ。しかし、アドバイザーがいなければ、指揮官もいないこの状況では、戦闘を行い、道中を蹂躙することが出来る邪ンヌが実質の指揮権を持っていたのだ。

 マスターとしての威厳もへったくれもなく、ただ邪ンヌが通過した後の、黒焦げの死体が散乱する道を歩く藤丸は、何とか彼女についていくことが精一杯であった。

 

「アハハ! 楽勝楽勝! 『工房の狩人』が何だって言うのよ! 最強の狩人だか何だか知りませんけど、私の憎悪の方が強いんじゃないですか!?」

 

「邪ンヌ! いつもそうやって突っ込んで退場してるじゃないか!!」

 

「ハンッ! 雑魚のマスターは私の勇姿を記録しておきなさい! 今日から『竜の魔女』から『竜の狩人』に改名しましょうか!?」

 

 大きく高笑いしながらガンガン前進する邪ンヌ。こういう時、大抵魔力切れを起こして途中退場するのだ。しかも、退場の寸前に「ただでは死ぬまい」と言わんばかりに、渾身の宝具を展開させるため、余計タチが悪いのだ。

 恐らく、この市街地の大広場を焼き尽くす程のでゅへいんをして終了になるのだろう。

 彼女が必要以上に張り切りすぎるのは、その尖ったプライドと聖女の側面という出自が原因なのだが、その根幹にあるのはマスターに認めてもらいたいという溢れんばかりの承認欲求なのだ。

 素直じゃないところも彼女の魅力なのだが、せめて魔力のご利用は計画的にして頂きたい今日この頃である。

 

「犬コロも獣の病に感染するんですね。ちょこまかとされるのは面倒です」

 

「あぁ~、もう滅茶苦茶じゃないか……。特異点だと確定したわけでもないのに……」

 

 藤丸が深くため息をついたその時、

 バアアン!! 

 

「いったぁ!! 新宿の私服だったら死んでたんですけど!」

 

 獣の病に身を窶した犬の処理に苦戦していたところを、荷馬車の上に乗った男から狙撃される。認識外からの攻撃に対応が遅れ、そのまま被弾してしまったのだ。

 傲慢な態度を取っていた邪ンヌの表情が、漆黒の甲冑にヒビが入るのと同時に青ざめていった。胸の真ん中、丁度心の臓辺りに亀裂が入った甲冑を撫でる。調子に乗って私服やいつぞやのパーティーで着用したドレスを着ていたら、今頃はそこらに転がる焼死体と共に地べたに伏していたことだろう。

 

Beast! You foul beast!(汚らわしい獣が!)

 

「プッチーン。はい、キレました。謝罪しても許しません。デュヘります*1」                                                                                                                                                                                      

 

 邪ンヌはその言葉通りに、片手に持った憎悪の旗を翻した。かつてのフランス・オルレアンで敵対した藤丸は理解していた。邪ンヌの宝具は、それこそ即死へと誘うような優しいものではないということを。

 周辺の怨念を魔力に変換し、対象の肉体を骨髄まで焼き焦がす。それは、彼女がそう処刑されたように、彼女もまたそう処刑するのだ。その圧倒的破壊力を持った宝具には美術的なセンスは無く、ただ一方的な殲滅を行うのみのものであった。

 もっとも、彼女の宝具の恐ろしさは苦痛を伴うことではない。火力の本質は、周辺の怨念を魔力に変換させること。それ即ち、周辺の環境が血と欲望に塗れている場所であれば、それこそこの世に地獄を顕現させることになるだろう。まさにヤーナムのような、冒涜的な土地であればあるほど、その宝具は比類なき力を発揮するのだ。

 

「これは憎悪によって磨かれた我が魂の咆哮!!」

 

「ちょっと待て! オーバーキルすぎるって!!」

 

吼え立てよ、我が憤怒!! (ラ・グロンドメント・デュ・ヘイン!!)

 ゴオオオオオオオ!! ドドドドドドド!!!! 

