夏目漱石「吾輩はウマである」   作:四十九院暁美

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すいませ~ん!木下ですけどぉ、(エアシャカール実装)まぁ~だ時間かかりそうですかね~?




 天皇賞である。

 空は生憎と快晴にはならなかったが、気持ち良く走るには申し分ない天気である。会場の盛り上がりも甚だしく、さすが旧八大競走に数えられるこのレースは、やはり格が違うと見えた。

 

 そんな熱狂渦巻く会場を尻目に、我らは控室にて形ばかりの作戦会議を行なっている。

 取る作戦は変わらぬ。サイレンススズカの前を行くように逃げて、相手の勝負をさせないようにする。スタミナとパワーにものを言わせて、とにかく前に行く。おおよそ作戦と称するのも烏滸がましい愚直過ぎる勝負だ。

 だが結論からはっきり言ってしまえば、この作戦で勝てる見込みはやる前からすでにない。

 サイレンススズカは一枠一番の最内での出走で、もはや鬼に金棒どころの話ではない。対して私は七枠九番と外枠にあるから、逃げ作戦は完全に勝ち筋が消えてしまった。

 干物は困った表情で頭を掻くと、まあどうせ勝てないんだから諦めがついていいんじゃない。と腑抜けた事を言う。

 確かにそうかもしれんが、やってみないことにはわからんのが勝負である。薄くとも勝ちは諦めんぞと返して不機嫌に鼻を鳴らしたら、君はそう言う子だったね。と呆れたように笑った。

 係員がやって来てもうすぐ時間だと告げると、愛すべきチームメイトが激励の言葉を送ってくれた。

 ライスシャワーは私の両手を握って笑顔とともに、ライスも応援するから、レース頑張ってね! と言ってくれたから、お前の応援があれば百人力だなと返した。

 ウイニングチケットはいつものように気持ちの良い笑顔で私の手を握ってぶんぶん振って、勝てないかもだけど頑張ってね! と大声で叫ぶので、ばかめ私は勝つぞと肩を叩いた。

 エアシャカールは呆れた顔で、不可能に挑むなんざロジカルじゃねェが、まあやれるだけやってみろや。とのたまうので、私は不可能を可能にするウマ娘だぜと胸を張って見せた。

 メイショウドトウは不安に眉をしかめながら、怪我には気を付けて下さいね。と忠言めいた言葉で心配を伝えて来たから、頑丈さには自信があるから大丈夫だと笑ってやった。

 そして最後にフクキタルだが、昨日に引き続き青い顔のまま私を抱きしめると、勝たなくても良いからとにかく無事に帰って来てください。と耳元で囁いた。

 よっぽど悪い予感とやらを信じているのだろう、抱きしめた腕も、囁いた声も震えていて、あまりに弱りきっている様子だ。

 たかが予感程度で、まったくしようのない奴である。私はフクキタルを抱きしめ返すと、努めて明るい声で心配しすぎだばか者めと背中を摩った。そして額を合わせると、死にに行く訳でもないんだから必ず帰ってくるさ。と強気に笑ってみせた。

 

 シリウスの奴らと別れて地下バ道を歩いていると、前方にしゃがみ込んでいるサイレンススズカの後ろ姿が見えたので声をかけた。

 何をしているのだと聞けば、左の靴紐が解けてしまったので直していたらしい。レース直前にそんな調子で大丈夫かと肩を竦めたら、大丈夫よ、今日はいつも以上に調子がいいの。と言う。

 そいつは結構だが、しかし脚の事もある。無闇に速度を出して酷い目に遭ったのでは誰も浮かばれん。

 調子が良いからと無理だけはするなよと言えば、サイレンススズカは意味がわからなかったのか可愛らしく首を傾げて曖昧な返事をして、いくらスペちゃんの幼馴染でも手加減はできないわよ。と無自覚に喧嘩を売って来たので、お前は絶対にギャフンと言わせてやると返してやった。

 ターフに出ると、秋風が頬を撫でた。熱狂とは裏腹に吹く風は冷え切って、我々に冬の到来を予感させた。揺れる緑もどこか寒々しく見えて、もう木枯らしに茶色くなるかと思えた。

 ゲート入り前に軽く準備運動をしているとエルコンドルパサーがやって来て、今日はよろしくお願いしマース! と挨拶をしてくる。

 こちらこそよろしく頼むぞと返したら、勝つのは貴方でも、スズカさんでもなく、私デスから。と宣戦布告して右手を差し出してくるから、あとで吠え面かいても知らんぞ。と笑いながら手を取ってやった。

 ゲートに入ると、世界から隔離されたような静けさが辺りを包んだ。呼吸を止めて構えると、数秒後にはゲートが開いた。

 

 勢い良く飛び出して前に出たが、先にハナを奪ったのはやはりサイレンススズカである。

 私はエルコンドルパサーとともに前方二番手の位置で様子を伺う形になった。

 考え得る中でも一番にまずい状況だ。ここまで離されてしまっては、もう私の脚では巻き返すのも難しい。

 しかしこれ以上にまずかったのは、二ハロンで私どころか誰一人として巻き返せる状況ではなくなった事だ。

 最初こそゆっくりとした走りだったサイレンススズカは、二ハロンを過ぎた辺りでどんどん加速していき、第二コーナーに入った頃には後続を完全に置いてきぼりにする程の勢いになっていた。

