夏目漱石「吾輩はウマである」   作:四十九院暁美

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 スペと共に飛行機に乗り無事に本土へ降り立ったは良いが、中央トレセン学園にはどこをどう行けば良いのかわからぬときた。構内の路線図は蜘蛛の巣のように複雑としていて、二人でああでもないこうでもないと確認してもやはりわからぬから困ったものである。

 しようがないので近くの駅員に教えを乞うて切符を買い、いかにも安物のマッチ箱のような煙を吐かない汽車に乗り込んだ。

 

 三十分ほどごろごろと汽車に揺られている間、スペが子供のようにはしゃぐものだから恥ずかしくなった。

 トレセン学園最寄りの駅に降りると、スペが東京のレースが見たいというので予定を変更して東京レース場に立ち寄ることにした。

 駅を出る際にスペがやたら改札に引っかかる醜態を晒したものだから、車内に引き続きやはり恥ずかしくなった。

 

 いざと踏み入った東京のレース場であるが、やはり故郷のそれとは規模が段違いである。

 おおよそ数万を収容できるであろう観客席には雲霞の如くと人で埋め尽くされており、ターフを走るウマ娘の鬼気迫る様子は地方と比べるのすら烏滸がましい。

 やはり走ることへの気概が違う。ここに来て正解であった。今の私たちでは足元にすら及ばぬ現実に、我知らず武者震いをした。

 

 不意にスペが歓声を上げて、先頭のウマ娘を差してあの人のようになりたいと言った。なるほどたしかにあの逃げっぷりには感心する。憧れを抱くのも頷けるほどだ。

 だがスペの体力であの逃げをしては途中でスタミナが尽きるだろう。それを指摘すると、ならばせめて同じチームに入りたいと言うから好き勝手にすると良いと返した。

 

 レースも見終わったので、さて学園に行くかと口を開いたのも束の間、スペが突然ぎゃあと頓狂な悲鳴を上げた。

 すわ何事かと見れば何とも恐ろしいことに、壮年の男が何やら真面目腐った表情でスペの足を撫でている。

 我が親友に白昼堂々痴漢とは恐れ入った。度胸に免じて腕一本で許してやる。と手を捻り上げてやればそいつは、良い脚をしていたからつい。と言う。都会の変質者とは随分と素直なのだな。と心中で感心した。

 しかし私の脚を一眼見て、引き締まっていながら弾力を失っていない良い脚だ。走り方はきっと追い込みだろう。と言い当ててきたから魂消て手を離してしまった。

 この人ただの変質者じゃなさそうだよ。と眼をまん丸にしてスペが言う。私もこいつにいささか興味が湧いたから、自分がどう言う輩か言い訳してみろと凄んでみせた。

 するとこいつは慌てて中央トレセン学園でトレーナーをしていると言い、懐からよれた名刺を出した。受け取った名刺には確かに中央トレセン学園所属トレーナーと書かれており、その下には沖野という名前が連なっている。

 なるほど道理で観察眼に優れているわけだと納得したが、しかしそれはそれとしてだからと公衆の面前で乙女の脚を触るのはどうかと指摘してやれば、ごもっともである。と真摯に反省の意を示したから、スペと話して警察に突き出す代わりに丁度良いので中央トレセン学園まで案内してもらおうということになった。

 それくらいならお安い御用だ。と沖野が言うので、精々他のウマ娘に見惚れるなよと釘を刺してやると押し黙るから幸先が思いやられる。

 

 幾つかの問題に出くわしつつもいよいよトレセン学園へ来たら、西洋屋敷を思わせる大きな門がまずあって、そこからずっと小綺麗な石畳の道が続いているから魂消た。

 遠目に見える巨大な校舎は、斜陽を受けて茜色に輝いているようにも見えて、都会の学校というのは外見からしてこんなにも洒落ているのかとスペと二人して立ち尽くしてしまった。

 何とも言えずに呆けていると、それじゃあ頑張れよ転入生と言い残して行った沖野と入れ替わりで、全身を真緑の服で着飾った奇妙な女が声をかけてきた。

 この真緑の女は駿川たづなと名乗った。理事長秘書であるらしい。しかし奇妙な服である。その服装は都会の流行りかと訊くと苦い笑いと共に、制服です。と返されたから、都会の学校の制服はいささか以上に悪趣味ではないかとこちらへ来たことをわずかに後悔した。