 

 僅かに一瞬、ヤーナム市街を眩い光が包み込む。鼓膜を突き刺す程の爆音が、身を浮かせる程の風圧の後に遅れてやってくる。爆発に昇華した炎の渦は、本来であれば都市区画を覆うレベルのものではない。しかし、ヤーナムの──あるいは、その地下深くに眠る遺跡の怨嗟が、彼女の宝具に更なる力をもたらしたのだ。

 目の前に出現したのは大広間だったもの。今やその面影は無く、元がどのような物だったのか判別できないような物が付近に転がっているだけの空間がそこにはあった。

 

「ちょ、え、……え?」

 

「邪ンヌ……」

 

 醜悪な風貌の──獣となった市民たちの姿は、邪ンヌの宝具によって塵芥と化した。

 それほど覚悟がキマっていたのか。それほど甲冑にヒビを入れられた事が気にくわなかったのか。とにかく、藤丸は超火力による一方的な蹂躙を目の当たりにして、賞賛の意を示すよりも、旗を持って立ち尽くす彼女の後ろ姿にドン引きしてしまった。

 

 もっとも、それは彼女にも言えることであった。

 

「いえ、違うんです。まさかここまで怨念が積みあがっていたなんて思わないでしょう?」

 

「切り札はもう少し丁寧に使いましょうね……」

 

「……ごめんなさい」

 

 二人は煤に覆われた大広間を歩く。先程と異なる部分は、異臭を放つ獣の存在がないことと、邪ンヌが藤丸の後ろを付いていく形の、いわゆるドラクエ式で道を歩いているということだった。

 やはり彼女なりに反省しているのだろうか。アホ毛をへたり込ませたその姿には、先程のような覇気は無く、トボトボと歩く姿がそこにはあった。

 

 しょげている彼女の姿を可哀想だと思う者はいないだろう。自業自得だという言葉もあるのだが、それ以上にもはや見慣れた流れであったからだ。

 一通り暴れた後に後悔する。それは、夏の霊基ではしゃぎ過ぎた姿を、皆から後日ほじくり返されるかのように。

 

「まぁ、結果的に歩きやすくなったけどね」

 

「何のフォローにもなってませんけど……」

 

 二人は大型の獣が磔にされていた大広間を通り抜ける。真正面にある門には閂が施されており、反対側からそれを破壊せんと何かを叩きつける音が響いていた。

 大広間に沿って建築された住居からは、絶え間なく叫び声や咳をする音が聞こえて来た。ドアをノックしても、異邦人に対する心無い言葉を吐き捨てられるだけで、特にこれといった有益な情報は得られなかった。むしろ、獣狩りを行うはずの狩人たちに対する恨みの言葉や、医療者に対する憎しみの声すらあったのだ。

 邪ンヌは、自身の宝具が超強化された原因を半ば垣間見た気がした。

 

 スラング交じりのゲロ以下の言葉を聞いた邪ンヌは、眉間にシワを寄せながら足早に歩く。

 どこの国の、どこの地域でも同じなのだ。死に関連するものを扱う者たちは、忌避されることが多い。それは狩人にも同じことが言えるのだろうか。しかし、「ギルバート」から聞いた「工房の狩人」の話には、どこか英雄的な意味も含まれていたのだ。

 

 藤丸と邪ンヌは、大広間の先にある、水が流れない噴水広間に辿り着いた。かつてはここにも人々が賑わいを見せていたのだろうか。しかし、現在では見る影も寄る辺もなし、ただ丸々と肥えたカラスたちが死肉を啄んでいた。

 

「見て、死肉を食らったカラスが飛べなくなってます」

 

「あんま近づかないようにね。どんな病気持ってるか分からないし」

 

 藤丸はカラスの集会所を無視して歩く。邪ンヌもそれに従って後をついてくる。

 死肉カラスたちも、二人を新たな獲物だと認識したのか、その邪ンヌの足跡を追跡する。しかし、肥えて飛べなくなったカラスには追うことはもはや難しく、しばらくして元の死肉の場所に戻って行った。

 

「多分、ここを通ると大橋みたいだ。聖堂街に繋がってるらしい」

 

「多分じゃ信用できません。私だったら罹患者だらけの市街に繋がる大橋なんて封鎖しますけど」

 

