特に誤字報告はいつも助かっています。スマホでぽちぽちしてるもんで、なかなか見つけ難くて……まあPCで書けって話なんですけどね。
学校に復帰してからすぐの事だ。
今日からレース復帰に向けて、負荷の小さいリハビリを行なっていくと干物が言うので、プールの中でフクキタルに引っ付いている。
どうしてそんな無闇をしていているのかと聞く者もいるだろうが、なんて事はない。泳ぎのできない私は、水と言うのが大が付くほど嫌いで嫌いでしかたないのである。
怖いもの知らずで通っている私にとて、怖いもののひとつやふたつはある。それがこの、水という奴であった。
もちろん限度はある。風呂くらいの浅さならどうと言う事もないし、顔だって何の躊躇いもなく浸けられる。
ところが水が腰より上まで来たり、水に流れがあったりすると、どうにも足腰が竦んで駄目になってしまうのだ。
自分でもどうしてここまで水が怖いのか不思議なのだが、しかし怖いもんは怖いのだからこればっかりはしかたがない。
私はフクキタルに引っ付いたまま、ぷるぷる震えるしかできなかった。
一向にフクキタルから離れない私を見て、干物がそれじゃあリハビリにならないでしょ。と呆れて言うが、いくら言われたって苦手なのだからこればっかりはどうしようもない。
ウイニングチケットも根拠のない自信たっぷりに、大丈夫! 私たちが助けるからね! と励ましてきたが、補助されたくらいで泳げるようになるなら世話ないってもんだ。
意地でも泳ぎたくないんで、誰に何と言われようとむっつりとして黙っていると、そのうち干物がプールサイドのみんなに指示をして、手当たり次第に私の身体をベタベタしてきた。
だが、シリウス総出で引っぺがそうったって、そうはいかん。プールに来るのさえ嫌なら、泳ぐのなんてなおさら嫌だ。いくら必要な事だとしても、嫌な事までしてリハビリなんてやってられるものか。
頑として引っ付いたままでいると、私の様子によっぽど呆れたらしいエアシャカールが、こいつばかに頑固だぜ。と悪態を吐いた。
まあまあ泳げないなら仕方ないですよ、それに病み上がりなんですから無理させたらかわいそうです。とフクキタルが庇ってくれたが、腹の虫がおさまらんらしいエアシャカールは舌打ちで返していた。
一方でライスシャワーは何だかコアラの赤ちゃんみたい。と好き勝手に言って、メイショウドトウはどちらかと言うとお猿さんでは。とまったく失敬な事をのたまう。
それでも動じずにじっとしていると、そろそろ埒が明かないと悟ったか、干物が溜め息混じりにプールから上がるように指示を出したので、フクキタルに引っ付いたままプールサイドに上がった。
そうしていたら、いかにもおかんむりな干物がまず私に向かって、いくら苦手だからって子供みたいに駄々を捏ねないの。と怒り、続けてフクキタルには、病み上がりだからって甘やかすんじゃないよ。なんてくどくど説教を始めた。
こいつの言っている事はわかる。衰えた足腰を元の水準に戻す土台を作る為に、まずは水中歩行で小さな負荷からかけていこうとしているのだろう。
だが、無理なもんは無理なのだ。
お化けが嫌いな人間にお化け屋敷にはいれと言っても、絶対に嫌だと断固拒否するだろう。私もそれとおんなじで、何がなんでも絶対に泳ぎたくないのである。
干物を尻目に不貞腐れてそっぽを向いていると、ついに堪忍袋の緒が切れたらしい干物が、エアシャカールと、ウイニングチケットと、ライスシャワーに、連れて行きなさい。と冷徹な声で命令を下した。
すると途端に、三人が腕に着けるタイプの浮き輪を持ってにじり寄って来た。きっとあの浮き輪を着けて、水中へ運んでしまおうと言う魂胆なのだろう。
いくら浮き輪があったって、水に浮かぶだけでは何の気休めにもならん。むしろ、足がつかなくなってもっと怖いまでもあるのだから、私も飛び込み台の柱にしがみついて渾身の抵抗をせざるを得ぬ。
両足と胴体を掴まれながらやめろ離せと叫ぶと、エアシャカールが三人に勝てるわけないだろと言うので、ばかやろうお前私よりぺたんこな奴に負けるもんかと返してやった。
束の間、引っ張る力が緩んだ。エアシャカールとライスシャワーが、何故か動きを止めたらしい。
何かよくわからんがしめたもんだから、この隙に逃げてしまおうかと私も束の間、腕の力を緩めてしまった。
すると途端に世界が回って、気が付けば表情を無くしたエアシャカールとライスシャワーに持ち上げられている。
いつの間にやら腕に浮き輪も嵌められていて、もうプールに投げ込まれる寸前まで来ていたから、南無三己の失策を悟った。
待て待て謝るから許してくれと嘆願に近い声で捲し立てると、ライスシャワーが「あのね? 言っていい事と悪い事があると思うの」と微笑み、エアシャカールは「テメェはオレを怒らせた」と低く唸る。
ウイニングチケットにも助けを求めたが、触らぬ神に何とやらなのか、気不味く顔を逸らされた。それならフクキタルはどうだと視線を向けたが、干物にやんわり拘束されてこっちには来られそうにないから、もう助かりようがない。
結局私は、ふたりの怒号と、自身の情けない悲鳴とともに、盛大にプールへ投げ込まれた。
二度とふたりに胸の事をとやかくは言うまい。この日を境に、私はそう誓ったのだった。
そんなふうに、シリウスの奴らとくだらない事で悶着しながらも、復帰に向けていろいろと努力している時分である。
プールでの訓練を終えた帰りに、学園内にあるカフェーのテラス席で一服していると、アドマイヤベガと言う奴に話しかけられた。
