目覚めてから一週間が経った。もういくつ寝ると正月である。
サイレンススズカはギプスも取れて、車椅子で外出ができるようにまでなっているが、残念ながら私はいまだベッドの上から動けずにいる。元々が半死半生の大怪我であったからしかたないが、ここから動けないと言うのはなかなかに退屈で堪らん。
昼寝をしようにも動いてないからそこまで眠くもないし、ゴールドシップから貰ったおもちゃで手慰みするにも右手が使えんから途中で飽きる。テレビなんて物は滅多に見なかったから面白さもわからんし、小説なんぞは国語の教科書でしか見た事がないから今更読む気も起きぬ。
元来趣味が薄かった私には、とにかく日がな一日が暇で暇で、気が付けばよく昔の事を思い出しては感傷に浸るようにまでなっていた。
唯一の救いは毎日入れ替わり立ち替わりで来てくれるみんなとの会話だけである。それがなければ今頃はもう思い出に草臥れて、枯れ木のように萎えていたかもしれん。
そんなふうにぼけらと退屈な日々を過ごしていた訳なのだが、この日に限っては珍しい来客があったから少し趣が違った。
そろそろあいつらも来る頃かとにんじんジュースを啜っていると、やあ調子はどうかな。と雅な声とともに駄洒落皇帝こと生徒会長シンボリルドルフが病室にはいって来たのである。
よもやWDTの準備で忙しいはずの会長殿がこんな所に来るとは思わず、驚きで危うくにんじんジュースを噴き出す所であった。
咳き込みながら年末の大一番を控えた時期に何をしに来たのかと聞けば、命がけでスズカを救ってくれた君に礼を言いに来たんだ。と言う。
仕返し混じりに、実は新しい駄洒落を思い付いただけじゃないですかと冗談めかして言えば、おやバレてしまったかな。なんて悪戯娘みたいに返すから、こいつも相変わらずである。
凛然と椅子に腰掛けた会長はまず、スズカを助けてくれてありがとう。君のおかげで彼女はまた走れる。と頭を下げて感謝の意を示すと、見舞いの品であるフルーツの盛り合わせを渡して来たのでありがたく受け取った。
それから、怪我の具合はどうだとか、入院生活で退屈していないかとか、いくつか話をして気が楽になってくると、会長はそれを見計らったように私を指して、今の君はいささか元気がないように見えるが、何か悩みがあるのかな。と切り出した。
驚く程あっさりと、心底に溜まっていた真っ黒い憂鬱を見破られて、さすがにこいつ相手に隠し事はできんらしいと悟った。
しかしだからと言って、この気持ちを素直に話しても良いものか。誰にも打ち明けていなかったこの鬱屈した気持ちを、誰かにおいそれと話して良いものなのか。どうしようかと迷った末に、私は貝のように黙った。
迷いを見抜いた会長が、穏やかに笑みを浮かべて、迷う気持ちもわかるが想いを溜めこむ一方ではいずれ潰れてしまうよ。と慮って仰るが、それでも私はこの気持ちを吐き出す事ができないでいた。
この気持ちを吐き出してしまったら、私は本当に抜け殻になってしまうのではないかと思えて、どうしても口を開けなかった。私が私でなくなってしまうような、私の存在意義がなくなってしまうような気がして、怖かった。
しばらくの沈黙が過ぎても一向に口を開かぬ私に、会長は困ったように眉尻を下げて、私なんかは信用に値しないかな。と嘆息を吐く。
狡い言い方だ。ここまで言われても話さなければ、本当にこいつを信用していない事になってしまう。こうなっては観念する他にあるまい。
会長の視線から顔を背けて恐る恐る、話を聞いてくれるかと問うた。会長はしっかりと頷いて、もちろんだ。と答えてくれた。だから私は、ゆっくりと、纏まらないながらもこの気持ちを吐き出した。
ダービーが終わったあの日、月に別れを告げたあの時に、私は確かにまだ生きていようと思った。スペやみんなと一緒に、今度は自分の為に頑張ろうと思った。
けれども私は、努力をしなかった。走るための努力ではない。自分の為に生きようと言う努力をしなかったのだ。
そもそも私と言う存在は、あいつの為にあった。あいつは身体が弱くて、満足に走れない奴だったから、私があいつの脚代わりになってあちこち連れ回してやる役目だった。そしてあいつは、私が何かヘマをして怒られた時に母親のように慰撫する役目だった。
私にはあいつが生粋持っていない強さがあった。あいつには私が生粋持っていない優しさがあった。私たちは互いに、足りない部分を補うように生きていたのだ。
あいつが死んだ時に、あいつのダービーを走って欲しいと言う願いを叶えてやろうと決めたのもその為だ。平生あいつの為に生きていたと言っても良い私にとって、あいつとの約束は何よりも大切なもので、唯一この地上に残された繋がりで、気が付けば私が生きる目的そのものになっていた。
だからそれがなくなって、繋がりがすっかり切れたのだと気が付いたあの日に、私の心は少しずつ色を失って、世界が止まったような気がしていた。
そこからの私は卑怯だった。愚かにも駆け足で崖端まで来て、急に底の見えない谷を覗いた人のようだった。どこかにあるはずの道を探して、周囲を鑑みずに心底で煩悶していたのだ。
宝塚記念を観戦してどうしてサイレンススズカに勝つか考えた事がある。だが私がいるのは目前のクラシックだ。眼前の敵であるスペたちを放擲して、シニア級の相手に勝つ事を考えるのは無礼も良い所だろう。
それから、新しくシリウスにはいってきた奴ら相手に先輩風を吹かせたり、夏合宿では癖しかないあいつらの纏め役をして、感謝祭では小遣い稼ぎでばかをやったりもしたが、思い返せば私は、目の前にある自分の事から逃げていたようだった。
