「わんこくんと」「胸の大きい良い女」   作:厠坂

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「わんこくんと」「胸の大きい良い女」

 

 

「だーれだ」

 

 不意に塞がれる視界。白い手で覆われたと気付くまでに要した時間は一瞬で、それが誰の手なのか、誰の声なのかもすぐに分かった。

 これは碇シンジと彼女の間での当たり前。もう何度もやっている……そういうことになっている。

 

「……胸の大きい良い女」

 

 これも、彼女と知り合ってから、何度も返してきた答えということになっている。

 事実と意識の齟齬に違和感を覚えつつ、シンジは自分の視界を占領する細い手を軽く掴み、そのまま上を向いた。

 

「ご名答」

 

 そうやって微笑む真希波マリは、赤い縁の眼鏡越しにシンジと視線を合わせる。ベンチに腰掛ける彼の背後から音も無く近づくのは、ひょうきんで悪戯好きの彼女らしいコミュニケーションだ。

 

「んー……ん、今日も良い匂いだにゃー」

 

 天下の往来だというのに首筋に鼻を寄せてくる彼女の行動にも、もうすっかり慣れてしまった。シンジは呆れながらも不快でないことを自覚しつつ、ゆっくりと立ち上がる。

 

「語尾、やめたんじゃなかったの」

 

「あっ。やっちゃった」

 

 ほんのりと頬を赤くして口を抑えるマリを見て、シンジは思わず小さく吹き出した。

 

「そのままでいいのに」

 

「だーめ。アラサーでにゃん語なんて」

 

「何を今さら」

 

「あれは、子どもの見た目だったからセーフなの。でも今はだめ。外見も大人だし、恥ずかしい」

 

 人前で匂いを嗅ぐような人が何言ってるんだよ、と口には出さない。それを言うとマリが怒るのが目に見えているからだ。

 それでも苦笑は出てくるようで、抑えきれなかった表情に彼女はむっとした様子で言葉を返す。

 

「しょーがないじゃん。久々に会えて、テンション上がってんの」

 

「久々って、一週間も経ってないし、毎日電話もしてたじゃないか」

 

「なにをー? 同棲中の彼女ほっぽって、再会の挨拶がそれかー?」

 

 人差し指で鼻を軽く突かれる。

 ネオ・ジェネシス。事実では生を受けて28年間ということになるが、シンジとマリにとっては一年足らずの感覚しかない。それでも、この世界で今まで生きてきた分の記憶や経験はしっかりと身についていて、以前の世界では面識の無かった古い知り合いの顔だって覚えている。

 シンジはエヴァが存在する必要のない世界を願った。フォースどころか、サードもセカンドもファーストインパクトも起こらなかった世界。ただそれだけを願った。

 

「電車で疲れてるんじゃない? 今日くらい外で食べてもいいんだよ」

 

「僕がマリに作りたいんだ。作らせてよ」

 

 マリとは、大学の合コンで知り合って意気投合し、交際して8年、同棲を始めて3年という関係になっていた。

 どうしてこうなったのか、シンジにもマリにも分からなかった。前の世界でシンジとマリを繋いでいたものは、エヴァに他ならなかった。だからエヴァの無い世界では、マリとも赤の他人として過ごしていくのだと当たり前に思っていた。

 

 けれど、あの日。駅のホームで目を開けたとき、この世界での28年間が一気に頭に流れ込んできた。寡黙な父と、笑顔の綺麗な母。小学校も中学校も高校も大学も、全ての入学式に両親は訪れていた。

 中学校ではトウジとケンスケ、ヒカリに会った。

 同じクラスの静かな少女は綾波という名前だった。肉が苦手で感情表現が苦手な、ただの、たった1人の人間だった。

 2年生に上がるころ、外国からドイツ人のクォーターである少女が転入してきた。名前はアスカと言った。少し口に出しやすい乱暴な性格ではあったが、ヒカリと早い段階で打ち解けていた。母と仲が良いそうだった。

 3年生に上がると、高校受験のために塾に通い始めた。そこで話したのはカヲルという少年だった。ミステリアスで綺麗な外見をした彼とは、すぐに仲を深めた。

 高校では特に誰かと知り合うことはなく、大学ではカヲルと再会し、マリと出会った。教授にはリツコが居て、農学部のカヲルはシンジに知り合いを紹介してくれた。とある夫婦で、加持リョウジとミサトと名乗っていた。

 

「アスカたちはどうだった?」

 

「なーんにも変わんないよ。姫は素直じゃないし、レイはお肉食べないし」

 

「そっか。良かったよ」

 

 駅から家までの帰路にあるスーパーマーケットで買った食材が入ったビニールの持ち手を、左右それぞれ2人で持ち、何気ない会話をしながらゆっくり歩く。

 

「やっぱり、ちょっと不思議だな」

 

「エヴァが無い世界なのに、前の世界で会った人物と知り合うこと?」

 

「うん。エヴァなんてなければ、僕はみんなに会えなかったはずなんだ。綾波にもアスカにも、カヲル君にも……それに」

 

「わたしにも?」

 

 言う前に当てられて、少しバツが悪いような気分になった。視線を横に向けると、すっかり大人の女性の表情を浮かべたマリが、ズレた眼鏡の位置を直す。

 

「綾波やカヲル君は、エヴァが必要ない世界なら生まれてこないはずなのに」

 

「そだね。けど、この世界では家庭のある、普通の人間」

 

「カヲル君の家、すごく楽しかった」

 

 共に受験を終えたとき、シンジはカヲルの家に招かれ、三人家族の食卓で夕飯を出された。物静かなカヲルと似て会話は少ない家庭だったが、シンジにとって居心地の良い空間だった。