 邪ンヌが焦土と変化させた大広場では、確かに門の向こう側──つまり現在地の噴水広場から門を叩く音が聞こえた。だが、門に寄ってもその物騒な物音を発生させていた何者かと相まみえることは出来なかった。

 そこにあったのは、かなり大柄な男の死体だけだった。無残に放棄されたその死体は、紛れもなく獣の病の罹患者だった。付近に散らばるレンガや木片の様子から、この男が門を叩いていたことには間違いない。

 まだ温かい死体に近づく。

 

「切り傷……。それだけじゃない、内臓が抜かれています。かなりの変態の仕業よ」

 

「オレたちが大広場を燃やし尽くした時には、まだ門は叩かれていた。もしかしたら、コイツを殺した奴が近くにいるかも」

 

「臓物をもぎってく奴が味方な訳ありません。どいつもこいつも、ここにはバーサーカーしかいない訳?」

 

 内臓を回収すると言えば、真っ先にジャック・ザ・リッパーを連想するのだが、この地面に転がる死体につけられた傷は、彼女が扱うナイフのような鋭利なものではなかった。

 まるで、ノコギリのような物で、骨ごと強引に砕いたかのような傷痕であった。

「殺された」というよりも「片付けられた」と表現した方が適切だろうか。とにかく、この死体もやがて新たな腐臭の温床になるのだろう。

 せめてもの弔いとして、藤丸は胴に穴が空いた死体を焼却するよう邪ンヌに指示した。

 

 市街を見下ろす聖堂街。ヤーナムの生命線たる医療教会の本拠地がある場所である。獣狩りの夜になると、医療教会の狩人たちが、この大橋を渡って市街地に救済をもたらすのだと言う。

 言うなれば、この大橋は救済の道。聖堂街に続く大門が再び開かれる時、それ即ち、獣狩り完了の合図であった。

 ──つまり、獣狩りが終わらない限り、その大門が開かれることは無いのだ。

 

「うわ……、死体の山……」

 

「こんなの虐殺じゃない……。早く通り抜けましょう?」

 

 診療所で遭遇した大型の獣が二体と犬が二体。更に理性を失い、獣へと変化した人間だったものたちが、原型を留めていない程ぐちゃぐちゃになって積まれていた。

 まるで一つのモニュメントのようにも見えるその塊は、きっと噴水広場を一掃した者の仕業なのだろう。これには流石の邪ンヌもドン引きらしい。

 あまりにもグロテスクかつ衝撃的なソレを、正面から直視しないように先に進む。

 

 その塊だけではない。至る所に獣の山が積まれていた。地面に流れる濁った血液は、未だ凝固することを知らず、戦闘の凄惨さを物語っていた。

 

「狩人ってのは、とんでもない奴らなのね……。これじゃあキラーマシンじゃないの」

 

「獣の病の罹患者たちだって、元々は同じ人間だったんだ。これはあまりにも惨すぎる……」

 

 一般青年の藤丸からすれば、地面を埋め尽くすほどの臓物など、見るだけで吐き気を催すものなのだ。

 だが、藤丸と邪ンヌの前を歩いてくれた者──冒涜を極める狩人の所業のおかげで、二人は比較的安全に道を歩くことが出来た。もっとも、SAN値が削り取られる程の道であったのだが。

 ムカデのような蟲が、飛散した血溜まりからモゾモゾと這い出て来るのを見ると、気味悪く感じた二人は急いで大橋の方向に爪先を向けた。

 

「ボロボロじゃない…………。かつてはキレイだったんだろうけど、今じゃ見る影も無しって感じですか…………」

 

「大橋だけじゃないよ。どこもかしこもボロボロだ。管理する人も、みんな獣になったのかもね」

 

「教会の聖職者が獣になるものなの? それはそれで皮肉が利きすぎだと思うんですけど」

 

 大橋の先──藤丸と邪ンヌの目線の先に、朽ち錆びた門があった。長年開かれていないからだろうか。否、門に付着した血液が酸化し、腐食を進行させていたのだ。

 厚く、汚れ、そしてこびりついた汁が混ざり合い、何やら形容し難い色に変化していた。およそ医療教会の根城に繋がるとは思えないその門は、そこにあるだけでこの地の異常さを物語っていた。