 それが自分の思い違いであると知ったのはすぐのことである。

 

 たづなの先導に従い校内を歩いていると、途中から青っぽい制服を着た生徒たちとたくさんすれ違ったが、皆物珍しげな視線をこちらに向けてくる。中には私よりも大きな奴がいたから、この人たちと競い合うのかと思ったらなんだか怖い。とスペがすっかり萎縮していた。

 何を怖がることがあるか。これからはここに身を置くのだから、気持ちで負けていてはあのウマ娘のようにはなれぬぞと励ましてやると、少しばかり元気を取り戻したようであった。

 

 たづなはまず最初に理事長室へと私たちを通した。驚いたことにこの理事長というのが子供ほどの背丈しかなく、しかも頭に猫を乗せた奇妙な女である。やけに快活な笑みを浮かべていた。

 歓迎! 君たちのような気概ある生徒は実に好ましい、この学園の生徒にも良い刺激になるだろう! と無闇に大声を張り、大きな校章の印の捺さった書類と、数字が書かれた板がぶら下がった寮部屋の鍵を渡した。

 それから子供理事長から2、3言ほど激励の言葉を貰ったあと理事長室を出ると、たづなは今から生徒会室に案内しますけれど、良い人ばかりなので緊張せずに挨拶をしてくださいねと聞かした。

 スペが言われるまでもなく緊張した様子であったので、尻尾の付け根をくすぐるなどして緊張をほぐしてやると、手刀を脳天に貰った。

 

 たづなに案内されて生徒会室へ入ると、白い三日月が浮かんでいるのが見えた。

 生徒会長であり皇帝とも名高いシンボリルドルフ殿は凛として、まずは遠路遥々ようこそ。と挨拶する。続けて左右に控えていた二人も同様に挨拶してきたからご丁寧にどうもと返すと、スペも言葉のような何かを発した。せっかく解いてやった緊張がぶり返したらしい。

 スペのいかにも初々しい様子に微笑んだ会長殿は、追々ゆるりと話すつもりだが、まずはだいたいのことを呑み込んでおいてもらおうと言って、それからこの中央トレセン学園について長いお談義を聞かした。

 

 私もスペも最初は真面目腐って聞いていたのだが、途中からいい加減になってしまった。

 

 なにせ話の最中に会長が無闇に同じ言葉を繰り返すものだから、もしかしてそいつは洒落ですか。と言えば会長はいかにもと手を上げて大いに喜ぶのだ。

 よもや天下に名高い皇帝が下手くそな駄洒落を好むとは思わず、ついレースの強さと洒落の上手さは比例しないのですね。と言ってしまったから、会長の耳が露骨に垂れ下がったのを見たスペに、失礼なことを言うなとゲンコツを食らった。

 左右の二人はそっぽを向いて笑いを堪え、たづなは曖昧な苦笑を浮かべるばかりである。

 

 そう、こうするうちに鐘が鳴った。学校中が急にがやがやする。もう夕食を食べる時間だから食堂に行ってきなさいと仰るから、挨拶もほどほどに生徒会室を出て、たづなに尾いて食堂へはいった。

 

 転入生というのはどこでも物珍しいからちやほやされると思っていたのだが、誰も声をかけてこない。

 大かたたづながいるから恐れ入って声をかけにくいのだろうと考えていたら、すぐ隣ではスペがいつも以上に白飯を攫っていたから閉口した。なるほど道理で話しかけてこない筈である。

 そいつはさすがに取りすぎだろうと指摘すると、何を勘違いしたのか、あげません! と怒るのだから付き合ってられぬ。

 

 誘いを固辞するたづなを無理矢理席に着かせ、三人で飯をかっ食らっていると、きみたちが噂の転入生だね。と話しかける者がある。見れば地方でも無敗の帝王と噂に名高いテイエムオペラオーがいた。

 そう言う君はテイエムオペラオー。と応じれば、そう! ボクこそテイエムオペラオー! と仰山に気障な態度で自己紹介してくるから魂消た。だが話してみれば言葉の端々にこちらの気遣いが見えるから、中々どうして見かけによらぬ。

 

