日本ダービーである。
始まる前までメイショウドトウは、相変わらず気弱を発揮して、無理だの勝てないだのとぶつくさ言っていたが、やはりターフに出ると顔付きが変わっていた。
口ではああだこうだと言いつつも、テイエムオペラオーに勝ちたい気持ちはきっと誰より強いのだろう。
して、件のテイエムオペラオーだが、今日もランウェイでは気合十分な様子であるから、強いレースを見せてくる事が予想された。
皐月賞を勝って調子の波に乗っているこいつは、今回もなかなかに手強い壁として立ちはだかるのである。
しかし今回のダービーにおいて、きっと勝つのは先日に話をしたアドマイヤベガだと私は思っている。
あいつには覚悟があった。ただダービーを勝つと言うのではない。己の誇りと、背負った想いの為に、絶対に勝つのだと言う覚悟があった。
それはかつての私と、スペが持っていたものと同じものだ。どうしても負けられない理由だ。
姿形は違えども、重さの点で言えば何ひとつとして変わらぬこれは、ふたりとの絶対的な差となるに相違なかった。
スタンドに集まって、レースが始まるのを待っている時分、ライスシャワーが祈るような仕草で「ドトウちゃん、今日は勝てるよね?」と呟いた。
干物は「ドトウの頑張り次第かな」と返した。
フクキタルも「きっと勝てますよ」とこれに同意する。
ウイニングチケットも同じく「絶対絶対、ぜぇったいに勝てる!」と頷く。
「クビ差だろゥな」と、エアシャカールだけは憮然としていた。
ゲートインのアナウンスが流れると、その数分後には、ついに今年の日本ダービーが始まった。
最初は、三人とも後ろの方で待機していた。テイエムオペラオーは中団に、メイショウドトウは外に、そしてアドマイヤベガは最後方三番手の位置にある。
例年に比べるといささかゆったりとしたペースで、このままだと中団が詰まって、最後には団子になるのではと思われるほどであった。
しかし第三コーナーに差し掛かると、全体の動きがにわかに速くなって、出入りが激しくなったからわからなくなった。
最初に動いたのは、テイエムオペラオーだ。大外から一気に駆け上がり、先頭集団に食いついた。
これを見たメイショウドトウも、また大きく動いた。ハナを進むテイエムオペラオーに食らいつくと、並びかけて、ついに躱した。
スタンドから声が上がった。メイショウドトウの勝ちだと、シリウスの奴らも叫んだ。けれども、大外の最後方から飛んできたアドマイヤベガが、これに待ったをかける。テイエムオペラオーも意地を見せて、ついにはどうと三人が並ぶ。
最後の競り合いの最中、アドマイヤベガは吼えた。スタンドの歓声に負けぬ大声で、決死の形相で咆哮した。
テイエムオペラオーも吼えた。メイショウドトウも吼えた。だが、アドマイヤベガの咆哮にはわずかに届かず、ふたりは後塵を拝する事となった。
この日に初めて、テイエムオペラオーが負ける瞬間を見た、その時の私は、恐ろしさの塊か、あるいは苦しさの塊になって、石や鉄のように頭から足先までが、急に硬く冷たいものになったように感じられた。
一瞬間の後には、また正気を取り戻したのだけれど、その途端に、私はえも言われぬ感情に掻き乱されて、我知らず一筋だけ涙を零していた。
スタンドから来る動揺と、穴の空いた胸の痛みとが、私の中で渦を巻いて、涙となって落ちたのだろう。
それが、無意識のうちに蓄積された復帰への不安と、みんなから寄せられる期待からの重圧から来る、心底に患った煩悶の発露である事に気が付いたのは、ダービーが終わった後になってからであった。
両手を膝に突いてぜえぜえ言っていたアドマイヤベガが、背筋を伸ばして天を指さすと、束の間の静寂が過ぎ去ってから、歓声が驟雨の如くターフに降り注いだ。
レース場に来ていたあらゆる者たちが、勝者たるアドマイヤベガに祝福と称賛の声を送り、そして、勝てずとも健闘したウマ娘たちには、その走りを讃える言葉を送った。
私も同じく、声を上げた。アドマイヤベガの勝利と、全員の健闘を讃えた。
声の下には、莫大な不安と焦燥があったのだけれど、それを見ぬふりをして誤魔化したのである。
メイショウドトウが泣きながらやって来たから、まだ菊花賞があるぞと頭を撫でてやった。
シリウスの奴らも、ダービーであれだけ競り合う事が出来たのだから、次こそは勝てるはずだとそれぞれの言葉で伝えた。
するとメイショウドトウは、鼻をずびずび鳴らしながら頷いて、三度目の正直に賭けますと決意を露わにしたから、気弱もずいぶん良くなったように見える。
