亜種特異点 獣病隔絶都市ヤーナム   作:山田澆季溷濁

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「オドンの地下墓」

『ゴッホちゃん? いつまで寝ているつもりだい? もうお昼時だよ?』

 

「エヘヘ……、もう五分だけ……」

 

『ゴッホちゃん。もう皆は起きてるよ? そろそろ働かないとダメだよ?』

 

「ん……。働きたくないでござる……」

 

『皆が黄色い家で待ってるんだってさ。早く行かないと、皆いなくなっちゃうかもよ?』

 

 

「はうわあ!?」

 

 ガバッ‼

 

 ヴァン・ゴッホは飛び起きた。額にへばりつく栗色の髪をどかし、痛む関節の節々を無理に動かして立ち上がった。別段悪夢を見ていた訳ではない。むしろ、生前の出来事が悪夢そのものであった為、余程の事態が起きない限り、彼女は飛び起きることなどなかったのだ。

 もっとも、その夢がどんなものであったのかを思い出そうとしても、いまいち曖昧なままでハッキリとしない。心の底──というよりは脳の中枢。心に影響を与えるのは脳の仕業だということを彼女は理解していた──にジワリと滲む不快感を抱きながら、ゴッホは自身の帽子を手に取った。

 

「はぁ……、なんなんでしょう。最近は落ち着いて来たというのに……」

 

 腰が、背筋が痛い。それもその筈、牢獄のような石畳の上で横になっていたのだ。それは体も冷えるし痛むというもの。そもそも、自分はカルデアのマスターの部屋で絵を描いていたはずなのに、見たこともない場所にいるのだ。混乱を極めた彼女は、ごちゃごちゃの脳内を整理することに努めた。

 

 状況整理の一環として、周辺の散策に赴く。記憶している直近の出来事は、青白い閃光に包まれて意識を失ったということだけ。そういえば、部屋には自身の他にもサーヴァントが居たか。しかし、考える度に頭痛が発生し、そしてただでさえ強靭とは言えない彼女の動きを阻害する。やがて彼女は記憶を探ることを放棄した。

 

「っていうか、ここは一体どこなんでしょう。エヘ、ゴッホ迷子……」

 

 ゴッホは四方を見渡した。薄暗い空が彼女を含めた都市を覆う。目を細めれば辛うじて見えるという範囲の中に、天を貫く時計塔や荘厳な教会が見えた。それは、紛れもない権威の象徴。現代の建築様式とは一線を画している都市の造りは、彼女の内なる芸術魂を刺激した。

陰キャ内向的な性格のゴッホであるが、だからと言ってその思慮深さは本物。冷静に行動できれば、優れた洞察力を駆使して万人にも引けを取らぬ活躍をする。ただ、少しだけグループワークが苦手というだけなのだ。故に、一人でいる時は抜群の推理力を発揮する。

 

「建物の感じを見る限り、欧州ですか……。都会(パリ)とはまた違う、日照権も無視してますし、下水もキチンと管理されてませんね。こんな所に住んでいたら病気にかかってしまいますよ」

 

「ま、まぁ、ゴッホは自然が近い住まいなのに病んでしまったんですけどね……。エヘ、エヘヘ。ゴッホジョーク……」

 

 目の前のランタンにもたれかかる。

 

「はぁ……。ですが、座に還っていない辺りを見ると、少なからずマスターさまが近くにいるんでしょうね……。不幸中の幸いと言うべきでしょうか。あぁ、これだからいけない。つい独り言が……」

 

 うっすらと目を開け、虚空を見つめる。その先に何があるかと聞かれれば、その実何も無いのだ。ただどうすることも出来ず、何故自分がこの地に呼ばれ、何を目的に行動すれば良いのかも見当が付かないという状況で、正解を導き出せという方が無理な話。大人しくしていることが一番なのだろうが、それを理解するには、彼女はこの地がどういう場所なのかを知らなかった。

 

「と、とにかく、しばらくここに居ましょうか……。マスターさまはゴッホと違って行動力溢れる方ですので、もしかしたらここを通るかも知れませんので……」

 

 煤汚れがこびりついた壁面にもたりかかり、そのままズルズルと腰を下ろした。地面が固いのが気がかりであったが、一息つける場所を求めてこれ以上迷子になることだけは避けたかった。何より藤丸 立香という魔力リソースの所在が分からない。ならば、魔力切れは死を意味する。牙が折れた猟犬など、誰が必要とするものか。奇跡的にマスターと合流できた時の事を考え、体力等を温存する事を選択した。

 

『誰かいらっしゃるのですか?』

 

「ふぇいいいい!? は、はい! はいはいハイ!! 居ます! おります! ここに居ますとも!!」

 

 ゴッホは飛び起きた。飛び跳ねたという方が適切だろうか。とにかく、予期せぬ人間の問いかけに驚きを隠せなかったのだ。それと同時に、自身の独り言の呟きも聞かれていたのではないかと思い、次第に彼女の表情は赤々と変化し、健康的なものになっていった。

 

 姿勢を正し、洋服の埃を払い、髪を整え、帽子を直す。ぎこちない笑顔を浮かべたのは、彼女なりの努力の証である。

 

『あぁ、こんな時分に少女が一人で出歩くなんて。悪い事は言いません。もうお帰りなさい。これより先は狩人の刻ですよ』

 

「は、はぁ……。よく分かりませんけども、ご忠告感謝いたしますぅ……フフ」

 

