地獄のような時間が過ぎた後には、一般客が大挙して押し寄せてきたからてんてこ舞いになった。
ウマ娘のメイド喫茶と言うのはやはり相当のネームバリューがあるらしく、入口にも店内にも大行列で足の踏み場もない。
更にはライスシャワーとメイショウドトウがドジをしていろいろとひっくり返し、これを見たウイニングチケットがまた泣き出したりするから収拾もつかぬ。
あまりの忙しさに私も接客をしている余裕がなくなり、エアシャカールと一緒に厨房に篭りきりになってしまった。最初の方に来て私直々の接客を受けたアグネスデジタルらはよっぽど得した気分であろう。
とにかくそんな調子であったから、日暮れ前にはもう食い物どころか飲み物すらなくなって完全に店終いになったのだから、ファン感謝祭と言うのはつくづく恐ろしい。
売上自体は予想の倍以上ではあったが、この忙しさではまったく割に合わん。軽率に金を稼ぐ手段などこの世には存在しないものである。
日も落ちた頃にやっと片付けも終わり、広場のベンチでぐったりとしていたら、フクキタルがにんじんジュースを持って隣に腰掛けてくる。
何だ気が利くではないかと笑えば、今日は頑張ってましたから、先輩からのご褒美です。と言うので、素晴らしい心掛けだとありがたく頂戴した。
ところが、上機嫌にジュースををちゅうちゅう吸っていると、不意にフクキタルが、我知らずと言った様子で深い溜め息を吐いたからおやと片眉を上げた。
周りが暗いのでちょっと気が付かなかったが、隣を見るとどこか憂いを帯びた顔がある。
いつもうるさい程に騒がしいこいつが、静かに鬱々としているなど実に奇妙である。
あれだけ動き回ればさすがに疲れたかと思ったが、それにしては表情がいやに悲しげなのが気になった。
放っておくのも寝覚めが悪いので、似合わん顔をしてどうしたのだ。と聞いたら苦笑いを浮かべて、ちょっと疲れただけです。と言う。
しかしちょっと疲れただけではそんな辛気臭い顔にはならん。
そう返すとフクキタルは、路頭に迷ったように眉尻を下げて弱々しく笑うと、それからぽつりぽつりと訳を話し始めた。
何でも、私がやけくそに必死こいてスペたちにオムライスを作っている間にあいつらの事を占ったそうなのだが、その時にサイレンススズカの結果が非常に悪いものだったのだと言う。
どんな結果が出たのだと聞けばポケットからタロットカードを二枚、塔と死神のカードを取り出して私に見せた。
タロットカードにおいて塔のカードは、正位置では災難や災害による予期せぬ崩壊、逆位置では受難や誤解などによる不安な停滞を意味する最もネガティブな意味を持つカードである。
これがまず正位置で出たから、サイレンススズカの未来は非常に悪い。
そして死神のカードは言わずもがな。正位置ならば死などの破壊や終わりに関する凶事を示し、逆位置ならば創造や復活など再生に関する吉事を示す。
だがサイレンススズカの前に現れた際は、正位置だったらしい。
塔の正位置と死神の正位置。それが占いに出たと言う事は、近くサイレンススズカの身に、何か非常によろしくない災難が起こる暗示に他ならぬ。
当時は咄嗟に、大きな試練が待ち受けているようです。と適当に誤魔化したが、やはり友人の身に何か大きな不幸が起こるかもしれない事実が今日一日ずっと尾を引いていた。
フクキタルの憂鬱は、そう言う訳らしい。
たかがカードの絵柄でくよくよするなどよっぽどくだらんと思ったが、そんなくだらん事でくよくよするのがマチカネフクキタルと言う奴だからしようがない。
私は溜め息を吐いて、神様は乗り越えられる試練しか与えんと言うぞ。と肩を竦めた。
シラオキ様とやらがどんな神様かは知らんが、こいつほど厚く信仰している奴がいるのだから、信徒の友人に無体は働かんだろう。
それを言うとフクキタルは納得したようなそうでないような顔を浮かべて、そうかもしれませんね。と弱々しく頷いたから、こいつはことに重症だなと思った。
占い狂いも難儀なもんだ。占いの結果ひとつで生涯が左右されると勘違いして、仰山に一喜一憂せねばならんのだから大変だ。
先程よりもずっと大きな溜め息を吐いた私は、占いの結果なんざいくらでも覆るんだから元気を出せ。お前がそんなだと、こっちまで調子が狂うんだぞ。と照れ隠しを混ぜながら励ましてやった。
フクキタルは驚きに目を見開いたあと、それもそうですね。と救われたように笑って頭を撫でてくるから、何か誤魔化そうとしてないかとむくれてみせた。
そうしたらフクキタルが、あ、バレちゃいました? と悪戯娘よろしく舌を出してきたから、こいつめと脇腹をくすぐってやり返してやった。
やはりこいつには辛気臭く白けた顔より、図抜けた明るい笑顔の方が良い。