 しばらく歩き、うっすらと見えていた聖堂街の時計塔が塀に隠れ始めた時、藤丸は何か妙な点を発見した。

 

「……ゴッホは、聖堂街のオドン教会に向かったんだよね?」

 

「そうですね。そのオドン教会とやらが何処にあるかは知りませんけど?」

 

「だったら、この門を通ったはずなんだけど……」

 

「……あっ、そういうことですか」

 

 門は固く閉ざされていた。聖堂街側から、恐らく閂でもされているのだろう。藤丸と邪ンヌは顔を合わせる。何も聖堂街に向かう方法は別にあるのだ。ただ少し遠回りになるというだけで、状況が絶望的になった訳ではない。しかし、門が開かないということは、ゴッホとは全く別の道を歩いてきたということでもあったのだ。

 仲間と合流する機会が遠のいたということだけが心残りだった。二人は聖堂街に続く門に背中を向け、また異なる道を探すのであった。

 その時──

 

 ギャアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!! 

 

 門の向こう側、聖堂街の領域から、耳を引き裂くような叫びが聞こえて来た。

 

「ちょ、ちょっと! かなり近いんじゃない!?」

 

「門の向こう側からだ! かなり近いぞ!!」

 

「だからそう言ってるじゃない!!」

 

 二人は数歩後ろに引き下がる。足を地面に擦り付けるように。

 やがて、大橋の一部を黒い影を覆った。沈みゆく陽光を遮るように、その巨大な生物は二人の前に立ち塞がった。

 

 ──聖職者の獣──

 黒く汚れた体毛は、恐ろしく、それでいて威圧感を与えるものであった。市街地を跋扈する獣とは明らかに違う異形の存在であり、浮き出た肋骨に薄くへばり付いた表皮と、頭部から生える羊のようなその双角は、ただその場に降り立ったというだけで藤丸と邪ンヌを圧倒させた。

 まさか、獣の病がここまで人の身を変態させるとは思わなかったのか、ヤーナムの闇──虫と、精霊による呪いが生み出したその獣を見つめたまま、二人はついに動く能力を失ってしまった。

 

「あ、あぇ……。どうしましょう、マスター……?」

 

「ゆっくり、ゆっくりと後ろに下がるんだ……。絶対に目を合わせちゃダメだ……」

 

 熊に遭遇した時、もっとも取ってはならない行動は、背中を向けて逃げることだと言われている。何よりも野生動物は動くものを追いかける習性があるのだ。それに加えて、視線が合ったものを警戒するのだと言う。ならば、藤丸たちが取るべき行動はたった一つ。音を立てずに、人工物のように静かに後退ることだった。

 ジリジリと足を動かす二人。聖職者の獣は視覚が優れていないのか、それとも、そんな二人に接近し、蕩け切った瞳を近づけて観察した。それも、鼻先が触れ合う程の距離で……。

 

『フシュルルルルルル……』

 

「(ひぃぁぁ……! 近い、臭い、汚いぃ!!)」

 

「(落ち着いて! じっとしてれば手出しはしてこないはずだから!!)」

 

 聖職者の獣は、沈む陽光の残滓を反射する邪ンヌの鎧に興味を持ったようだ。漆黒に輝くその光沢は、それだけでカモフラージュの障害となっていたのだ。

 

「(な、なんで私なのよ! 可食部位ならマスターの方が多いでしょう!?)」

 

「(いや、それはホラ。邪ンヌの肉付きは柔らかいから……)」

 

「(まとめて燃やしますよ!?)」

 

 藤丸は、邪ンヌの胸元に揺れる二つのデカ肉を見つめた。普段であれば強烈な蹴りの一つや二つ飛んでくるのだが、今回は非常事態もいい所である。

 顔面の筋肉を歪ませ、心の底からの拒絶を表現する邪ンヌ。彼女の艶やかな前髪は、聖職者の獣の鼻息によって揺らいでいた。腐った生ゴミを更に煮込んだような臭気が邪ンヌと藤丸を包み込む。