この様子ならば、菊花賞で勝つのも夢や幻ではないだろうと、そう思われた。
このメイショウドトウと言うのは、私なんかよりよっぽど、誰にも負けない根性のある奴なのだから、きっと勝てるはずなのだと私は信じた。
しかしそれが本心からの思いであったかはわからぬ。
テイエムオペラオーは、しばらくアドマイヤベガと話していたのだが、やがてこちらまで来ると、いやあアヤベさんは強敵だったね。と開口一番に強がって言う。
私が悔しいかと聞くと、気持ちが良いくらいにもちろんだとすっぱり答えて「けれど、ここで挫けるボクじゃないさ」と首を振って話すもんだから、私はしかし目尻に涙が浮かんでいるぞと返した。
そうしたらこいつは、袖で乱暴に目元を拭うと「流した涙が糧になる、だろう?」なんて言うから、仕返しの甲斐がないなと返した。
上手く笑えていた自信はなかった。
テイエムオペラオーと話し終わると、今度はアドマイヤベガが来たから、私はほんのちょっとだけ、腹に黒いものが溜まった気がした。
凛乎としたアドマイヤベガは、づかづかと大股で私の前まで来ると、無言で右の拳を突き出した。
応えて右の拳をぶつけると、こいつはかすかに笑みを浮かべてから、ウィナーズサークルへ去っていった。
はたしてその行為にどんな意味があったかは、私にはわからなかったけれど、彼女からの期待を感じて、微かな吐き気を覚えたのは確かである。
ダービーが終わってからと言うもの、私はつくづく不安になった。
どれだけ鍛錬をしても、アドマイヤベガの影が脳裏を掠めて、この努力を嘲笑うみたいにして、私を追い越していくのである。
窓に黒い鳥影が射すように、射したかと思うと、すぐ消えるには消えたが、私はそれが嫌で、追い越されるものかと鍛錬をいっそう頑張った。
だが私の頑張りとは裏腹に、鍛錬に打ち込めば打ち込むほど、周りからはよくよく心配された。
干物は宥めるみたいに、焦る気持ちもわかるけどと言う。メイショウドトウは心配して、急ぐと怪我しちゃいますと首を振った。エアシャカールは私を止めて、データは嘘をつかないと励ました。フクキタルは、脚が痛むのやもしれぬ、青い顔をただ歪めて私を見ていた。
ライスシャワーも、ウイニングチケットも、私の頑張りを心配して止めようとした。
側から見れば、私が急に狂い出したみたいに、鍛錬をしているように見えたのだろう。
ついこの前までは、前向きな気持ちで過ごしていた奴が、ダービーを見た途端に、急にこんなセンチメンタルな気持ちになって、必死な顔をして走っているのだから、そう見えても当然である。
私は別に、アドマイヤベガが嫌いな訳ではない。むしろあいつには、一種の共感のようなものを抱いていて、応援してやりたいと言う気持ちまでがあった。
しかし一方では、こうまでアドマイヤベガに掻き乱される事になった原因もまた、この共感による所が大きかった。
一刻も早くレースに復帰して、みんなからの期待に応えたいと日々の努力を重ねながら、心のどこかで、復帰したところで元には戻れぬのだから、こんなのは無意味だと囁く自分がいる。
みんなの励ましに奮起して、いっそう頑張ろうと決意する自分の横で、みんなの励ましを煩わしく感じて、何もかもを厭世的に考えている自分がいる。
みんなに置いていかれるのは嫌だけれど、このまま復帰したとして、はたしてアドマイヤベガが持っていたような、覚悟と情熱を取り戻せるのか。
そのような事ばかりを考えて、二律背反する感情を抱き始めた私は、少しずつ息をするのさえ苦しくなっていった。
そしてそのうちには、走るのさえもが苦しくなった。
あの時に持っていた情熱が、アドマイヤベガと言う名前に形を変えて、あそこにあるように見えて、そして同時に、私と言う存在の悉くが、アドマイヤベガに塗り潰されていくように感じられた。
何もかもを奪われたような喪失感と、腹の奥底から煮え繰り返る嫉妬のふたつが、唐突としか言いようがないくらい突然に、胸の中に去来したのである。
無鉄砲だからと言って、怖くない訳ではない。どれだけ弱音を吐いた所で、恐怖を消せる訳でもない。目的や目標があるからと言って、ただそこへ向かって進んでいける訳もない。
どれだけ頑張っても、レースに復帰できなかったら。復帰できたとしても、みんなの期待に応えられなかったら。そんな気持ちが、心底から顔を出して、自虐や自責となって私の足を重くしていた。
私はあいつとの約束を果たすと同時に、頼るべき杖をなくして、歩けなくなっていたのだ。
私はダービーを見てそれを自覚した。吹き荒ぶ不安と、アドマイヤベガへの嫉妬のためである。