ふたりしてじゃれ合っていると、遠くの方でどんと音が鳴って、そのすぐあとには夜空に華が咲いた。感謝祭の終わりを告げる花火が打ち上がったのである。
おおっ、とフクキタルが歓声を上げた。つられて私も空を見上げて歓声を上げた。
どんどんと打ち上がる花火が秋の夜空を煌めきで彩っていくのを、ただ食い入るように見つめてしまう。
こんなにたくさん、しかもいろんな種類の花火が、間髪入れずに打ち上がるのを見たのは初めてだ。花火だけで夜がこんなにも明るくなるなんて、ここに来なければ一生わからなかっただろう。
この感動の気持ちを誰かに伝えてやりたい。この感情を言葉にして吐き出したい。そう思ってフクキタルのほうを見たら、何か眩しいものを見るような眼でこちらを見ているから、開いた口が閉じてしまった。
どうしたのだと聞いたら、ありがとうございます。と脈絡もなく礼を言ってくる。いきなりの事に驚いて、どうした急に。と困った顔を傾げてみても、花火を見上げて穏やかに笑うばかりで何も答えなかった。
さっきの励ましの事か、それとも何か別の事でかはわからんが、まあ私のおかげで良い気分になったなら幸いである。
しかしこいつの横顔を改めて見ると、何だかんだやはり顔が良い。歳以上に大人びた美しさが備わっていて、不思議な魅力を纏っている。
こうして黙っていりゃあこいつも綺麗なもんだ。普段からこれくらい静かなら、学園でもそれなりに人気だろうに勿体無い。とは言え、静かでお淑やかなフクキタルと言うのは、想像するとやっぱり性に合わんから、こいつはきっと今のままが一番に違いない。私も今のこいつの方がよっぽど好きである。
頬杖を突いてそんな事をつらつら考えていると、私の視線に気が付いたらしいフクキタルが、何ですかそんなに見つめて。もしかして私に見惚れちゃいました? と得意な顔で言うから、私はちょっとだけ言葉に詰まったあとに、そんな訳があるか、ばかを言うな。と吐き捨ててそっぽを向いた。
見惚れたなんてとんでもない。まったく、本当に油断も隙もない奴である。
ファン感謝祭が終われば、また鍛錬とレースの日々である。
鍛錬は主に、末脚の完成度を高める事と、同時に基礎能力の上昇を図る為に坂路往復を行った。
ダービーで放った末脚も威力があったが、まさかあの程度で完成ではない。
まだまだ重心移動は甘く完全ではないし、踏み込みからの加速も無駄が多くある。末脚をゴールまで維持し続ける力だってまだ未熟で、実戦で使うには幾分も心許ない。
坂路往復とは、それらの課題を解決する為に行われた鍛錬である。
ただ坂道を登るだけではあるが、四ハロンもある坂を登り切るのだ。スタミナとパワーは平地の二〇〇〇を走るよりも多く要求される。
加えて登り切るまでのタイムを縮める為には、瞬発力とフォームを崩さずに走る技術も必要となるため、基礎能力を鍛えるには打って付けなのである。
この鍛錬を次のレースまでひたすらに行った。雨が降ろうが風が吹こうが関係なく、干物の叱責を背に受けながら坂を登り続けた。
とにかく厳しくてキツかったが、おかげで今の私はダービーの時よりも、格段に強くなったと実感している。今ならばテイエムオペラオーとも良い勝負ができそうなくらいである。
ただひとつ難点があるとすれば、坂路往復のあとは足腰がガクガクして赤ん坊みたいなへんてこな歩き方になってしまう事か。
坂路往復を始めた頃は特に酷くて、歩くのもひと苦労な状態になっていたから、スペたちには要らぬ心配をかけてしまった。
レースの方は、産経賞オールカマーに出走した。
GⅡ芝二二〇〇のこのレースに出走する目的は、次なるGⅠレース、クラシックロードの終着点たる菊花賞に向けての調整である。
最初は京都大賞典か京都新聞杯かで迷っていたのだが、前者にはセイウンスカイが、後者にはスペとキングヘイローが出ると言うからこちらになった。
私は好きな物は最後に食べるウマ娘だから、好敵手たちとぶつかり合うのは菊花賞の大舞台まで取っておきたいと思ったのだ。
さてもレースの結果であるが、無論一着である。序盤から逃げが競り合って縦長の展開になっていたが、後半に失速したのでそこを後ろからばっさりと抜いてやった。
坂路のおかげか、オールカマーは気持ち良く走れた。いつものように大外から一気に捲り上げてやったのだが、かのトウショウボーイを負かしたグレートセイカンと同じタイムである二分二.二秒を叩き出したから、こいつは上出来な仕上がりだと確信した。
この分ならば菊花賞で世界レコードも夢ではないかもしれない。なんて、いささか以上に思い上がった事さえ考えてしまう。
菊花賞に向けて、あらゆる面で万全であった。心身ともに最高の状態で、菊花賞に臨める所であった。
しかし先日に行われた毎日王冠を偵察がてら観戦した際に、エアシャカールがいつも以上に厳しい顔で、潰れるなあいつ。とサイレンススズカを指して言ったから、私の中で大きく事情が変わった。
