皐月賞である。
旧八大競走第二戦にして三冠がひとつたるこのレースは、もっとも速いウマ娘を決めるチャンピオンレースとしてGⅠに君臨する誉高きレースである。
当然ながら観客の数も弥生賞の比ではないほどで、観客席は鮨詰めもかくやな程に集まっていて、待機しているウマ娘どもの表情にも硬いものが混じっているのが見てとれた。
熱狂を横目に軽めの準備運動をしていると、ふとセイウンスカイが恰好良い勝負服だねと話しかけてきたから、お前も良い服を着ているなと返した。
するとキングヘイローもこれに加わって、二人とも素晴らしいけれどこのキングの勝負服には負けるわね。と勝ち誇って高笑いなどし始めるので、なんだお前裸ではないかと仰山に驚いてみせたら、誰が裸の王様よ! とちゃんとツッコミを入れてくる。切れ味鋭いツッコミに、さすがキングだなと笑ってやった。
肝心のスペはと言えば、何か悩んでいるような苦しんでいるような様子でこちらを見ている。こいつらしからぬ様子に違和を感じつつも、らしくて良い服だと誉めてやると、ありがとうと曖昧な笑みで返してきたからやはり妙である。
さすがに捨て置けんので何かあったのかと聞こうかとしたのだが、ちょうどゲート入りのアナウンスが流れてきて、係員の奴らが来たから有耶無耶になってしまった。
何か不穏な物を抱えたまま、皐月賞がスタートする。
ゲートが開いた瞬間に、どうと前へ出たのはセイウンスカイだ。弥生賞と同じく逃げを打つつもりのようだが、それにしてはかなりのハイペースに進んでいくから追い込みの私にはいささか厳しい状況を作られた。
キングヘイローは中団の前方で様子を伺っていた。差し寄りの先行と言った位置だが、脚に澱みがない所を見るにこれは作戦なのだろう。この微妙な位置でも、最終直線まで脚を残す算段があるなら恐ろしい事だ。
そして我らがスペなのだが、中団後方でじっと待機してちらりちらりとこちらを盗み見ている。普段ならば私をマークしていると見るが、レース前の様子からしてこれは別の原因があってだろう。
はたしてあれが何を抱えているのか聞きたい所だが、しかしレース中に何かできるはずもない。私にできるのは、目の前の事に集中するだけである。
スペの暗澹を置き去りにしてレースはハイペースに進み、最初のコーナーを抜けて向こう正面に入った。
セイウンスカイのペースがわずかに下がり、進みが若干ながら緩やかになる。するとここらで坂に向けて一息入れようと、全体の動きも緩やかなものになった。
序盤からハイペースに進み縦長の展開だったが、ここで緩むと距離が詰まって最終直線には前列が団子になる。後続が思うように追い上げられず、抜け出すのに苦労するに違いない。セイウンスカイは上手く立ち回ってレースを支配していると見えた。
前列に付けたキングヘイローは難なく抜けるだろうが、後列の私とスペはバ群と垂れウマを避けなければならんから体力的にいささか不利だ。
団子を見越して外に寄ると、スペが似たように外へ出て私の前につけた。むっとして進路を変えると、またもついてくる。なるほど私を前に行かせない算段らしい。
図らずもお互いがお互いをマークしているようだが、しかしこれはスペらしからぬ小賢しさだ。沖野の差金やもしれぬ。あの変態め、よくも面倒な知恵を与えてくれたものだ。
焦れる気持ちを抑え込みながら緩々と速度を上げて前を目指していくと、最終曲線の中程でキングヘイローが動いたのが見えた。
今ここで動くのは早計ではないかと思ったが、あの位置では追い付かれるとバ群に巻き込まれる可能性も出てくる。ここで無理矢理にでも動かねばならぬとは、あれもあれで厳しい状況に陥っているようだった。
一方で私はと言えば、スペを風除けにしながら加速を続け、そろそろ群を追い抜こうかと言う所である。
ずいぶんに執拗なブロックをしてくるスペだが、この先も私の調子について行くのでは坂道までに脚が残らんだろう。
普通ならばここらで切り上げて己も準備に取り掛かる所だが、これをまだ続けるとなると、はてさていかなる意図があるものか。にわかにはわからんが、警戒するに越したことはない。
最終直線に入ると同時にバ群を抜き去ると、いよいよ心臓破りの坂である。
前回はここで不覚を取ったが、はたして今回は同じ轍は踏まんと決めた。弥生賞のようには行かぬと思ってもらおう。
ハナを進むセイウンスカイは、向こう正面で一息入れたのが効いているのか、前回と比べていくらか余裕もあると見えるが、流石に距離が足りなかったか後続を突き放せるほどではないと見える。
キングヘイローは早めに上がった事が功を奏したか、澱みもなく快調に坂を登っている。こいつはどうも周りを気にしすぎるきらいがあるから、前後で一バ身の差がある今は走りやすいのだろう。