ある夜、私はついに耐えきれなくなって、寮を抜け出した。
寝巻きのまま暗い宵街の帳を駆け抜けて、背後に迫る不安から逃げるように冷たく澱んだ風の中を横切り、どこか遠くへ行こうともがいた。ただ、この胸の内に秘めた衝動を浪費するためだけに、脇目も振らずひたすらに走ったのである。
そして、やがてたどり着いた河原で、私はついに耐え切れなくなり、蹲って泣いたのだった。
いったいどれほどの時間を、泣いて過ごしていたのだろうか。少なくとも、曇天の空が東雲になるまでは泣いていたようだった。
ふと、聞き慣れた声が耳に飛び込んできて、私はにわかに顔を上げた。
振り向いて見れば、そこには息を切らしたフクキタルがいて、土手の上から見下ろしているのが見えた。
小さくフクキタルの名前を呼んだ。そうしたら彼女は、こちらへ駆け寄って私を強く抱きしめると、確かめるみたいに私の頭を撫でた。
「よかった……、よかった……」
フクキタルは同じ言葉を二遍繰り返した。涙に濡れたその言葉は、深閑とした河原の中に、確かな存在感を持って繰り返された。私は罪悪感と羞恥心で何とも応えられなかった。
「寮を抜け出したんですか、どうして……」
フクキタルの態度はひどく動転していた。声はひどく沈んでいた。けれどもその身体の震えには、はっきり言えないような一種の共感があった。
本当ならば、夜更けに寮を勝手に抜け出した事や、迷惑をかけた事を謝るべきだったのだけれど、追い詰められていた私は、もう何を言う事もできなくって、嗚咽を上げながら謝るしかできなかった。
泣いて、泣いて、涙も枯れ果てた頃になって、私は私がどうして寮を抜け出したのかをフクキタルに話した。
「貴女の不安は、少しははれましたか。……そうですか。――そう、それはそうですよね、ただ闇雲に走っただけなのに。はれるはずがないんだから」
問いかけに首を振ると、フクキタルはそれだけを言って、また私の髪を撫で梳かすのであった。
フクキタルは私を慰撫したが、決して何かを言う事はしなかった。
みんなには弱音を吐くと言っておきながら、ここまで抱え込んでしまった私を叱るでもなく、かと言って、夜更けに寮を抜け出して、河原に蹲って泣いていたのを咎める事もしない。
彼女は私に、多くを告げるのを躊躇っているようだった。それはおそらく、今の私たちを繋ぐ共感のためであった。
「私は弱いウマ娘です」とフクキタルは言った。
「怪我で自分を見失って、道に迷ったまま一歩を踏み出す事もできず、走れないままでいます。今の貴女と同じように」
こいつ自身も、怪我でずっとレースを走っていないから、私の不安や焦燥を理解していたようだった。もしかしたら、この内に秘めた嫉妬までもを理解していたやもしれん。
私たちの間に横たわる共感は、朧げにではあるけれど、お互いの胸中の委細までを伝えたから、そうであってもおかしくはなかった。
「私は弱いウマ娘です」とフクキタルは間をおかずにまたさっきと同じ言葉を繰り返した。しかし次には私の顔を真正面から見て言うのである。
「でも、だけれど。貴女の姿を、貴女の泣く姿を見て、決めました。私はもう迷わない。今までの弱い自分とはお別れをして、きっと貴女を導く事のできる強いウマ娘になる。私が、貴女の先輩として、道を示してみせます」
その眼のうちには決意の光があった。その顔には凛然とした覚悟の色があった。見惚れる程に美しく、しかして力強い意志が、今の彼女には宿っていた。
そして、それ等のすべてが清々しい朱鷺色の中に、あるいは眩しく、又はクッキリと照し出されて、厳粛な静寂を作っていた。
「守るから。私が貴女を、きっと守るから」
私はフクキタルの胸に抱かれながら、確かな安心に瞼を閉じた。泣き疲れたこの身体は、彼女の温もりと匂いに微睡を覚えて、しばらく脱力したのである。
フクキタルが宝塚記念への出走を決めたのは、それからすぐの事であった。
フクキタル、ついに走る。
ここに至るまでで、主人公ちゃんの内面の変化についてを、もう少し書いておけばよかったなと後悔。とは言えあんまり書くと、今度は話が暗いままで進まなくなるから難しい所。
ちくしょう、私にもっと文才があれば……!
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本編に大幅な加筆修正に加え、新規エピソードが追加されていたり、各主要キャラの設定を見直したりと、いろいろな部分に手を加えています。
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