 次に話しかけてきたのはゴールドシップと名乗るウマ娘だったが、こいつはこいつで終始訳の分からぬことを言う者だからやはり魂消た。

 別れ際に、ゴルシちゃんからの餞別だぜ⭐︎と割り箸で作ったゴム鉄砲を渡されたが、今更こんなもので遊ぶ歳でもないので無用の長物である。

 しかし友好の印とあっては捨てる訳にもいかぬので、よろしくしておいてくれとたづなに預けておいた。スペがどうしたら良いのか分からず、箸とゴム鉄砲を交互に見ていたのでそいつもぶん取ってたづなに預けてやった。

 

 続けて話しかけてきたのはマチカネフクキタルというウマ娘なのだが、こいつもまた濃い奴であった。

 何やら矢継ぎ早に質問を重ねてきたかと思えば、占いがどうだのと言って潰れた蛙のような声を上げるのだ。

 何をそんなに騒ぐことがあるかと聞けば、貴女は今日見た中でも一番幸運な方なのです! とのたまうからこれは中々に気分が良い。

 ならば幸運を分けてやろうと言って調子良く唐揚げをひとつ口に放り込んでやると、ハッピークッキーもんじゃ焼きー! と両手をあげて喜ぶからまったく痛快だ。

 

 しかし沖野と言い、理事長と言い、生徒会長と言い、どうにも中央に来てから会うのは濃い奴ばかりである。

 ここではこれくらいキャラが濃くないと生き残れぬのかとたづなに訊いたが、ゴム鉄砲を片手に何とも言えぬ苦い笑いを浮かべるばかりで答えぬから、おそらく当たりだったのだろう。

 

 腹も膨れたのでさっさと食堂を出ると、たづなが次は寮へ案内しますねと言うから尾いて行く。

 

 寮のある区域に通されると、まず最初に美浦寮母のヒシアマゾンが挨拶をしてきた。このヒシアマゾンというのは気さくな奴で、よくよく私たちを気にかけてくれたので私もスペもすぐに懐いた。

 開口一番タイマンは好きかと聞かれたので精神的に向上心のないものはばかだと答えてやると、何故だかきょとんとした顔をされたが些細なことであろう。

 

 次に会ったのは栗東寮母のフジキセキだったが、こちらは人を揶揄う癖があるのか気障な態度で、やあ君たちが転入生のポニーちゃんだね、会えて嬉しいよ。などと甘言めいて仰るから、何ともまた濃い奴が来たものだと思った。

 握手に右手を差し出すと手の甲に口付けをされたから魂消た。スペも顔を真っ赤にして魂消ていた。どうにもこの寮母は一筋縄では行かなそうである。こいつに見つかるような悪戯だけはやめておこうと心中で決めておいた。

 

 寮母の紹介も終わったところで、いよいよ廊下でスペと別れて自分に当てがわれた部屋にはいる。

 

 寝台と勉強机が二つと簡易キッチンがあるだけの狭いとも広いとも言えぬ部屋だったが、プリンの空き箱やら割り箸やらが床に転がっており、机にはばかにでかい招き猫の置物が置かれているなど、中は所狭しとゴミが散乱していたからはいるなり途端にげんなりした。

 私も人のことを言える立場にはないが、この部屋の主はよほど片付けができぬようで何とも出鼻を挫かれた気分であった。

 

 しようがないのでフジキセキに言いつけて荷解きの前にゴミを片付けることにしたのだが、そこに待ったをかけたのが先に食堂で話しかけてきたマチカネフクキタルである。

 部屋の主らしいこいつは帰ってくるなり、それを捨てるなんてとんでもない! どれもこれも私に福を呼び込んでくれた大切な思い出の品なんです! と涙ながらに訴える。私からしてみればゴミ山にしか見えぬと言ってビニル袋に粗方ぶち込んで二度と解けぬように口を堅く縛ると、ついには幸運が逃げて行くだの福が去って行くだの嘆いてはよよよと泣くから付き合ってられぬ。

 こんなご利益があるかも分からぬゴミ山よりも幸運な私がいるのだからそれで良いだろうと叱りつけてやれば、なるほど、それもそうですね! とけろりとするから拍子抜けだ。こいつは存外中身は大物と見えた。

 