 あとで聞いた話なのだが、この時の一〇〇〇メートル地点の通過タイムが五七.四秒と、前走の毎日王冠よりもかなりのハイペースであったと言う。

 当然そんな速さで走られては誰もサイレンススズカには追いつけぬ。実際、向こう正面に入ってすぐ大差にまでなっていたのだから、きっと走ってる奴らどころか、見ている奴らでさえも速すぎると思っただろう。

 しかもここまで差をつけたと言うに第三コーナー手前でさらに加速するのだから、あいつはもはや走る為に生まれてきた化け物ではないかとさえ考えた。

 

 だがサイレンススズカが第三コーナーの、ちょうど大ケヤキの裏側に入った所であった。

 

 風の音に乗って何かが砕けるような音が流れてきて、直後にサイレンススズカの後ろ姿がぐらりと左に傾いた。走り方も尋常ではなくなり、左脚を庇いながら転ばないように必死に走っているような、酷く不恰好な状態にまでなっていた。

 

 恐れていた事態が起こったのである。

 

 私は束の間、恐怖に息を呑んだ。

 右脚一本では減速もままならず、十と経たずに転ぶだろう。時速八〇キロを超える速度で、あいつはターフに顔から突っ込む事になるのだ。

 そうなっては、確実に助からない。サイレンススズカの身体は、二度とは見れないような想像を絶する惨い状況になる。

 そんな事にさせるものか。

 伸び切った線のような景色の中にあって、私は半ば絶叫しながら加速して小さな背を追いかけた。

 一歩を踏む毎に、サイレンススズカの身体が前に沈んでいくのが見える。気がつけば遠くにあった背中はもう近くにあった。だがその背はもう地に落ちる寸前であった。

 右手を伸ばす。だが拳半分届かない。このままでは、死んでしまう。

 友人が目の前で死ぬのは嫌だ。

 友人が幸せを悪くするのは嫌だ。

 友人に置いて逝かれるのは、もう嫌だ。

 我知らず身体を投げ出して、右手をめいっぱい伸ばした。

 何かが剥がれるような嫌な音がして、鋭い痛みが肩に突き刺さる。無理に腕を伸ばしたから、肩を脱臼したのだろう。

 だがおかげで届いた。掴んだ。

 地に落ちる寸前、サイレンススズカの身体を抱え込むと、助けられたと言う安堵が私の身体を満たした。

 

 その直後に、私はテレビの電源が切れるみたいに、ぷつりと意識を失った。

 

 

 

 

 

 

 ふと瞼を開くと、昔に遊んだ河原にいた。

 豊かな森と、澄み切った清流と、丸石ばかりがあるここで、私たちはよく釣りや水切りをして遊んでいた。

 どうしてこんな所にいるのかわからない。何かやらなければならない事があったような気がするのだが、思い出深く懐かしい場所に来てらしくもなく望郷の念に駆られた私は、いつしかそんな事も忘れてしまった。

 ただただ懐古に忘我して空を見上げていると、ふと穏やかな水音に混じって何かを積み上げる音が聞こえてきた。

 はてと音がした方を見やれば、あいつが石を積み上げているのが見えたから魂消た。

 声をかけると、はたしてあいつは私を見つけて微笑んだ。久しぶりだねと言って、あの時と変わらぬ笑顔を浮かべた。

 須臾にして噴き出した感情は、ぐちゃぐちゃになって顔に滲んだ。

 思わず抱きついて、胸の中でずっと会いたかったと繰り返した。八つ当たりのようなそれを、あいつは私の頭を撫でて受け止めてくれた。

 このまま、こうしていたかった。この陽だまりのような温もりの中にいたかった。

 しばらくして感情が落ち着くと私はいろんな話を聞かせた。

 髪のひと房を染めた。中央トレセン学園に転校した。そこでいろんな奴らと出会った。最初の模擬レースでは勝ったがリギルの試験では負けてしまった。シリウスと言うチームに所属して頼れる先輩にたくさん教えてもらった。弥生賞では情けない油断をして負けてしまった。皐月賞ではスペと喧嘩してしばらく口も利けなかった。そして我らが夢の舞台であるダービーで激突した私たちは、同着と言う奇跡の結果に至った。

 お前が死んだあとにはこんなにもたくさんの事があったのだと、これまでの出来事を余さずに語って聞かせた。あいつは私が話す度に相槌を打って、楽しそうに話を聞いてくれた。空からずっと見てたよ、私のためにありがとう。そんなふうに、言ってくれた。

 すべてを聞き終えるとあいつは、これからどうしたい?と聞く。私はもうダービーを獲ったから、あんまり思い残す事はないと答えた。スペを遺して逝くのは心苦しいが、あいつにはもう仲間がたくさんいるから、きっと立ち直れるだろう。フクキタルとの約束も守れなかったけれど、あいつだってシリウスの仲間がいるのだから大丈夫に違いない。あとはテイエムオペラオーとメイショウドトウと対決したいと思っていたが、こいつと一緒になれるならそんな未練は捨てられる。