どう言う事だと問い正せば、エアシャカールはしまったと顔を歪めて口を閉ざす。それでもしつこく問いかけ続けると、観念したように話を始めた。
サイレンススズカの逃げは身体の耐久に対してあまりにも速度が出過ぎているらしく、このままレースを続ければ脚部の負荷が許容値を上回り、いつかには脚の骨、とりわけ旋回癖で酷使する左脚の骨が折れると言う。
しかもこれはもう避ける事のできない事実で、運が良ければ練習中の故障で休養。運が悪ければレース中の故障で予後不良か、あるいは転倒して打ち所悪くそのまま死亡か。そんな所まで来ているそうだ。
あんなに調子が良さそうな奴を指して何を言うかと肩を竦めたら、情報至上主義のエアシャカールは愛用のノートパソコンを睨みながらこう述べた。
「一般的なウマ娘の最高速度は六〇キロ、現役の競走ウマ娘でも出せて七〇キロ前後ッつう統計が出てる。ンで、これに対して今のサイレンススズカは平均時速七五キロ以上、ゴール前の伸びじゃあ八〇キロは下らなかった。これがどう言う事かわかるか? アァ? あのバカは身体が壊れねェギリギリ、テメェの脳味噌が超えちゃなんねェと定めた明確な線を、軽々しく超えてんだよ」
ほとんど怒声に近いエアシャカールの言葉に、私たちは反論もできずに押し黙ってしまった。あのウイニングチケットでさえ黙って視線を彷徨わせた。
この情報をどう扱って良いのか、全員が当惑して口も開けずにいた。
どんなに丈夫な機械であろうとも、限界以上の力を引き出せば最後に待ち受けているのは自壊である。
人間だろうとウマ娘だろうとそれは同じで、己の持ち得る以上の力を出せば、代償として必ず身体のどこかしらを悪くする。
サイレンススズカにも、今に限界を超えた代償が襲いかかって来るに違いないと、エアシャカールが言ったのはそう言う事だった。
にわかには信じ難い。たかが情報程度で何がわかるものか。数字は嘘を吐かんが数字を扱う奴は嘘を吐くもんだから、今回はエアシャカールの早とちりに違いない。
だがもし本当に言う通りだったとして、現実にそうなってはスピカの面々が気の毒の極みだ。あんな強い奴が酷い目に遭ってはしばらく立ち直れんだろう。
特にスペなんか一度あいつを亡っているのだから、そうなってはどうなるか想像がつかん。罷り間違って死に別れなどした日には、失意のままターフを去るのもあり得る。
それにフクキタルの事もある。友人の身に不幸が起こったと知れば、きっと自分の占いのせいだと落ち込むはずだ。そんなのは私の良しとする所ではない。
何としてもこの事態を解決せねばならない。しかしどうやってサイレンススズカを助けたら良いのか。
本人に言った所で、脚に異常がなければあれは走るのを止めんだろう。
沖野に伝えれば何とかなるかとも考えたが、練習でさえ危ういとなればどうしようもない。
そもそもしばらく休めば治るようなものかもわからんのだから、あれこれ事前の策を考えるだけ無駄とさえ思える。
しかしだからとこれを放っておくのは、私の良しとする所ではない。
友人が死ぬかもしれんと言うのに、また指を咥えて見ているだけなど、それはもっとも我慢ならん事だ。決して許してはおけない。
だがこの状況は、はたしてどうしたら良いのか。止める方法をわずか考えたが、私は元来ばかなので上策が思いつかぬ。
結局は下策しか浮かばんのだから、私は無鉄砲に物事を解決するしかできんのだろう。
私は青い顔で呆然としているフクキタルに呼びかけると、ひとつカードで私の未来を占ってくれと頼んだ。
急な物言いに困惑した干物が、占いで解決できる訳ないだろ。と言ったが、私はそれを手で制して、良いからまずは占いを見ろ。と言い聞かせて黙らせた。
フクキタルもでもだの何だと言って占いを躊躇していたのだが、二度も重ねて頼むとやっと占ってくれた。
恐る恐ると差し出された山札から一枚引くと、戦車の正位置が現れた。強い意志や実行力による勝利を示すカードである。
つまりこれは、下策でもやれば良いと言う事なのだろう。占い程度で自信が付くもんかと思っていたが、なるほど。占いも案外ばかにならんのかもしれん。
手応えに思わず笑みを浮かべるとライスシャワーが何か察したのか、危ない事はしないよね? と問いかけてきた。
メイショウドトウも心配になったのか私の制服の裾を摘んで、怪我だけはダメです。と震えた声で言う。
私はふたりの言葉に当たり前だろうと頷いてから、干物に出走予定を変えてくれと言った。そうしたら当惑を隠し切れない声で、何をするつもり。と問い返されたので、ただの人助けさ。と余裕たっぷりにウインクしてみせた。
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