 窓の内側から聞こえる声。妙にしゃがれているその声は、男性の身が何らかの病魔に侵されているからなのか。ゴッホは背伸びをして窓の内側を覗こうとした。しかし、世間一般から見ても異様とも言える靴を震わせた所で、ギリギリ背丈が足りず男性の御尊顔を拝見することは出来なかった。

 

「ですけどもね、ですけどもね。ゴッホ……いえ、私にはここが一体どのような場所なのかも分からないのですよ。はて、目が覚め、気づけばこの地。右も左も分からぬ始末。さしずめ、私はマスターさまのいない野良サーヴァントにまで身を堕としてしまったのですよ。帰れだなんて言われましても、肝心の帰る場所が見当たらないのですよ」

 

『それは、何ともお気の毒に……。今にでも扉の鍵を開け、貴方を家の中に避難させ、そして夜明けを共に待っていたというのに。生憎、私は病に蝕まれている人間。しかも他の生物にも感染すると聞きます。えぇ、何とも残酷な話ですが、私に貴方を救済する手段はありません……。最早(もはや)市街は健康体の人間の方が少ない。教会の狩人も姿を消してしまいました。やがて、ここも旧市街のように浄化されてしまうのでしょうか……ゲホッゲホッッ! ゴホッ!』

 

「嗚呼、いきなりまくし立てるから……。と、とにかく、ここも安全じゃないってことでよろしいのでしょうか……? だ、だったら何処へ向かえば……? エヘ、エヘヘ……。画家を志し、狂人と蔑まれた後に、マスターさまに札束でビンタされて、ついに召喚されたと思いましたら、今度は異邦の地で流浪人ですか……。まったく、いつも損ばかりじゃないですかやだー……」

 

 ゴッホはペタリ、と地べたに座り込んだ。

 ゴホゴホと咳を上げる男(別にゴッホと掛けた洒落ではない)。肺から漏れる音は、聞く者にまで不快感を与えるものであった。暫くして、ようやく落ち着いた男は、自身の生まれた星の運命を悲しむ少女に、いくつかの知識と助言を施した。

 

『もし、もし? 無事ですか?』

 

「あっ、はい。何とか生きてます。生きてるって言っても一回心臓止まってるんですけどね。個人的な問題で、自主的に。……あっ、冗談です。ジョークです。エヘ、エヘ、ごめんなさい、何でもないです」

 

『……。もし、貴方の仰る通り、本当に住まいがないというのなら、オドン教会の神父の下へ向かうといいでしょう。陰鬱な地下墓地を通過する必要がありますが、やはり背に腹は代えられないのが世の常というものです。……ゲホッゲホ!! 失礼、又は、オドン教会の先の、医療教会の聖堂に行ってみるのも良いかも知れませんね。話している限り、貴方にはそれこそ大人に引けを取らぬ知力を備えているように思えます故、修道女になることもできるでしょう……ゲホッゲホ!! ゲホ!!』

 

 男は再び黙り込んだ。喋ることもままならぬ様子で、これでは、まともに外に出歩くことも難しいだろう。傍に寄りたい気もあったが、彼女の素性は医者でもなければ聖女でもない。ただの画家なのだ。その時のゴッホに出来たことと言えば、窓格子を隔てた先にて咳き込む男の身を案じることだけであった。

 両手で抱えたゴッホカッターで何が出来よう。病巣をことごとく切除するだけならば楽々こなして見せると言うのに。どうにも勝手が効かぬ自身の得物の不甲斐なさを悔やむ。──俯きがちに、ゴッホは唇を噛んだ。

 

 やがて、男は窓から離れたのか、その声も聞こえなくなっていった。だが、掠れた咳の音は未だに聞こえる。水でも飲みに行ったらしい。下水道から異常な瘴気を発するこの都市の水を飲もうなど、まずまともな人間なら考えないことだろう。

 ゴッホは、しばらくの間、男の戻りを待っていたのだが、彼が窓に影を見せることは無かった。「もう、お休みですかね……」と呟いたゴッホは、彼が語った教会とやらを目指して足を前に出した。

 別れの挨拶など無かった。冷たく、人情味に欠けた交流。それは、他人以上―知人未満という微妙な関係を彼女に連想させた。悲しいだろうか。虚しいだろうか。しかし、これがこの都市の、陰鬱な空気を纏ったこの都市の本来の姿なのかもしれない。そう考えると、元来友人の少ないゴッホは少し安心する事ができた。

 

「あっ……、場所を聞いていませんでした……。フフ、ドジっ子属性追加ですね」

 

 何であれ、教会などという文化的な施設は、必ず目立つ場所に建てられるのだ。歩いている内に辿り着けるだろう。そう考えたゴッホは、特に深く考えずに歩き出した。

 集団で行動するのなら、このような自由勝手な行動は取れない。独りでいることの気楽さが何たるか。しかし、そう考えることが出来るのは、常日頃から多くの者たちと行動を共にしている者だけのはずだ。ならば、ゴッホの場合はただ空虚な感情を抱くだけであった。

 

 ランタンの先、かけられた梯子の反対側、二手に分かれる道の先。外側から開かれた鉄格子の先──後に訪れる藤丸と邪ンヌとは、向かう道も目的地も真逆──に進む。

 

「うぅ……、やはり心細いですね……。と召喚されれば良かったのに……。あっ、いえ、別にカルデアに文句をつけるという訳ではなくてですね! ハイ! ……独りで何を喋ってるんでしょうかねぇ。はぅ……、マスターさまとホクサイに会いたい、とゴッホは心の中で思うのでした……」

 