 レイの家はマリがよく遊びに行く。こちらは両親とも既に他界していて、祖父母に育てられているようだった。休みの日は小さいけれど庭の田んぼや畑を手伝うらしい。人情をそのまま人にしたような2人に育てられたせいか、前の綾波よりも幾分か人間らしい気がする。

 

「わんこくんは誰もがエヴァに関係する不幸に逢わない、ただそれだけの世界にしたかった。けど無意識にみんなに会いたいって願望もあったはずなんだよ」

 

「マリとの関係も、僕が望んだから?」

 

「そーれは、ほら、わたしがそれだけチャーミングだったってことね」

 

「それは……うん、そうかも」

 

 新世紀のシンジが歩んできた人生の中で、マリとの記憶は特に幸せに満ち溢れていた。その中で鮮明に浮かぶ彼女の笑顔や怒った顔、泣いた顔。そのどれもが魅力的だった。

 

「ありゃ、そんな素直に受け取られると、困る、かも」

 

「君は可愛いからね」

 

「な……ん、んもー。内気なわんこくんはどこ行っちゃったのさ」

 

「両親が居なかったから暗い性格に育ったんだ。今は父さんも母さんも元気だからね」

 

「そうだけどー、わんこくんは前のわんこくんでもあるはずじゃんか」

 

「前の世界でも、始めて会った時から可愛いと思ってたよ」

 

「お、初耳」

 

「ヴンダーの隔離部屋の中で会った時も、素敵な女の子だと思った」

 

「なんだよなんだよ。わんこくん、わたしにベタ惚れじゃん?」

 

 そこまで言ってから恥ずかしくなって、シンジは顔を背けた。マリが揶揄うように笑っているのが見なくても分かっているから、どうしてもそちらを向けない。

 

「ま、君がそう創ったからってのはそうかもしんないけどさ」

 

 2人の間でビニール袋がかさりと音を鳴らした。マリが肩を寄せて、シンジの二の腕に押し当てる。男物のジャケットとレディースのカーディガン越しでは、その暖かさは隔てられないようだった。

 

「私たちはもともと出会う運命で、前の世界ではそこにエヴァがあっただけ……それで良いじゃん?」

 

「……うん」

 

「なんでこうなったのかなんて野暮なこと言わないでさ。こういうのもアリだね、って楽しもうよ」

 

 シンジは息を吐いた。吐息に声は乗らなかったけれど、ただ感嘆の言葉が彼の内から溢れていく。

 前の世界でも、最後に迎えに来てくれたのは彼女だった。そう約束していたから、マリは出来る最大限を行使してシンジを救い出した。駅のホームで目覚めたとき、チョーカーを外してくれたのも彼女だった。アレはきっと贖罪で、全てを償ったシンジには必要の無い物だった。

 

「すごいや、マリは。同い年とは思えないよ」

 

「ま、まーねー……」

 

「というか、僕ももうすぐ三十路なんだから、いつまでも子どもみたいに後ろ向いてちゃだめだよね」

 

「そーだねー……」

 

 突然、気分の落ち込んだマリにシンジは首を傾げる。その姿が年齢を気にするミサトと重なったが、気のせいに違いないので頭から振り払った。

 

 もう夏が終わって、秋になろうとしている。肌寒い風が吹き抜けて、マリは少しだけ身じろぎをした。

 

「寒いね。ちょっと薄着じゃない?」

 

「帰ったらわんこくんにあったかいの作ってもらうからいーの」

 

 そう、寒い。夏が終わる。もう2ヶ月もすればもっと寒くなる。それが普通なんだと、彼と彼女だけが今になって噛み締めている。

 

「今度の日曜、カヲル君と一緒に加持さんの畑を手伝いに行くんだ。マリも来る?」

 

「その日は姫とキャンプ。なーんか、急にサバイバルにハマったらしいよー」

 

「綾波は?」

 

「誘ったけど、来れるか分かんないって」

 

「そっか」

 

「でも、来たいってさ」

 

「……そっか」

 

 そんな他愛もない会話を何度も何度も繰り返して、駅から少し歩く2人の家に帰っていく。何の変哲もない、2人で住むのに広くも狭くもないアパートの一室。それでも誰か2人と暮らしていたときのことを思い出して、無性に懐かしくなる。

 

 鍵はマリが開けて、マリが先に入った。そそくさと暖房マットのスイッチを入れたあたり、やはり寒かったらしい。

 猫のように丸まっている彼女を見て微笑んでから、買ってきた食材を台所に並べて、冷蔵庫の中を覗く。先程リクエストされた暖かいものを作るために頭の中で調理工程を辿る。

 

 出来たよ、と皿を運んでいくと、飛び起きたマリがテーブルの上を片付ける。目を細めて美味しそうに食べる彼女の頭を撫で、洗濯や掃除はされていたので、それからは適当にテレビを見て過ごす。座ったマリに背中から倒れ込み、そのまま首筋や頭を嗅がれ続ける。夜が更けたら、今日は疲労感が強かったのでベッドで抱き合って眠る。

 

 これが日常だった。突如として街に警報が響き渡ることも、謎の組織から招集が掛かることも、巨大な兵器に乗り込むことも無い。

 ただ起きて働いて食事をして眠る。退屈と言われたらそうかもしれない。けれど、毎日の中には自分以外の誰かがいて、それは望んだ世界だ。

 

 でも、眠るとき、少しだけ怖くなる。実は夢なんじゃないか。目が覚めるとエヴァに乗っていて、目の前には使徒が居て、また戦っているんじゃないかと不安になる。

 

「シンジくん」

 

 胸の中でマリが呟く。

 

「おやすみ」

 

 シンジの心のうちを知っているのか、そうでないのか。

 それでも、そう言ってくれるだけでいい。

 

「おやすみ」

 

 これはおまじないだと、誰かは言っていた。

 

 

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