 

「(う˝っ……! 吐きそう……!)」

 

「(邪ンヌ! 我慢して我慢!!)」

 

 獣が醜く裂けた口を開き、鋭利な牙を露わにする。二人と獣の体躯は、それはそれは何倍もの差があるので、丁度邪ンヌの頭頂部に濁った唾液が降りかかるのであった。

 

「あ˝っ……、むりかも……(自主規制)……」

 

『ギャアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!』

 

 邪ンヌの口からナニカが漏れ出たと同時に、聖職者の獣の獣は二人の存在を感知した。そして、視界に入れただけで身の毛がよだつ程の爪を地面に擦り付け、大きな咆哮を上げた。いや、咆哮というより叫び声だろうか。知的生命体とは最も逆の位置に鎮座しているであろうその獣は、何の容赦もなく邪ンヌの頭部に牙を向けた。

 

「危ないッ!!」

 

「ぐぅえええ!!」

 

 藤丸が邪ンヌに飛び込み、寸での所で丸かじりは回避できた。しかし、予備動作も何も取っていなかった邪ンヌは、そのまま固い地面にダイブすることとなってしまった。

 敵性存在の初撃を回避できたとは言っても、現実はターン制のバトルではない。相手は、こちらの息の根を止めようと攻撃を繰り返す。

 

「ちょ、ちょ、ちょ!! 勝てる気配がしないんですけども! 負けイベントなんじゃないんですか!?」

 

 邪ンヌが旗を掲げ、真黒の炎を発生させる。

 しかし、いくら獣の身を焼こうとも、たちまちその火は搔き消されてしまうばかりで、その時の彼女が唯一出来たことと言えば、獣を周りを囲むように炎の円陣を作ることだけだった。

 本来であれば、自身の何十倍もの大きさを誇るエネミーに対しても何の問題もございませんというような感じなのであったが、今回ばかりは何故か火力が出なかった。

 

『グルグルグルグル…………』

 

 聖職者の獣は炎を嫌悪する様子を見せ、そして満足な身動きを取れずにいた。多少の時間稼ぎにはなったのだろうか。

 

「ジリ貧ですね…………」

 

「調子に乗ってデュヘインするからだよ」

 

「はっ倒しますよ!?」

 

 地獄の炎を顕現させた所で、その燃料は魔力由来の物なのである。やがて、ジリジリと焦げ臭い臭いを吐き出しながら炎は消えていく。

 相手がどのような生き物なのか、はたまた生き物と呼べるのかを存分に観察したいところであったが、状況は不利の一方。邪ンヌが宝具を温存していれば、あるいは…………。

 

「逃げますよ! マスターちゃん。私の囮になりなさい!!」

 

「オレが死んだら邪ンヌも座に還るんですけど!?」

 

 二人は闘争ではなく、逃走を選択した。あくまで戦略的撤退なのであって、敵前逃亡ではないということを忘れてはいけない。

 現実においても、ガタイが良い上にスピードを備えている生き物は問答無用で強いのだ。故に、この獣と正面から殴り合うというのはまさしく愚か者が行うことなのだ。(ましてや、武器を持たずに素手で戦おうなど、虚言癖の修飾主義者か、もしくは生粋のマゾしか行わないことである)

 

 二人は聖堂街方面とは逆の方向に退散する。しかし、橋の装飾であるアーチから、霧のようなものが立ち込めて壁のように退路を封じていた。結局、否応なしに獣と刃を交えなければならないらしい。

 こめかみの辺りを、冷たい汗がたらりと流れた。

 その時──

 

『キイヤアアアアアアア!!!!!!』

 

 獣は空高く飛翔し、藤丸の傍に爆風と共に着地すると、そのまま頭部の角で藤丸と邪ンヌを遥か上空にかちあげた。

 

「お! お! お! おあああああああ!!!」

 

「ぎゃあああ!? 下、したしたした!!」

 

 安全装置の無いジェットコースターに乗車したような感覚であった。定まらぬ視界の中で、邪ンヌが辛うじて目撃したのは、自身らの落下点であんぐりと口を開ける獣の姿だった。