 鉄格子を抜けた先、高低差の激しい住宅街は、暗く、汚く、あちらこちらに荒廃の雰囲気を漂わせていた。段差が急な階段を下り、少し開けた空間に躍り出た。あわよくば、この都市に住まう人と邂逅できれば良いかと考えていたのだが、やはりそう上手くはいかないものらしい。

 グニッ……

 靴の裏に、何か桃色の柔らかい物が付着していることに気が付いた。そして、ゴッホはふと地面を見た。

 

「何でしょうか、コレ。なにか、こう、ヌメヌメしてる、R18風味を醸し出す物体は……」

 

 気味悪げな表情をする一方、興味本位から自慢のゴッホカッター(以下、向日葵)でぷにぷにと刺激した。

 先端で突くたびに、透明な汁が漏れ出るその物質は、どうにも河童や天狗の類が好むような物を思い出させた。

 

「うぅ……、あんまり可愛くない物質ですね。お土産にしたらまず絶縁を切り出されるような、その、名状しがたい、豚の内臓のような……」

 

 ゴミムシを見るような目をして、謎の物体を壁面に向かって投げ飛ばす。べちゃり、と水音を立ててへばりつく。

「エヘ、エヘヘ、家の持ち主には申し訳ありませんが、これも芸術(アート)っぽいので、はい。ストリートなんとかですからね、はい」とゴッホは呟いた。

 靴の裏を拭き、先に進もうとすると、進路先のエレベーターの前に、見るからに人外の大男が二人倒れていた。いや、男共だけではない。やせ細った犬が付近にぐったりと倒れていたのだ。

 エレベーターの前の階段で、ゴッホは再度何かを踏み、ぎゃあ、と声を上げ、そのまま尻もちを搗きながら滑り落ちた。

 

「はぅ……、今日は一段とついていませんね……。まぁ、尻もちはついたんですけどね。フフ、ゴッホジョーク……」

 

 そんな下らない事をほざきながら、ゴッホは地面に手をつき、よいしょと立ち上がった。少々ばかし気に入っている服装に、ヌメつくべたつきが付着していることを知った。「……?」と不審がりながら、手のひらを見る。そこには、べったりと赤黒く濁った液体が付いていた。

 

「ヒエッ……、血……! 流石のゴッホも芸術性を見出せません……!!」

 

 凝視して視れば、周辺に散らばり倒れる男や犬の胴体には、ぽっかりと中身が抜き取られたような跡があった。その発見と同時に、ゴッホは自身が踏みつけた物体の正体が何であるかを理解した。みなまで言う必要はないだろう。事実、「知らなければ良かった」と後悔するような物だったのだから。

 

「あぁ、そういうことですか……。なるほどなるほど、完全に理解しました。そうですかそうですか。ここ(ヤーナム)ってそういう場所なんですね~……」

 

 かつて発生したフォーリナー案件──虚数空間の大航海の一件──の中心人物であったゴッホは、やはり領域外の生命に片足を踏み込んでいるからなのか、それとも神代の御霊を憑依させているからなのか、まぁ、どちらでも良い話なのだが、とにかく唐突なSAN値チェックには耐性があるらしい。

 まったく、どこかのマスターさまにも見習って欲しい限りである。

 

 かつてこれほどまで帰りたいと考えたことがあっただろうか。いや、無い。なぜなら、彼女の周囲には常に藤丸立香が居たのだから。故に再び孤独の海原に身を沈めることは無かった。しかし、彼女は元より英霊とは呼べない出自。目が覚めれば仲間が居る。そのような状況が、彼女に微かな希望を与えてしまった。()()が当たり前になった時、失った際に降り注ぐ雨は、それはそれは凄まじい物となり骨身を凍てつかせる事だろう。実際の話、現在進行形で彼女の胸を締め付けていたのは、魚の小骨のような、本当に些細な物──孤独感であったのだ。

 

 ゴッホはエレベーターに乗りながら、金網に体を任せ、そしてぼそぼそと呟き始めた。

 

「しかし、臭気が立ち込めているとは言え、かなり優雅な街並みではありませんか……。エヘヘ、エヘ……。はぁ……、帰りたい……」

 

 ガチャン……と不気味な音を立て、金網が開かれる。動力が一切不明のエレベーターであったが、考えるのは野暮というもの。魑魅魍魎英雄たちが集うカルデアには珍しく、彼女は空気が読める人なのだ。

 

「全部夢だったらいいのになぁ……。なんちゃって」

 

 足元の感圧式のスイッチが起動装置の役割を担っているらしい。後から訪れる人の為に、ゴッホはもう一度スイッチを強く踏んだ。

 再び、ガチャン……、と金属が擦り切れる音が響き、エレベーターは上昇して行った。願わくば、自分の顔馴染が乗ることを考えて。

 

「さ、さて、どうしましょうかね……。大きな建物を目指すのがベストでマストですかね。こういう場合は。うぅ、降臨者(フォーリナー)というクラスは本当に使い勝手が悪いからいけない。

 ゴ、ゴッホだって、欲を言えば剣士(セイバー)で召喚されて、Bastarでビームとか出して30000ダメージクリティカル叩き出したりしたかったのに……」

 

『失礼、お嬢さん、少々ばかし道を空けてくれると助かる』

 

 やや俯きがちにエレベーターを出たため、前方の注意を疎かにしていた。こういう時に限って、人と出くわすのは不運を突き抜けて不幸と言っても差し支えないだろう。特に、人一倍世間体を気にするタイプのヴァン・ゴッホであれば尚更である。