翻って我らだが、やはりスペが前を塞いでいるので抜け出せぬ。
だがこいつは脚が残っていないのか、ペースは保ってはいるがこれ以上は伸びる気配がないから、ここらで動く事にした。
ひとまずはこいつを抜かねばならんので、内に寄れて横に並ぶとそのまま末脚を使う体勢に入る。
だが坂を登り切った直後に、ちらと横目でスペを見た時に、こいつは悲しみやら嫉妬やらが混じった酷い顔で私を見ていたから、心底魂消て脚が緩んでしまった。
こんなにも重苦に塗れた顔をしたスペを、私はついぞ見た事がない。白毛のあいつが死んだ時でさえ、ここまでの顔はしていなかったとさえ思った。
レース前の様子と言い、レースの最中と言い、やはり今のスペはどこか様子がおかしくあったが、ここに来て益々おかしな事になったから私まで苦しくなった。
レースの最中でなければ今すぐにでも聞けただろうに、こいつを置いて先に行かねばならぬとはかくも計と行かぬ。
私は心中で涙を呑み、ただ御免とだけ呟くと、末脚を使ってぐんと加速した。
だが仕掛けがキングヘイローの背中を捉え、やがて追い抜こうかと言う時にはゴールラインを越していた。
萎えた心と脚では十全な加速ができず、図らずも弥生賞と同じく三着に終わったのである。
レースが終わってすぐに話を聞こうとスペの元へ駆け寄ったが、来ないでと拒絶されてしまったから直前で脚が止まった。何か言ってやらねばならんのに、言葉さえも喉奥で止まって出てこなくなった。
お前は今、何を思っているのだ。私の何がお前を苦しめているのだ。その苦しみを取り除くのに、私はどうしてやれば良いのだ。
言いたいことは山程あった。聞きたい事がいくつもあった。だが私は意気地がない事に、スペが俯いて地下バ道に駆け出すのを黙って見ているしかできなかった。
私はこの後、どのようにウイニングライブを終えたのか覚えていない。
すべてが終わってから一晩経って、やっと正気に戻った私は、すぐさま沖野にスペのあの様はなんだ、あんなにも苦しんでいたと言うに貴様はレース前に気付かなかったのかと詰問した。
対して沖野はいかにも神妙な顔で、薄々は気付いていた。けど、俺にはどうしようもなかった。と答えるから、何があったのだとさらに問い詰めた。
ところがこいつは私の質問に答えず、お前はスペの事をどう思ってるんだ。と聞き返してくる。
質問に質問で返すなと言ってやりたい所だが、まさかこの場面でこいつが無意味な質問をするはずもないので、私にとってはもっとも身近な好敵手だと答えた。
すると今度は、それスペに言った事はあんのか。と聞くからもう我慢ならず、お前は何が言いたいのだと苛立ち混じりに怒鳴り返してしまった。
普段ならば怒鳴るなと嗜めてくる所だが、しかし沖野はままならないもんだと首を振って、それから言葉を選ぶようにゆっくりと話しを始めた。
今のスペは、私に認められたくて焦っているのだと言う。
昔から妹分として後ろを尾いて回っていたあいつにとって、私と肩を並べてレースを走るのは目標であった。妹分としてではなく、名実共に好敵手として肩を並べ、ターフで相対する。それがあいつにとっては夢のひとつになっていた。
ところが中央に来てからは私でも勝てない相手が現れ、更にはテイエムオペラオーたちの背中を追うようになってしまったから、あいつは「このままだと置いていかれるんじゃないか」と言う不安と焦燥に駆られてしまった。
日頃は我慢できていた。上手く隠せてもいた。まだ大丈夫だ、まだ追いつけるはずだと己に言い聞かせる事で平衡を保っていた。
だが何事にも限度がある。
抱え込んだまま際限なく膨れ上がった焦燥と不安は、やがて大きな音を立てて爆発した。その原因となったのが、弥生賞での勝利である。
勝ったのだからこれで認めてもらえるだろうと思った矢先に、強がった私がいつものようにスペを誉めてしまったから、あいつは勝ちを譲られたのだと感じて絶望してしまった。
最後の場面で私が伸びなかったのは、自分に勝ちを譲る為にわざとやったのだと、そんな事さえ思ってしまったのである。
普段のあいつならば、きっとそうは思わなかっただろう。私の強がりにも気が付けたはずだ。
だが感情に押し潰される寸前の、一分の余裕もない精神状態では、よもや正常な判断もできなかった。
ましてやその後に、セイウンスカイやキングヘイローと親しげに言葉を交わしていたのを見てしまっては、かように思うのも宜なるかなだろう。
私が居心地の悪そうだと思ったあの表情はその実、どうしても認めてもらえぬ悔しさと、仲間たちへ嫉妬する自分を恥じていた故だったのである。