 掴まる物すらまともにない上空。そのような状況で回避行動を取れと言うのは流石に酷な話である。逃げることはもはや不可能。生存する手段は、奇跡を懇願し、そしてそれを顕現させることだけだった。

 だが実際問題、このヤーナムの地には、神はおろか奇跡など存在しない。存在しているとすれば、それは神と呼ばれる得体のしれない何者かと、その残り香である神秘だけだろう。

 もし何かの間違いで、人ならざる神秘を瞳に宿した所で、その肉体無傷では帰れまい。

 

「あっ、あっ! あっ!! マスターあああああ!!!」

 

 およそ聖女の側面だとは思えない形相をする邪ンヌ。それでも決死の一撃を放たんと旗をたなびかせるその姿には、やはり人類史の英霊としての威厳がそこにはあった。

 だが、いくら何でも状況が悪かった。自分ひとり天空に吹っ飛ばされるのならまだしも、総大将である藤丸共々自由落下しているのだ。自身の骨身を炎に包めば、獣に触れた瞬間に戦況を有利にさせることが出来たのだが、それを決行すれば藤丸は地面に叩きつけられて即死してしまう。藤丸を抱きしめて着地すれば、それこそ獣の胃袋で融合することになってしまう。自分が囮になっても、戦闘能力が雑魚なマスターがうまく逃走することが出来るのか。──彼方立てれば此方が立たず。どうしようもない取捨選択に対して、はっきりとした答えを出せずにいた邪ンヌは、それでも「せめてマスターだけでも」と旗の先端で藤丸の体をどつき、橋の支柱にぶつけて落下速度を殺し、そして自身から遠ざけるようにかなぐり捨てた。

 

「いってぇ!? 助かったけど脳筋すぎる!!」

 

 バクンッ!! 

 

「はぇ……? 邪ンヌ? ……どこ?」

 

 クチャクチャ…… ゴクン……

 

 かなり強い力で柱に叩きつけられたらしく、藤丸の肉体はミシミシと悲鳴を上げていた。何とか顔を前方に向けるが、そこには満足げな表情を浮かべる獣が居るだけで、親愛なるサーヴァントのジャンヌ・ダルク・オルタの所在は確認出来なかった。

 行儀作法のなっていない咀嚼音を響かせ、獣は足を前に踏み出す。藤丸──肉を断ち切るための武器を持っていない、それこそ丸腰の人間──など取るに足りない、歯牙にも欠けぬといった風にゆっくりと距離を詰めて来る。

 

「……終わってんじゃん」

 

 無力。所詮は人間なのだ。それも狩人でもなければヤーナム市民でもない。加えて逃げ場もないと見える。仮に、獣の牙に挟まるヨゴレになろうとも、爪を彩る肉片になろうとも、前回──診療所にて罹患者の獣に喰い殺された時──のように謎の空間に転送されるのだろうが、だからと言って苦痛を伴う逃避というものに対してはどうしても遠慮腰になってしまう。

 すぐにでも大橋から身を投げ、獣の胃袋にて眠る邪ンヌと合流することを考えたが、もし、何かの間違いで目覚める事がなかったらと考えると、どうしようもなく足が震えてしまうのだ。

 

『クルルルルル……』

 

「こいつ! オレを見て遊んでやがる!!」

 

 敵を敵と見ていない様子。これが本気の果し合いであれば、屈辱の限りなのであるが、今回ばかりは相手の知性の無さをありがたく感じた。

 脱出できないということは、それ即ち外来から侵入することも出来ないということ。孤立無援の藤丸の残された手段はたった二つ。

 一つ目は、とにかく自害して戦場から離脱すること。

 二つ目は、獣の攻撃を回避しながら、聖堂街の高壁をよじ登ること。

 どちらにせよ、死ぬことはほぼ確定していた。

 

「ちくしょおおおおお!!」

 

 ブスッ……

 

「ん……?」

 

 藤丸は何もできない自身の無力さに、右手を振り下ろして地面を叩いた。勿論、何かが起こるはずもなく、ただ静かな時間が流れた。

 だが、獣の動きも止まっていた。藤丸は「動かないのは自分をいつでも始末することが出来るから」という慢心からの行動なんだと考えていたが、実際の所はそんなものではなかった。