 驚き、飛び跳ね、顔の色を幾何色にも変化させながら、ようやく落ち着きを取り戻した頃には、目の前に突如として現れた惠体の男と視線がガッツリ合ってしまった。そして動くことを忘れ、固まり凍ってしまったゴッホを、男はしばらく見つめる。

 

 深く被った中折れハットからは、無造作に伸ばされた白髪が見られ、その隙間には、射るような鋭い眼が僅かにその射線を通していた。気弱な少女であるゴッホからすれば、それはとても恐ろしいもので、一言も会話を交わした訳でも無いのに、一瞬で男の存在は恐怖の対象になってしまった。

 

「ヒッ、あっ、あっ、はいィ……。今すぐ消えるので食べないでくださいぃ……」

 

『こんな時間に外出とは、あまり褒められた事では無いな。家族に何かあったか、それとも狩人に憧れているか。どちらにせよ、獣狩りの夜に出歩くとは賢い選択ではない』

 

「アッハイ。それはどうも。で、ですけどもね、こんななりでも近代の英雄なんですよ。それはそれは並大抵の事では地に伏せません故……」

 

 そう言ったゴッホは向日葵を掲げた。それは、官軍が勝利の旗を揚げるように、自身の力を誇示するように。大柄、しかも壮年の男からすれば、ゴッホが取った言動と行動は、それこそ稚児の戯れのように映ったかも知れない。ヴァン・ゴッホと聞いて、向日葵で肉を断ち切る少女の姿を連想する方が難しい。

 ただの自慢と、自身の商品価値を証明するための行動のつもりだったのだが、男にはそう見えなかったようだ。

 

『その武器、火薬庫か。盗んだか、拾ったか。まさか、奪ったという訳ではあるまいな』

 

 男はヒラリと身を翻し、依然として向日葵を抱えたままのゴッホと距離を置いた。形こそ見えないが、外套の中に何かを隠している。恐らく二つ。男の武器だろうか。

 厚着の服の上からでも分かる程の筋肉。しかし、かなり身軽な動きを取ることが出来ると見た。まともに勝負すれば、やられはしないが無事では済まない。そのようにゴッホは思考した。──白く蠢く触手が、ゴッホの瞳を黒くした。

 

「フフ……、奪ったもなにも、この向日葵は、私を私たらしめる物。言ってしまえば、ヴァン・ゴッホという人間が存在したという証明。それを盗んだだなんて、全くもって心外ですねぇ……?」

 

『……』

 

 男は口を堅く閉ざしたまま、何も喋らなかった。姿身なりから男が聖職者だということは理解できたが、それに似つかわしい表情をしていた。それはヴァン・ゴッホも同様に、気弱で何事にも億劫な少女はもはやいない。ただ、ちょっぴりアダルトなゴッホがそこに居た。

 

 ギャアアアアアアアアアアアアアアアア‼ 

 

 ──すると、目を細めればやっと見える程度の距離の「大橋」から、耳をつんざく叫び声が聞こえた。

 残念にも、立ち昇る煉獄の炎に気付くことは無かったが、それでも男には何処か心当たりがあるようで、ゴッホを穿つ視線を逸らし、大橋の方に瞳を預けた。

 

『止めようか。うむ、それが良い。お互いの為にも』

 

「……まぁ、意外と論理的なんですね。文化人は嫌いじゃないですよ? 激しい方が好きですけど! アハハ!!」

 

 大抵の彼ら彼女らは、芸術に魅入られ狂人。しかも、領域外の生命の寵愛を受けると見える。尚更タチが悪いという話。所謂、最高にハイな状態に変体したゴッホは、実際めんどくさい手が付けられなくなるのだ。

 出会い頭で武器を構えるのは、お互いどうかと思うが、少なくとも男が良識的な人間で助かった。生まれる()()()赤子よりも、腐る死体の方が多いというのがこの都市の特徴。当然、まともに話が通じる者より、通じない者の方が多い。話が出来る人間と出会えたことは幸運か。それなら、もっと優し気な若者と出会いたかった、とゴッホは静かに思うのであった。

 

『失礼な態度を取った。非常に申し訳なく思う』

 

「えっ、あっ、はい……。こちらこそ、もう落ち着きましたので、ハイ……。何なりと罵倒して頂いて結構ですぅ……」

 

 悔恨なし、と言わんばかりにお互いは態度を軟化させた。ゴッホのアレはいつも通りなので無視することが正解である。

 

「エヘへ、では、私はそろそろお(いとま)させて頂きます故。エヘ、エヘヘ。何かありましたら、カルデアのダヴィンチちゃんに請求してくださいね……。フヒヒ」

 

『今宵は獣狩りの夜だ。匂い立つ血を求め、正気を失った狩人共が獣を追い、そしてその狩人を狩ろうと狩人が跋扈する。正しく地獄。それに、未成年は獣の病に耐えられん』

 

「は、はぁ……。それは何とも大変な事をしていますね……。だったら早く避難しナイト。夜だけに……。なんちゃって、あっ、嘘です。ごめんなさい。睨まないで下さい。せめて言葉でお願いします」

 

 そそくさと伏し目がちに撤退するゴッホ。ダウナーな彼女の豹変は、それは男の眼には不思議に映ったことだろう。

 薄汚れてはいるが、教会の装束を纏った男は、ゴッホにある助言を呈した。眼光こそは鋭いが、思っていたよりも悪い人間ではないかも知れない。ただ、少し不器用なだけな男で、行くあての無い少女を無視して歩くほど冷酷な人間ではないことが分かった。

 