 これを聞いたあいつは優しく私の肩を掴んで、未練ばっかりじゃない。と笑って、そんなに未練があるならもう帰らなきゃ。スペも、フクキタルさんも、テイエムオペラオーさんもメイショウドトウさんも、みんな待ってるよ。と言った。

 私は嫌だと叫んだ。ずっとここにいるんだと言葉を返した。せっかくこうして会えたのに、また離れてしまうなんて耐えられない。こんなにも好きな奴を手放すなんて、そんな事はできなかった。

 けれどあいつはそれを拒否するように私の手を解いて、まだやり残した事がいっぱいあるんだから、早く帰ってあげないとダメだよ。と言って一歩後ろへ下がった。

 それと同時に、私の身体は徐々に空へと浮き上がって、河原から離れようとし始める。どれだけもがいても逆らえなかった。抗えぬ何かによって、またあいつと引き裂かれてしまった。

 それでも、せめてもう一度だけと、右手を伸ばした。あいつは私の右手にそっと触れて、大丈夫、離れてたって心は一緒にいるから。と言った。

 途端にぐんと身体が浮き上がって、あいつの姿が見えなくなる。視界が白くぼやけて、声が遠ざかって行く。

 やがて繋いだ手も離れて身体が空に浮かび上がり、もうあいつの姿さえも見えなくなった。

 悔しくて、悲しくて、私は涙に濡れた瞼を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 次に目が覚めた時、目の前には真っ白な天井があった。もうあいつの姿も、河原も、どこにも見えない。ただ清潔感のある真四角の部屋がここにあった。

 あの再会は、悪い夢か。いや、良い夢だったのだろう。あいつのおかげでこうして現世に戻れたのだ、きっとそうに違いない。

 しばし呆然と夢のことを思い返していると、全身が鈍い痛みを訴え始めた。右腕がギプスで固定されて動かせない。口元に緑の何かが付けられていて、とにかく煩わしい。何なのだこいつは、息苦しくって敵わん。

 痛む身体に鞭打って、上体を起こして口元につけられたそれを取り外すと、何だか自分の身体になった気がして大きな溜め息が出た。

 しかし次の瞬間には誰かが勢い良く私の首元に抱きついてきたから、うぎゃあと情けない悲鳴をあげてしまった。

 怪我人に無体な事をしやがって、まったく常識のない奴め。いっそ拳骨のひとつでもくれてやろうかとも思ったが、下手人がしゃっくりを上げながら啜り泣きを始めたからそんな気持ちもすぐになくなった。

 背中を摩りながら心配かけてすまなかったと謝ると、置いてかないで。と親から離された子供のように何度も言う。ただでさえ二度も置いて逝かれているのに、ここに来てまた遺されたのではこいつも堪ったものではないだろう。

 その気持ちを知りながらあんな無茶をしたのだから、私は何も言い返せなくって、ただただ沈痛に歯噛みするしかない。無鉄砲にサイレンススズカを助けて、そのくせこいつを置いて逝こうとして、私は今世紀でも最低最悪の悪者だ。

 親譲りの無鉄砲で損ばかりするにも、限度はある。サイレンススズカを助けた事に後悔はないが、しかし今回の怪我ばかりは本当に言い訳もできん。この痛いくらいの抱擁も、罰として受け入れよう。

 たったひとりの幼馴染を、永遠の孤独に突き落とそうとした大ばか者の私にできるのは、それくらいしかなかった。

 

 しばらくしてスペが落ち着いたのを見計らい、サイレンススズカはどうなったのかと聞いた。すると、どうやら脚以外は特に大きな怪我もしていないと言うから安心した。どうやら私が死に掛けたのも、無駄ではなかったらしい。

 それを聞いて気が抜けた私は、そろそろ身体の痛みが強くなってきたのでナースコールを押して看護師を呼んだ。しかしいの一番にやって来たのは、酷く憔悴した様子のフクキタルだったから、私は一抹の後悔に喉を詰まらせた。

 一瞬の沈黙が経ってから、心配をかけてすまなかったと謝ると、フクキタルは感情を押し殺して震えた声で、何をやってるんですか。と言った。

 こいつの言いたい事はわかる。私がどれだけ愚かで、どれだけ多くの者たちに心配をかけたかも、わかっているつもりだ。

 だから私は、ただ黙ってこいつの抱擁を受け入れた。

 縋り付くように強く掻き抱いてきたスペとは違い、まるで存在を確かめるような弱々しい抱擁は、悲哀と安堵の香りがした。




自分の身を犠牲にしてウマ助け。
世間から見れば美談ですけど、遺される方からしたら堪ったもんじゃないですよね。

 吾輩はウマであるは電子書籍化しました。
 本編に大幅な加筆修正に加え、新規エピソードが追加されていたり、各主要キャラの設定を見直したりと、いろいろな部分に手を加えています。
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