こいつは皐月賞でメイショウドトウと競り合っていた奴だ。母親はダービーを勝った競走ウマ娘で、親戚にもGⅠを勝ってる奴らが沢山いると言う、なかなかの家柄なウマ娘である。
そんな、いかにも良家のお嬢様と言うべき女が、はたしてこの悪童に何用であるかと言えば、間近に控えたダービーに関する事であった。
貴女に聞きたい事がある。と真剣な顔で言ったアドマイヤベガに、ボンヤリとストローに口をつけて冷やしコーヒーを啜っていた私は、それならまずは座ったらよろしいと薦めた。
アドマイヤベガは私の正面に座ると、しばらく沈黙して私を困らせた。
往来は静かであった。時間が時間だけに店内には客もそんなにおらず、私たちの間にはジャズのスタンダードナンバーが流れるのみで、お互いの顔を認めるのに何も困難がない。
私は気まずくなって、眼を逸らしてコーヒーを啜った。けれどもアドマイヤベガは私の顔を見つめたまま、少しも口を開く気色なく、じっと私がコーヒーを飲み終えるのを見守っていた。
コップがからりと音を立てると、やっとこいつは重苦しく口を開いて、貴女は怖くなかったの。と私に問うた。
どう言う意味だと聞き返すと、私はダービーを走るのが怖い。とアドマイヤベガは慄きを纏って囁く。
もしも負けてしまったら。もしも届かなかったら。一生に一度しか走れぬ大舞台で、何もできぬまま沈んでしまったら。そんなふうに考えてしまって、今更ダービーを走るのが怖くなったのだと言う。
察するにこいつは、私のように何か重い荷物を背負っているのだろう。
幼い頃に見た憧憬か、それとも家柄に対する誇りと重圧か。あるいは、私のように果たせなかった約束かもしれぬ。
とにかく、荷物の重さに押し潰されそうになって、耐えられないくらいに苦しくなったから、去年のダービーを勝った私に、こうして助けを求めてきたようだった。
しかし困った事には、ダービーで負けるかもしれない。なんて考えを、私は一度たりとも持った事がない。
より正確に言うならば、ダービーで負ける可能性を、ずっと考えないようにしていた。
私がダービーで負けると言う事は、あいつとの約束を果たせなかったと言う事である。
そしてそれは、今にして思うとずいぶん性急な考えだったが、私自身の存在意義を失う事でもあった。精神的な死である。
たとえもしもの話であったとしても、当時の私にとっては、そんな話を考えるのは苦痛と苦悶の極みである。
だからこそ、同着と出たあとにはあんなにも泣いて、泣いて、涙と一緒に感情の全部を出し切ってしまった。その結果があの秋天なのだから、我ながら不甲斐ない以上に情けない。
そんな私だから、こいつになんて言葉をかけてやれば良いのか、さっぱり思い付かなかった。
何か気の利いた事でも言えたら良かったのだが、毎度の事ながら、口の上手くない私では大した言葉も思いつかん。
つくづく人に助言する才能が欲しいと思うが、ないものねだりをしたってしかたがない。
結局、私はアドマイヤベガの悩みに対して、戦う前から負ける結末を考える奴はいない。なとど中身のない事を言ってやるしかできなかった。
もちろん、こんな月並みの科白で解決できるはずもなく、アドマイヤベガはわずかに眉を顰めて、求めていた答えと違うと言外に伝えてきたから据わりが悪い。
どうにも言葉を捏ねるのに困り果てた私は、しようがないので、慣れないながらも言葉を選びながらアドマイヤベガに思った事を話した。
「つまる所、きみは誰よりも、誰よりもだ。ダービーで負けたくないもんだから、そうやって怖がっているんだ。確かに、一生に一度の大舞台だから不安になるかもしれん。でもその負けたくない気持ちは、何より勝つ為の強い力になる。苦しくて、苦しくて、ついに挫けそうになってしまった時に、その想いはきっと踏ん張る為の力になってくれる。だから、負けを恐がるのは恥じゃあない」
聞き終えたアドマイヤベガは、考え込むみたいに俯いて黙りこくった。
私にはそれが何を示すかわからなかったが、少なくともさっきのように、眉を顰めたりはしなかったから安心した。
これでだめだったら、もうどうしたら良いかわからなくて、電話でスペに助けを求めていた次第である。
そよ風が私たちの間を通り抜けると、アドマイヤベガは顔を上げて、貴女もそうだったの? と問うた。
私はもちろんだと即答した。
アドマイヤベガは感じ入ったようにゆっくりと息をして、頭上の星空を見上げると、負けたくない。と呟いて瞳を閉じた。
しばし己の感情を噛み締めて、ダービーへの決意を新たにしたらしいアドマイヤベガは、さっきよりもずっと凛々しく悠々とした顔付きで、ありがとう、話を聞いてくれて。と礼を言う。
礼を貰える程の助言はしていないが、しかし受け取らんのもそれは失礼なので、気が晴れたなら良かったと頷いておいた。
おそらくダービーでは、こいつが一番になるに違いない。
このアドマイヤベガには、絶対の覚悟がある。必ずダービーを獲ると言う、恐ろしく強い意志が宿っている。
こう言う相手は得てして強いものだ。メイショウドトウとテイエムオペラオーには悪いが、きっとダービーではこいつに勝てんだろう。
アドマイヤベガの凛乎とした顔を見ながら、私は予感めいてそう思った。
この予感は、はたしてダービーで現実のものとなった。
亡き幼馴染の為に走った主人公ちゃんと、亡き妹の為に走るアドマイヤベガ。
似ているようで、でもちょっとだけ違うふたり。
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