 話を聞く限り、男はオドン教会の管理人らしい。外来からの異邦人で、かつては信仰深い神父であったが、このヤーナムに流れ着いてからは、何やら奇怪な宗派が流行しているらしく、主に聖堂街の住人たちから疎ましく思われているという。同情とはまた違うが、ゴッホは神父の境遇に理解を示した。

 

『私にも、君くらいの年齢の娘が居る。白いリボンをした、可愛らしい娘だというのに』

 

「私の実年齢は30超えてるんですけどね」とは言えなかった。このヤーナムという都市の、根幹に住まう闇を知った訳ではないが、聖職者である男が武器を担いでいるのだ。それだけで大体の予想が付く。そもそも、ある程度発展した都市の街道に、死体が放置されて良い訳がない。

 

『保護者は』

 

「あっ……、えっと、保護者というか、まぁ、使役者ならいるんですけど……。エヘ、はぐれちゃいました……」

 

 下水道に続く橋を通り、暗く湿った地面が目立つようになってきた。その先に見えたのは、巨大な石碑と無造作に設置された墓石。どうやら、新たな墓を作るスペースもないらしい。それほど緊迫しているのか。『度し難い』とポツリと呟いた神父の白手袋には、洗い落とすことが不可能となった血の染みがあった。

 

 デエエエエン…………、オオオオオオ…………。

 ―「オドンの地下墓」―

 オドン教会の膝元にあるその墓地は、かつては光が届く朗らかな場所であった。しかし、医療教会は墓地に影をもたらし、実際にこの地は鬱蒼とした暗がりへと変化した。それは、人ならざる獣からすれば安息の地であり、そうして流れ着いた獣の罹患者どもを、管理者である古狩人──ガスコイン神父と、雷光のヘンリック──たちは連日始末しているという。

 だが、今やこの墓地に運ばれる骸は存在しない。ある者は、ヘムウィックの墓地街に送られ、ある者は、ヤハグルに送られるという。いずれも、行方は知れず。ヤーナムでは、死者にすら安らぎが与えられない。冒涜を極めるものであるが、医療教会からすれば、それは何とも思わぬことであった。

 

「うわぁ……。あっ……うわって言ったら失礼ですよね、エヘヘ……ゴッホ反省……。あまりのインパクトに驚いてしまいました……」

 

 キョロキョロと周辺を見渡しながら歩く。墓地の中心に、どこかで見たようなランタンがあった。不思議に思った彼女は、吸い寄せられるようにランタンに近づいた。しかし、神父が慣れた様子で、向かって右側にある階段を上り始めたため、仕方なくそちらに付随するようにした。

 

「ひぃ、ひぃ、足が……長いと……歩幅も大きくて、便利ですね……。ふぅ……、ヒールで階段はやっぱりキツイ……」

 

 神父は腰に付けた鍵束から、元は銀色であったであろう黒ずんだ鍵を取り出した。ゴッホの背丈の何倍もある巨大な鉄格子が開かれた。恐る恐る先を覗くゴッホとは裏腹に、やはり慣れた様子で神父は先に進む。

 下水道の丁度上部にあたるのか、格子の先は暗くジメジメしていた。長らくここにいると、それこそ肺に胞子で入り込んでしまうだろう。そんなことを考えながら、二人は軋み立つ梯子を登り、目的地に辿り着いた。

 

 デエエエエン…………、オオオオオオ…………。

 ―「オドン教会」―

 

 地下墓とは異なり、僅かに陽光が差し込むその教会には、神聖なる雰囲気とは打って変わって薄暗かった。注意すると、鼻腔の奥をツンと刺すような匂いも立ち込めていた。聞けば、獣払いの香らしく、それによって多少の安全が保証されているようだ。

 

 神父は、扉の付近に座る男の下に寄った。

 

『無事か』

 

『ヒヒ……、おかげさまで何とかなってるよ……。でも、やっぱり一人で居るのは寂しいなぁ……。外はあんな感じだし、しょうがないよなぁ……ヒヒヒ……』

 

 喋り方がゴッホに似ていた。背筋は曲がり、頬は痩け、手足も朽木のように干からびていた。それでも、ヤーナムの惨状を憂う辺り、この男も悪い人物ではないのだろう。

「あっ……、どうも……」とゴッホは男に声をかけた。神父は、小さな椅子を取り出した。

 

『ヒヒ……! お客さんなんて珍しいなぁ、嬉しいなぁ、嬉しいなぁ。見ての通り、何にもない所だけど、外よりはマシだと思うんだよねぇ……。ヒヒヒ……』

 

 ガチャン‼︎と固く施錠した扉が音を立てる。地下墓からオドン教会に繋がる扉は、先程神父が鍵をかけた。

 不気味に笑う男は、手を叩いて歓喜した。

 

『ヒヒ……、新しい人が逃げてきたんだぁ……。早く扉を開けてあげないと……。ヒヒヒ……」

 

 ガチャン‼︎ガチャガチャガチャ‼︎

 

 乱暴にドアノブを回す音が響く。ゴッホはヒョコヒョコと扉に近づき、そして、向こう側に居る人物のために扉を開放しようとした。

 

 ──その時、

 バギィィィン‼︎と鍵が破壊された。付近に居たゴッホは思わず跳び上がり、突如として発生した爆音に怯える男の下に近寄った。

 

 神父が二人を庇う。大きな背中は頼もしかった。しかし、扉の向こうに居る人物について、多少の心当たりがあるらしく、その額には汗に濡れた髪がへばり付いていた。

 

 ギイィ……。とゆっくり、それでいて不気味に扉が開かれた。

 

 ヒュンと空を裂く音がして、光る何かが扉の隙間から投擲され。

 