 よく見ると、獣の腹部から鮮血に塗れた黒剣が飛び出しているではないか。

 

「グロロロロ……!!」

 

 獣が藤丸を無視し、自分の腹部を掻き毟る。しかし、外部からの攻撃ならまだしも、内部からの──それも内臓、この獣に胃袋があるのかどうかは分からない話だが──損傷だった。当然、爪で引っ搔いた所でむしろ、皮膚が傷付くだけで、絶えず剣は獣の腹の肉を削ぎ落としていた。

 

「邪ンヌだ! 邪ンヌが細切れになってまで内側から攻撃してるんだ!! 途轍もない生存能力!! 腐っても第一特異点の大将だ!! あぁ~スゲぇや!!」

 

 ボォッ!! 

 

「熱ッ!? やっぱ邪ンヌだわ!!」

 

「ギャアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!」

 

 たまらず叫び声を轟かせて抵抗する聖職者の獣。数回大きく跳ね上がり、そして着地を繰り返すと、腹部から飛び出ていたはずの邪ンヌの剣はそこには無かった。曲がりなりにも現在の邪ンヌは獣の体内に居るのだ。乗り込んだ車両が横転を繰り返すような感じか、少なくとも無事ではいられないだろう。

 

 その時、藤丸は自身の右手の甲を見た。幸い、令呪は三画。邪ンヌは座に還っていない。彼は、あまりにも無茶苦茶かつ彼女の尊厳を破壊する活路を見出した。

 

「オラァ!! 令呪を持って命ずる!! 邪ンヌを全回復!! ついでに魔力補充ゥ!!」

 

『キィイイイイヤアアアアアアア!!!!!』

 

 令呪が輝き、それと同時に獣の腹部から頭蓋にかけて赤熱した光が昇ってゆく。それは、邪ンヌの宝具。聖職者の獣は、自身の体内を焼き尽くす程の熱を沈下しようと、大橋から飛び降りて下水道に避難しようとしたが、しかしそれも間に合わず。

 やがて大きな爆破と共に四肢が弾け、周辺には獣の臭い立つ血飛沫が巻き起こり、跡形もなくなった獣の残滓が藤丸と血に濡れた邪ンヌの姿を照らしていた。

 

YOU HUNTED

 

「…………」

 

「……何か言いたげな感じじゃないですか邪ンヌさん」

 

 邪ンヌは黙っていた。未だ降り注ぐ血の雨の中、ただ俯きながら藤丸の下に歩み寄った。

 そして──

 

「言いたげも何も! 上半身だけになりながら必死にヘイト買ってたってのに! なんで体内で蘇生させる訳!? 正気を疑うんですけど!?」

 

「ぐええええええ~~~!? ギブギブギブ!!」

 

「はぁ~~~! ほんっとアホらしい! 誰の為に胃液まみれ、血液まみれになったと思ってるの!? 実際討伐出来たから良かったものの、私じゃなかったら詰んでましたからね!!」

 

 胸倉を掴まれ、柱に背中を叩きつけられた藤丸は、ただ彼女に対して選択肢の少なさをアピールしていた。何にせよ、危機を脱する事ができたのだ。問題はその手段と方法なのだが……。

 

「ま、まぁ、どうしてもって言うのなら別に許してあげなくてもないんですけど……?」

 

「あっ、そういうラブコメの波動は間に合ってるので」

 

「マジでぶっ飛ばしますよ!?」

 

 

 固く閉ざされた大橋の門。その向こう側にある時計塔から、腹に響くような大きな鐘の音が鳴った。

 開かぬのならば仕方が無い。他の道を進むまでである。

 目的地は聖堂街。ファン・ゴッホが向かったとされるオドン教会へ。二人は騒がしく揉め合いながら元来た道を戻るのであった。

 

*1
吼え立てよ、我が憤怒(ラ・グロンドメント・デュ・ヘイン)の動詞形。普通にキレた時に邪ンヌが使用する言葉。

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