きっと、あいつらに空っぽになってしまった事を気付かれて、競うに能わずと失望されるのが、私は何よりも怖かったのだろう。
そんな中にあって、懲りずにサイレンススズカを見に行った時に、エアシャカールの言葉を聞いた私は、義務のように助ける事を選んだ。
無論サイレンススズカを死なせてはならないと言う気持ちはあった。だが色彩を求めていたその時の私には、心のどこかで、それがもっともわかりやすい目的のように思えてならなかったのだ。
その結果がこの体たらくである。
しかも運の悪い事には、生死を彷徨っている束の間にあいつと出会ってしまったから、あいつへの未練が湧いてしまった。
私はよくよく最低な奴だ。あんなにも良い奴らに囲まれて、誰にも心配されていたのに、この期に及んでなお死人に執着している。あいつから任されたと言うに、スペを不幸にしている。
あまりにも愚かで、救いようがない。こんな愚者は、生きるに能わぬ。
腹の奥底に溜まっていた黒い澱みのすべてを、私は一滴残らず吐き出した。幸い、抜け殻にはならなかった。
会長は鷹揚にそうかと頷いて、つまり君は迷子になっているんだな。と言った。
会長からして今の私は、無数に分かれた道の真ん中で右往左往して、どこへ進むべきかを迷っているように見えているらしい。
言われてみれば、そうかも知れん。しかしそうならば私はどの道に進めば良いのだろうか。
この疑問を聞いた会長は、それは彼女たちと話し合って決めると良い。と立ち上がってドアを指した。
はたと視線を向けたら、ぼろぼろと涙を流しながらスペとフクキタルがはいってきたから魂消てしまった。
お前ら聞いていたのかと声を上げると、真っ先にスペが駆け寄って来てごめんなさいと謝ってきて、更にはフクキタルまでが謝罪の言葉を口にするからますます魂消て言葉もなくしてしまう。
いったい何を謝る事がある。悪いのは私だ。こんなにも卑怯な方法でみんなの気持ちを裏切った私が悪い。ふたりは悪くない。私なんぞに謝る事などないのだ。
惑乱しながらもやっとの思いでそれを言うと、フクキタルがぐずぐずと鼻を鳴らしながら「貴女を強い子だとばかり思い込んで、弱音を聞いてあげられなかった……弥生賞の時に、気付いていたはずなのに……私は貴女の心根の強さに甘えて、それきり向き合う事をやめてしまって、だから……」と懺悔をするみたいに答えた。
そしてスペもほとんど泣き叫ぶような声で「気付いてあげられなかった……たったひとりの大事な親友なのに、私は自分の事ばっかりで、隣で苦しんでいた事にちっとも気付いてあげられなかった」と言うのである。
そこでやっとこいつらの気持ちに気が付いて、私は己が非常に情けなくって歯噛みした。
私はこう言う単純なウマ娘だから、今までの苦悩は全部私が悪いもんだと思って、とにかく自責ばかりをして何でも背負い込んでいた。
だがそれではだめだったのだ。私は周りを頼るべきであった。この苦悩と煩悶を抱え込んだままでいるのではなく、誰ぞにさっさと打ち明けてしまえば、それで私はいくらか救われていただろう。
ここに至って、やっと己がいかに罪深い事をしたのかを理解して、私はただただ後悔した。
こんなにも心配してくれる尊い友人がいたのに、独り善がりな無鉄砲で何もかもを無視して、挙句には未練の事ばかり考えて、みんなの好意を踏み躙ってしまった。
こんなのは友人ではなく、醜い悪徳者だ。最低な裏切り者だ。許される事ではない。
私はふたりを片腕で抱きしめて、私のほうこそ何も言わず気持ちも裏切ってしまってすまなかった。と涙ながらに謝罪して、これからはもっと周りを頼り、決して独りで思い詰めるような事はしないから、厚かましいお願いではあるけれどどうか友達でいてほしいと伝えた。
するとふたりは泣き声を上げながら頷いて、そんなの当たり前だよ。と罪深い私を許してくれたから、私は嬉しくて、けれど申し訳なくて、ダービーの時と同じくらいに泣いてしまった。
ひとしきり泣いて心が落ち着いた頃に、会長にも心底から迷惑をかけてすまなかったと謝罪した。
これに対して会長は謝罪を受け取った上で、これから自分の道を歩み出す君に助言を送ろう。と私の頭をそっと撫でて言う。
「もしも目的を見失って道に迷ってしまっても、それは決して恥ずかしい事じゃない。
進み続けると言うのは、辛く、苦しい事だ。時には導を失い、過去を振り返り、誰かに道を尋ね、行き先もわからぬまま崖に当たって立ち往生する事もあるだろう。
けれどそうやって悩んで、苦しんで、恐れて、悔しさを噛み締めて、自分の行き先を決めて一歩を踏み出した時にこそ、君たちは昨日よりもずっと大きく成長しているはずだ。
何故なら道程は、誰かが作るものではなく、自分自身が歩く事で作られるものなのだから」
いかにも含蓄あるお言葉を承った私は、これにいたく感動して、今まで貴女の事を駄洒落皇帝だの何だのと思っていて申し訳なかったと重ねて謝った。
そうしたらこの会長は、君は私をそんなふうに思っていたのか。それはまったく遺憾でいかんな。と駄洒落で返してきたら、私は確かにこいつはいかんですなと初めて会長の駄洒落で笑った。
誰にも吐いてこなかった弱音を吐き出して、情を分かち合ったこの日を境に、私たちは本当の意味で親友になれたような、そんな気がした。
弱音を溜め込むと、だんだん自分がわからなくなる。
……思えば主人公ちゃんは強がってばっかりでしたね。
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