「はぅわぁ!! よく分かんないんですけど、友好的じゃないですよぉ!!!」

 

 自身の胸元に投げられた金属は、所謂医療用のメス。咄嗟の判断で向日葵を前に出していなければ、そのまま心の臓を貫かれていただろう。

 神父が、たなびく外套の内側から、片手で用いる斧と、装飾が施された銃を取り出した。

 

『伏せていろ……』

 

 ポツリと呟かれた言葉は、独り言のようにも聞こえた。ただならぬ気配と重圧感に押し潰されそうになりながら、ゴッホは小さな身を隠す。

 扉の向こうから現れたのは──

 

「……」

 

『噂に聞く豪胆ぶり。道中の獣も、全て貴様が始末したと見受けられる。違いないか』

 

 ごく一般的な狩装束を身に纏った男は、やはり狩人か。右手に握ったノコギリのような、鉈のような物騒な物からは、未だ乾くことを知らない血液が滴っていた。武器だけではない。その服も、髪も、装飾品の至る所にまで、たまらぬ血の瘴気を発生させていた。少なくとも、まともな人間ではないことは確かである。

 ゴッホは思い出した。神父が、『狩人を狩る狩人が居る』と言っていたことを。しかし、目の前を悠然と歩くこの狩人からは、そのような優しい言葉は似合わなかった。何か、蹂躙を楽しむ、破壊を楽しむ、そして、戦闘に歓びを見出すような瞳をしていた。

 

 この狩人こそが、「工房の狩人」であると。

 

 刹那、お互いが左手に持つ銃を発砲した。神父は間一髪、顔を逸らして弾丸を避けた。長い人生で培った戦闘能力なのか、それとも狩人としての本能なのか。どちらにせよ、ゴッホには双方の一瞬にも満たない動作を視認する事が出来なかった。

 工房の狩人も、慣れた動きで散弾の雨をを避ける。

 

『流石と言うべきか、やはり生半可な狩人では無いな』

 

「……!」

 

 ガシャン!! と神父が斧を変形させた。元の射程範囲は何倍にも伸び、それは後退を知らぬ工房の狩人にとっては恐るべき脅威となった。

 一撃。空を裂く横一文字の風圧は、遠くで見守るゴッホの髪すらも揺らした。

 

「……古狩人が、遺骨はどうした」

 

『ほう、人語を介するとは驚いた。獣風情が人間のマネとは』

 

 狩人と狩人の戦闘。サムライ同士の、命の果し合いとはまた違う戦闘形態。いかに相手の隙を突くか。ただそれだけを思索して、そして相手に隙を見せないために、二人は距離を詰めたり離したりしている。たまに銃をぶっ放す時もあれば、牽制として武器を振るう事もあった。しかし、ゴッホが想像していたような、武器同士が火花を散らす戦闘ではなかった。たまに聞こえるのは、どちらかが相手の肉を裂く音。確かに傷を与える音だけだった。

 

「あぁ! 神父さん! 血が! こ、ここは教会ですよ!? なぜ人間どうしが傷つけあう必要があるんですかぁ!!」

 

 ゴッホがたまらず前に出る。

 工房の狩人は、凍てつくような視線で答えた。

 

「人間どうしだと……? この男が人間だと言う確証はどこにある」

 

『隠れていろ……。工房の狩人は人外。話を聞くな……』

 

 ゴッホを含めた2対1の状況。数的有利の状況ではあるが、それでも工房の狩人とやらの眼前に立った時、彼女の全身に寒気が走った。領域外の生命に似た、もしくはそれ以上のスゴ味をを感じた。

 

「フ、フフフ……。神父さん、ゴッホ、いつでも行けますよ……。肉壁くらいなら役に立つかと……フフフ」

 

 そう言うと、彼女は向日葵を前方に突き出した。花弁を模したその刃は鋭く、触れただけで皮がめくれてしまうほど。それでも、出会い頭で刃物を投げつけてくるような人間が相手。油断は出来ない。可能ならば、戦闘を避けたいところ故に、彼女は交渉を持ち出した。

 

「えっと……、狩人さまでしたっけ……? す、数的不利みたいですけど、まだ……やるつもりですか……?」

 

「……」

 

 男は何も答えなかった。沈黙は肯定と言われるが、元より話が通じるような相手ではない。向こうがこちらを攻撃しようとしている以上、こちらもそれ相応の手段を取らなければならない。

 

『……退いていろ。少女には荷が重すぎる』

 

 呼吸を整えた神父が、闘志を燃やすゴッホの肩に手を置いた。すぐさま臨戦態勢になる二人。それに呼応して、工房の狩人も武器を変形させた。

 一触即発。変わった部分があるのなら、そこにゴッホが参戦したこと程度か。鬼気迫る表情の二人に対し、工房の狩人は蔑むような冷たい目を向けた。そして、ポケットから小さな箱を取り出した。

 

「……な、なんでしょうかね……アレ」

 

『……いや、まさかな……』

 

 神父には心当たりがあるように見えた。手のひらサイズの小さな箱。丁寧な装飾が施されたソレは、やはり工房の狩人が持っていたからか、赤い染みがまばらに付着していた。

 そして、ゆっくりと、第一に自分自身に言い聞かせるように口を開いた。

 

「……下水道の梯子を上がった所、なまじ良い立地とは言えない場所に、一つの家があった……」

 

 ゴッホと神父は、ただ静かに聞いていた。

 

「その前を通った時、一人の女性が、狩人である俺に話しかけた……」

 

「『夫を探しています』とな。哀れ、娘子を置いて主人を探していると見える」

 

