シャムのメイクデビューからまた少しの時間が経った。
新人のデビュー戦に浮かれている間も無く、【ポラリス】はそれぞれの次のレースへ向けてのトレーニングを始めていた。
フクキタルとリョテイは菊花賞の最終調整として、京都新聞杯への出走が決まっており、それに向けて最後の仕上げを行っていた。
ドーベルは京都新聞杯の翌週に開催される秋華賞を目指して猛トレーニングをこなしていた。
シャムはオープン戦に出る前に身体を作り切る事を目指して鬼トレーニングをさせられていた。
ドトウはまだジュニアなので、基礎トレーニングと他のメンバーの体調管理を行っていた。
そしてスズカは──。
「東条から当初のプランもろてきてるけど、スズカ、このまま予定通りでええんやな?」
「はい。お願いします、茜さん」
「……分かった。ほな、いっちょ取りに行こか。──秋の盾、天皇賞を」
リギルに在籍していた時から神戸新聞杯を経て秋の天皇賞へ挑戦する話はハナとしていた。
クラシック三冠の最後を飾る菊花賞は3000m。スズカにとってはあまりにも長すぎるロングディスタンスに挑戦するのは無謀だと言うのが、当時二人で出した結論だった。
その方針は【ポラリス】へ移籍しても変わらない。スズカは次の目標を秋の天皇賞へと定めていた。
茜としてもハナの意思は尊重したい所であったので、これを曲げる理由は無かった。
ただ、1つだけ茜には懸念すべき事案があった。
「んで、天皇賞に向けた調整を決める前に1つスズカに確認しときたい事があるんやけど」
「何ですか?」
目標を改めて確認した所で今のスズカのデータをパソコンに表示させて、それを見ながらスズカに水を向けた。
向けられたスズカは首を傾げる。
茜は1つ頷くと、その確認したい事について切り出した。
「それはな、スズカ。今の君の走りについてや」
前走の神戸新聞杯、あの時のスズカはかなりのハイペースで飛ばしており、そのまま行けば1着でゴール出来ていてもおかしくなかった。
しかし実際はそうはならず、フクキタルが途轍も無い末脚を爆発させていたとは言え、彼女に差し切られる程にスズカは最終直線でスタミナを切らしていた。スズカが本来得意としているはずの2000mのレースで、だ。
新歓の時は軽く流すだけにしたが、やはりどうにも様子がおかしいと感じた茜はここ暫くの間、時間があればスズカのレースを全て見直していた。そして、スズカのトモもしっかり触った。
そこから分かった事は1つ。
「神戸新聞杯での走り方を見る限り、君は今出せる限界以上のスピードを出そうとしとった。しかも、そのスピードが当たり前に出せる思うとるかのように、や」
「……」
スズカに心当たりはあった。
あの神戸新聞杯では普段通りの走りをしようとして、その結果、最終直線でのスタミナ切れを起こしてしまった。
ここでいう普段通りとは、まさしく、シニア級でのスズカの走りの事だ。
しかし、その走りが出来るようになったのは年が明けて少ししてからの事であり、今のスズカの未完成な身体では到底出来るものでは無かったのだが、それを理解できずに失敗したのがあのレースだった。
スズカが押し黙っていると、茜は他のデータも見ながら話を続ける。
「トモを触った感じ、確かにもっと上の領域へ至るやろう素質はあった。けど、それはこれから鍛え続けた先の話であって、今やない」
茜はそこで一旦区切り、鋭い目つきでスズカを射抜いた。
その目つきは普段の茜からは信じられない程の威圧感を放っており、対するスズカを震え上がらせるには十分過ぎた。
睨むように見つめたまま、茜は次の言葉を繰り出した。
「──単刀直入に聞こか、サイレンススズカ。あの時、君は
「っ! そ、れは……」
茜に投げ掛けられた問いに、スズカは咄嗟に答える事が出来なかった。
バカ正直に、未来ではあれぐらいは走れていたので出来ると思っていました、と言った所で、鼻で笑われるどころか、この雰囲気の中では雷が落ちる可能性すらあった。
どう答えるべきか。悩んでいる間にも時間は過ぎていく。
答えるべき答えが見つからないまま、先に口を開いたのは茜の方だった。
「……はー、まま、ええわ。その顔からして何言いたかったかは分かるわ。ペースコントロールの練習はやっとるし、後は身の丈に合うた走りが出来ればそれでええ」
「……すみません」
「新歓の時にも同じ事言うたけど、責めとる訳やあらへん。ただ、今の身の程は知っとけっちゅう事や」
「……はい」
「ん、ほな話は終わりや。本番までのトレーニングはスタミナ向けのプールと坂路を1日交代、それと並走でペースコントロールの練習や」
以上、解散! と両手を叩いて、茜はスズカを退室させる。
一礼してスズカが出ていったのを確認すると、暫くの間を置いてから一気に脱力して椅子に倒れ込んだ。
「だっ、はぁー! あんなん言うんは苦手やねんほんま! やってられんわ!」
勢い良く机の引き出しを開けると、大量に入れられている緑色の箱の1つを取り出し、ビリビリと中の包装を乱暴に破いて、さらにその中に入っていた茶色い固形物をいくつか引っ掴んで口に放り込む。
ガリ、と勢い任せに噛み砕くと、中からドロッとした液体が溢れ出て、その独特の味が甘味と共に口に広がる。
合法的に糖分と一緒にこれを摂取する方法を考えた人間は天才なんじゃないかと茜は思った。
それから1箱をカラッと空にした茜は別の引き出し──こちらには空箱になったそれらが詰め込まれていた──に空箱を突っ込むと、パソコンに表示したままのスズカのデータを眺める。
そして、スズカが先程言い淀んでいた事を頭の中で読み解いてみた。
(走り切れると思っていました、か。本物なんかビッグマウスなんか、分かりゃせんな)
そもそも、と茜は過去のレースを再生し始める。
過去のレース……東京優駿までは先行策を試したりしている事が分かるが、それでもここまでスタミナを浪費するような走りはしていなかった。
その後、大逃げに転向して、最初のレースが先日の神戸新聞杯だ。そして、そちらではスタミナを浪費しすぎていた。
東京優駿と神戸新聞杯。この間に一体何があったのか。
東条に聞いても分からないとしか返ってこなかったが、スズカの心境に何かしらの変化があった事は間違いなさそうだった。
「スズカ……一体何があったんや?」
一度、どこかでしっかり話し合った方が良いのかも知れないが、さっきの様子を見るに簡単に話してくれそうには無いように感じた。
どうしたものか、と思いつつ、茜はまた緑の箱の包装を開けるのだった。
──その日、葵が部屋に来た時には既に追加で5箱開けられており、葵に怒られてしまうのはまた別のお話である。
話して楽になれるなら話してしまいたかった。
けれど、口には決して出せない。そう言う決まりなのだから。
小さな綻びは、少女の周りに確かに生まれていた。
※ちなみに茜ちゃんが食べてるのはロ〇テのバ〇カスです。
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