しかもその上に、日常へ戻った所で待っていたのは私の視線だ。何か言うでもなくただ見られているのが、あいつには、いつまで経っても追つけない自分に対する失望と軽蔑の眼差しに見えたのだと言う。
追い付いたと思った背中が実は遠くにあって、いまだ影すら踏めていないのだと錯覚した直後では、これもまた、正常に判断できなかったに違いない。
その結果が今回の皐月賞で起こった、執拗なブロックである。もっと自分を見て欲しい。置いていかないで欲しい。それらの気持ちを抑えきれなくなって、だからあいつは、あのレースであんな真似をしてまでしてしまったのだ。
総括すると、何て事はない。
すべては私の不徳と未熟が原因である。
私がもっと早くにあいつを好敵手と認めていれば、そしてその事を面と向かって、それこそ反省会で決意したあの瞬間に伝えていれば、こんな事にはならなかったのだ。
私が判断を誤ったから、あいつは苦しんでいる。その事実に思い至った束の間、ただ泣きたくなった。
沖野は、お互いに余裕がなかったからこそ起こった不幸なすれ違いだった。と言うが、違うのだ。一番近くであいつを見てきたと言うに、産みの親を亡くし、白毛の友人さえ亡くしたあいつが、内に秘めた孤独への恐怖に気付けなかった私こそが悪なのだ。それが最も情けなく、恐ろしく、そして憤ろしい。
今すぐにスペの所へ行って、私の心意を伝えなければと踵を返した。だが沖野が諭すような口調で、こう言ったから脚が止まった。
「転んじまった相手に手を差し伸べるのは、優しさか? それとも憐れみか? 失敗しちまった奴を慰めるのは、慈悲か? それとも同情か? お前が今やろうとしているのは、どっちだ」
私は答えられなかった。今の私がどちらの感情で動いているのか、簡単には判断ができなかった。
苦しくなって歯噛みして、ならばどうしたら良いのだと問えば、お前にできる事は何もないと断言する。
「何でも助けてやるのは友情じゃない、依存だ。お前もスペを正真正銘のライバルと認めたなら、もう中途半端に姉貴面をするのはやめろ。干渉してやるな。そのお前の態度が一番スペを傷付けるんだ」
正論を言われて、私は口惜しく駆け出した。耐えきれなくなって、物も言いたくなくなった。
それからと言うもの、寮に戻りベッドに飛び込んで、毛布を頭まで被る日々が続いた。
スペとは顔も合わせぬまま、そして練習にもどこか身が入らないまま、仲間の心配を他所にして私たちは鬱々と日々を過ごしている。
スペはおそらく、あんな走りをした後では合わせる顔がないと思って、顔も合わせたくないのだろう。
私も私で、今のスペにどう向きあってやれば良いのかわからず、この情けない気持ちを誰にも見せたくなくて、誰とも話したくなくて、貝のように暗闇の中に閉じ籠っていた。
しばらくそうやってもぞもぞしていじけていると、誰かが横に腰掛けて、毛布の上からそっと頭を撫でてきた。
やめろと掠れた声で言うと、大丈夫ですよとそいつは答える。何が大丈夫なものかと言えば、妹だって強いんですよ。とその声が答えたから、妹でもないお前なんぞに何がわかると返してしまった。
ぴたりと、撫でる手が止まった。けれどそのすぐ後にはまたゆっくりと動き出して、これは独り言なんですけど。と声が語り始めた。
「似たような立場にいたから、あの子の気持ちがわかっちゃうんですよ。優秀なお姉さんを持つのが、どれほど嬉しくて、どれほど辛い事か。そして、置いていかれるのがどれだけ苦しいかも……ね」
懐かしむような悲しむようなその声に、私はすぐさま己の失言を恥じた。言ってはならぬ事を言ったのだと気がついて、謝らなければならないと思った。
けれど声は先んじて私の肩に手を移すと、ぐっと力を込めるみたいにこう続けた。
「だから貴女は、ただ信じて。あの子ならきっと自分の力で立ち上がれると、隣でずっと信じ続けてあげて。それが一番、私たちへの……妹への応援になるはずですから」
肩から手が離れると、私はやおらと起き上がって顔を見た。はたしてめのまえにはいつもと同じ間の抜けた表情があったから、一瞬だけ迷ったあとに、今日は一緒のベッドで寝てもいいかと聞いた。
そいつはこの申し出にずいぶんと魂消た顔をしたあとに、満面の笑みを浮かべて、もう甘えん坊さんですね。と言うから、姉だって偶には甘えたいもんだと返してやった。
そして、ついに五月。
我らが夢の舞台。
――日本ダービーが、来る。
結局お兄ちゃんお姉ちゃんって生き物は、下の子みんなが大好きなんですよね。
吾輩はウマであるは電子書籍化しました。
本編に大幅な加筆修正に加え、新規エピソードが追加されていたり、各主要キャラの設定を見直したりと、いろいろな部分に手を加えています。
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