「しかし、聞けば、獣狩りの群衆に噛まれたと言うではないか。今や夢に戻ることは滅多に無いが、これでも狩人の端くれ。獣は狩らねばならぬ」

 

 神父は狩人を睨む。声を上げないのは、完成された大人だからか。

 静かに聞いていて気持ちが良い話ではなかった。だが、それでもゴッホは神父の動向を待ち続けた。

 

「……このオルゴールは、やはり持ち主に返すべきだ。そう思わないか、ガスコイン神父」

 

『外道が……! 狩人が何たるかを忘れたか……!!』

 

「……もとより、狩人とは俺のような存在。医療教会の狩人たちは、それこそ予防の狩人。兆候が現れたら浄化する。我々の本懐とはそういうものだ。違うか?」

 

 神父が飛び出す。狙うは、工房の狩人の首根っこ。両手で持った斧を振り上げ、途轍もない風圧を発生させながら襲い掛かる。

 ゴッホの「あっ……!!」という制止は届かず、逆鱗を折られたガスコイン神父は、ただ相手の息の根を止めることだけを考えて進む。その動作に、古狩人として洗練された美しさは無く、獣性に満ちた血相をしていた。

 

『獣が人を語るかッ! 笑止!!』

 

 工房の狩人の脳天に振り下ろされる斧。正面から食らえば、人間の頭蓋程度なら難なく砕け散ってしまうだろう。しかし、神父が振り下ろしたその得物は、ついに直撃することはなかった。

 ──ほんの一瞬、ゴッホは、斧が当たる寸前で、工房の狩人が銃の引き金に指を掛ける動きをしたのを確認した。

 

 ガアアン!! 

 

 荘厳なオドン教会に、乾いた銃声が響き渡った。

 短銃から射出された銀色の弾丸は、ガスコイン神父の胸部を貫き、そして、ゴッホの頬を掠めた。

 

「神父さま!! あ、あ、あぁ!! そんな!! ガッツ持ちならまだしも、長距離武器を持つ相手に、生身で正面から突っ込むなんて!!」

 

 銃の破壊力は、ゴッホ自身が誰よりも理解していた。しかし、そのピストルという近代武器を恐れるのは、一発直撃したら死ぬと分かっている生物だけ。しかし狩人として生きる者は、銃を恐れぬ。それは狂気とも言える習性であった。殺される前に殺す。それが狩人の信条であり、根幹もであった。古狩人であれば尚更、その意志は強く行動に現れる。

 

 だが、無情。屈強な男であろうとも、胸部に風穴を開けた弾丸は、紛れもない弾丸。即死はせずとも体勢は崩れる。前のめりに膝をついたガスコイン神父は、眼前に立つ工房の狩人を下から睨んだ。

 

『行動に迷いが無いな……。どれだけ殺めれば、それほどの技量が身に付くというのだ……!!』

 

「あッ……! 神父さま!! 危ない!!」

 

 ゴッホがたまらずガスコイン神父に駆け寄る。だが、所詮少女の全力疾走。工房の狩人の追撃を阻止するには、いささか歩幅が小さすぎたようだ。

 

「ゴ、ゴッホカッター!! せ、正当防衛ですのでえええ!!」

 

 工房の狩人は、立ち上がろうとするガスコイン神父の胴に、手刀を突き刺した。ゴッホから見れば、それはかなりショッキングな光景であっただろう。工房の狩人は、そのままガスコイン神父の臓物を引きずり出したのだ。

 

「あ、あ、あ!! ああああ!!! 中身が!! 神父さまの中身が!!」

 

 ギロリと、ゴッホは視線がこちらの方に向くことに気が付いた。それは、次の標的が自分だということでもあった。

 軽く吹っ飛ばされた神父の、投げ出された四肢を踏みつけ、工房の狩人はジリジリと距離を詰めて来る。エレベーターで初めて邂逅した神父が、ものの一瞬でリタイアしたのだ。天狗になっていた訳ではないが、英霊としての立ち位置に甘えていたのは確かである。ゴッホは、この瞬間、その鼻を真っ二つにへし折られた。

 

「ヒ、ヒヒヒ……! お嬢さん……! こっち、こっちだ……! 2階への扉の、か、鍵を開けてきたんだ……! アンタだけでもなぁ……、逃げてくれよなぁ……? ヒヒヒ……」

 

 いつぞやの醜い男が、地べたを這いながら神父に向かっているではないか。武装に身を包んだ神父が、弾丸一発で片付けられてしまったのだ。背骨が曲がった男に、今更一体何が出来るというのだ。

 男はゴッホに逃げるように説いたが、それを黙って受け入れる程、彼女は素直ではなかった。

 

「フ、フフフ……。そんなの出来ませんよ……。ボキャ貧同士、仲良く足掻くとしましょうか……? そ、そうですね。よく分かりませんが、とにかく、(工房の狩人)は存在悪だという事は理解できました……」

 

 ガスコイン神父がゴッホを庇ったように、今度はゴッホが男を庇った。どうやら、長いカルデア生活の中で、天然戦闘狂い(武士系サーヴァント)に影響されたのかどうかは知らないが、「滅びの美学」という要らぬ知識を習得してしまったようだ。

 

「(今ここで、宝具を使ったら、今後の戦闘でどうなるか……! でも、かくなる上は……!)」

 

「……オドンの信者、自覚無き眷属と、これは、月の香りか……?」

 

 工房の狩人が動きを止めた。何かゴッホに対して思い当たる節があるようで、しばらく黙り込んでしまった。

 それを好機と捉えたか、ゴッホは宝具発動の魔力を充填する。

 