 思いの外、時間を食ってしまった。

 フクキタルに手伝ってもらいながら荷解きを終えるとフジキセキが、今日はいろいろあって疲れただろう、寝台は私とフクキタルで整えておくから風呂に入っておいで。と風呂道具一式を渡してきたのでこいつはありがたいと好意に甘えることにした。

 誰もおらぬだだっ広い風呂にざぶりと飛び込むと、我知らずに惚けた声が出る。湯はいささか熱かったが疲れた体にはこれくらい熱い方が良い。まったくいい気持ちだ。

 

 頭に手拭いを乗せて上機嫌にいると、いつの間に来たのか牛のような女が湯船に水を足している。やい、風呂はこれくらいが丁度良いのだぞ。と言うと、この牛女はひぃんと情けない悲鳴を上げてすみませんすみませんとしきりに謝ってくるから、こちらが悪者になったように思えて堪らぬ。

 いや、こちらこそ済まなかった。と水を足してやると何やらじろじろと眺めてきたので、ちょっとした悪戯心でそのばかにでかい胸を目掛けて水を引っ掛けてやれば、またひぃんと鳴くから愉快である。

 

 十分に温くなった湯に牛女を押し込み、お前名前は何と言うのだ。と聞けば牛女はおずおずメイショウドトウです。と名乗ったから、すると君、もしかしてあのメイショウドトウか。と聞けば弱々しい声ではいそうですと言う。

 中央のウマ娘には疎いのだが、名前だけ見たことがあった。あの模擬戦無敗のテイエムオペラオーに唯一食い下がれる実力者である。これは申し訳ないことをした。先の非礼を詫びさせてほしいと頭を下げると、メイショウドトウは気にしていないと首を横に振る。胸と同じくらい懐がでかい奴だと感心すると、胸は関係ないです。と強めに返された。それもそうかと頷いておいた。

 

 メイショウドトウは元来気弱なのか口数が少なく、何かにつけてこちらの態度を伺うような姿勢を見せてくる。二着ばかりで自信を失ったか、しかしそれにしてはいささか過剰であった。

 

 何故そうもおどおどすることがある。お前は実力者なのだから、堂々とすれば宜しい。そう言えば、私はダメダメだからと己を卑下することばかり言う。滅多なことは言うものではないぞと励ましても、そんなことはないですと首を振るばかりで頑なにこちらの言葉を聞き入れぬから、そのうち腹立たしくなってしまった。

 ついには我慢できず、お前は強いと言うのに己を卑下するばかりで失礼な奴だ。そんなんだから実力を出せぬまま圧されて、テイエムオペラオーに勝てぬのだ。と懇々と説教じみた真似をしてしまった。

 

 自分でもらしからぬことをしたと思う。この気弱が白毛の友人と被って、放って置けなかったのやも知れぬ。

 

 説教を受けたメイショウドトウは最初こそ萎縮しきりで怯えていたが、聞いてるうち段々と不思議に顔を歪めていた。

 終いには何故そうまで私を褒めるんですか。と聞くから、ここに来る前に見たレースを引き合いに出して、あれほどの実力者が集う中央で、模擬戦とはいえ二着を取れるお前の実力を疑えぬのだ。と伝えてやった。

 するとメイショウドトウは痛く感激した様子で貴女は良い人です。ちょっとデリカシーが足りないけど。とのたまうので、上機嫌に尻のデカさには自信があると返しておいた。

 メイショウドトウはくすりともしなかった。遺憾である。

 

 風呂から上がって部屋に戻ると、フクキタルが寝台の上でふんにゃかほんにゃかなどと呟きながら水晶玉を覗いている。何をしているのか聞けば、明日の天気を占っているのです! と返されたから魂消て閉口した。

 天気予報を見れば済むことまで占うなど病気である。こいつはきっと占い病に罹っているのだ。くだらないから、すぐ寝た。

 

 ここに来てから魂消てばかりである。思い返せばまったく大変な1日であった、今日だけでこの調子では明日には死んでいるかも知れない。

 うとうとする最中に、ふとそんなことを思った。




 吾輩はウマであるは電子書籍化しました。
 本編に大幅な加筆修正に加え、新規エピソードが追加されていたり、各主要キャラの設定を見直したりと、いろいろな部分に手を加えています。
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