「け、眷属とは失礼ですね……。それにしても、ここの方たちは本当に説明が足りないから困ってしまう……。何ですか? 月の香りって、も、もしかして、ゴッホ、加齢臭とか放ってる感じですか……?」

 

 だが、狩人は多くを語らぬ。

 

「獣、あるいは……。いや、杞憂か……」

 

「け、獣臭いと言いましたか!? あぅ……、結構刺さりました……」

 

 それでも前に進む狩人とは対象に、ゴッホはじわじわと後退する。その気なら、今すぐにでも最終再臨の姿に変身してやろうかと考えたが、どうにも工房の狩人はゴッホなど眼中に無いと見える。

 このままやり過ごしても構わなかったのだが──というよりも、実際その方が安全であったのだが、彼女も彼女で変わり者。ボロ雑巾のように投げ飛ばされた神父を見て、黙って息を潜めるという行為は、誰よりも彼女自身がそれを許さなかった。

 

「フフフ……、ちょ、ちょっと……ゴッホと楽しいことしませんかぁ……?」

 

「……狂気者か。苦労しているのか、若いというのに……」

 

 しかし、ゴッホはその場から動かない。まるで、工房の狩人をその場に縛り付けようとするかのように会話を試みたのだ。

 ほんのりと、あたたかな、それでいて何処か懐かしさを感じる魔力が充填されてゆく。──いつでも、秘密兵器を射出出来るように。

 

「先程から思ってたんですけど……、や、やっぱり、言葉にトゲがありますよね……。エヘ、エヘ、友達とかいらっしゃらないのでは……?」

 

「一緒にするな。作らないのと出来ないのでは雲泥の差がある。自分が言われて嫌なことを相手に言えば、心理的優位に立てると思っているようだが、さては、煽り慣れていないな……?」

 

 醜悪な相貌の男が、必死の形相でゴッホを止めようとしている。

 

「……へ、へぇ。な、中々、その、ハイ。分析力がお高いようで……」

(ヤ、ヤバイです……! 脳筋のバカゴリラかと思ってましたが、まさかのインテリ筋肉だったとは……!! 体育会系!! こわい!!)

 

結果、要らぬケンカを吹っ掛けたゴッホが、要らぬダメージを負ってこの場は終了した。

工房の狩人は、聖堂街の方角に歩を進める。ゴッホを素通りした彼の瞳には、一体何が見えていると言うのだろう。ガスコイン神父は、やはり動かずに横たわる。

一難が去り、ゴッホはふにゃりとその場に座り込んだ。

 

「は、はぁ……。助かりました……。あっ、いえ、神父さまの前で言うのは……不謹慎でしたね……。ゴッホ謹慎……」

 

「ヒ、ヒヒヒ……。だ、大丈夫……。神父さまは狩人だから……、医療教会の加護で、また元気になれるさ……ヒヒヒ……」

 

ゴッホと男が語り合う。神父は息をしていなかった。それでも、血の医療とやらで元気になると言うものだから、ついにゴッホもそれを信じるようになってしまった。死人を蘇らせる業など存在しない。しかし、ソレが出来ると言うのであれば、血の医療とは一体どのようなものなのか。少なくとも、人間の領域を越えているものであるのは確かである。そうゴッホは静かに思った。

 

――安堵の吐息を漏らしたその時、

 

「……忘れていた。回収しなくては……」

ダアアン!!

 

オドン教会に響く、乾いた銃声と硝煙の臭い。

工房の狩人が、戻って来たのだ。

 

「あ、ぁ、ぁ、ヒヒ……!こりゃあ、ダメだなぁ……!どうして、狩人さんってのは……ヒヒヒ……」

 

「は、はぇ……、な、なんで……?何故、この人を撃ったのでしょうか……?ゴ、ゴッホには、それが分かりません!!この人は無関係の!部外者の!まともな人なんですよ!?」

 

醜悪な男は、動かぬ神父の上に覆い被さるように倒れた。やがて、赤色の水溜りが作られていく。

 

「か、か、狩人というのは、市民を守る、その、我々で言う抑止力なのではないのですか!?」

 

「狩人が英雄たらしめた時代は終わった。慈善活動屋など、およそ教会で事足りる」

 

「だからって、あぅ……、そ、それが人を殺めても良い理由にはなりません!!か、神が許しても、このヴァン・ゴッホが赦しませんよ!!」

 

「戯言を……」と言った狩人は、踵を返して引き返して行く。眼前の少女など、歯牙にもかけぬ。そう言わんばかりに歩いてゆく。

 

ゴッホは、自身の(はらわた)が煮えくり返るのを確かに感じた。しかし、中途な感情で、獅子が如く歩みを進める男の背中を切り裂いたとて、その最後に一体何が残るというのだ。

静月夜を描く魂は、彼女には残されていなかった。――復讐心、そのような感情を抱いたことは無かった。それ故に、彼女は気持ちのままに肉体を駆動させる方法を知らなかった。

 

哀れ。自身の無力さを呪うか。やはり剣士(セイバー)で召喚されるべきであったか。英霊としての自尊心は水泡に帰す。

一方的な蹂躙は、意図せず稚い少女の縁まで破壊してしまったのだ。

 

ゴッホは静かに座り込んだ。

――神父の遺体は、そこには無かった。

 




ジャンヌ・ダルク・オルタ

肝心な時にやらかしがち。しかも、自分の不手際をズルズルと引きずるタイプ。
ヤーナムでは、偶然にも藤丸立香と合流。以降行動を共にする。がんばれ。
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