夏目漱石「吾輩はウマである」   作:四十九院暁美

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宝塚記念まで書きたかったけど、その前に最近空気だったスペちゃんとの絡みをここでひとつまみ……。


拾壱

 フクキタルの宝塚記念への出走表明について、世間は概ね否に近い賛否両論であった。

 人々からしてマチカネフクキタルと言うのは、こんな事を言うのは癪なのだけれど、もう走る事のできない終わったウマ娘である。宝塚記念への出走は厳しいと言われていた。

 また人々の目はフクキタルよりも、スペとグラスワンダーの同期対決に向けられていたから、わざわざ話題にするのは旧来のファンくらいなもので、話もさほど広がりを見せなかった。

 その上には二年前の宝塚での惨敗と、その後の怪我による長期休養で、今更復帰したとて勝ち筋は薄かろうと、世間は結論を下したのだ。

 

 しかし、この世論が大きく覆ったのが、ファン投票直前のインタビューであった。

 スペとグラスワンダー、そしてフクキタルが登壇したこのインタビューでは、多くの記者が前者に好意的な、後者にはいささか否定的な質問をぶつけた。

 心ない質問の中にあっても、フクキタルは毅然としていた。だが記者たちはその態度ではなく、ここに至るまでの経歴だけを見て話していた。

 世間のみならず記者ですら、スペとグラスワンダーが本命であり、フクキタルの出走は無茶であると図抜けた声で切って捨てていたのである。

 インタビューをテレビで見ていた私は、悔しい気持ちでいっぱいだった。はなから決めつけて、あいつを足蹴にする奴らを、手酷く怒鳴りつけてやりたいとさえ思って、涙すら流した程だった。

 

 いささかも期待の集まらぬまま、フクキタルのインタビューも終わろうかと言う時、この流れに待ったをかけたのが、去年の秋天のインタビューでもやたら目立っていた乙名史の奴であった。

 こいつはフクキタルに対して、「マチカネフクキタルさん、まずは怪我からの回復おめでとうございます」と述べた後に、今まで誰も質問しなかった、出走の理由について聞いたのである。

 

「二年の沈黙を破り、今回の宝塚記念への出走を決めた理由について聞かせてください」

 

 彼女の質問に頷いたフクキタルは、一瞬の間を置いてから、マイクを取って短く答えた。

 

「昨年の秋、天皇賞にて怪我をした友人と後輩のためです」

 

 画面越しでもわかるほど、会場の空気が変わった。どこか浮ついた雰囲気だったのが、急に底冷えしたざわつきに満たされたようであった。

 乙名史は空気の味を確認するみたいに、ペンを揺らしてそれはどう言う訳ですかと質問を重ねた。

 対して「言葉以上の意味はありません」とフクキタルは答えた。

 

「大きな怪我をして、長く休んで、これで元通り走れるものかと不安にしているふたりに、私は私自身を使って証明するために、この宝塚を走りたいのです」

 

 凛然としたその様子に乙名史は「素晴らしいです!」と賞賛を送って忙しなくペンを動かした。

 スペはフクキタルの志にいたく感動した様子で、「私もそうなんです! 一緒に頑張りましょうね!」と健闘を誓い合う握手を求めると、グラスワンダーもこれに握手で応じて「天は自ら助くる者を助く。私もまた、貴女と同じ気持ちです。お互い、悔いのないレースにしましょう」と宣言した。

 こうなると、世も記者もフクキタルへの見方を直さねばならないと思ったか、次第に意見は肯定的なものが増えていった。

 このままの様子ならば、きっと出走に足る得票数になるだろう。

 

 さてもそんなフクキタルを尻目に私はと言うと、風邪を拗らせて布団に包まっていた。

 初夏とは言え寒空の下に薄着で数時間、しかも河原で蹲って泣いていたのだから、当然そうもなる。

 咳も熱も出るし、頭も喉も痛い。身体の節々が嫌な音を立てているように鈍痛を訴えている。今生で初めてひいた風邪と言うのは、存外に辛いものであった。

 しかしこれは自業自得であるからして、甘んじて受け入れるくらいはできる。私にとて分別はあるのだ。

 

 私が真夜中に寮を抜け出した事について、フクキタル以外は知らない様子であった。

 どうもあいつは、私が抜け出した事を誰にも言わなかったようで、この風邪に関しても、無理が祟ったんだろうとしか周りから言われていない。

 いくら規則を破ったとは言え、この状態の私を叱るようなフジキセキではないだろうが、それでもありがたい事ではある。

 何も聞かずにそっとしておいて欲しいというのが、私の偽らざる気持ちだったから、フクキタルもそれを察していたのだろう。

 あいつも怪我で辛い日々を過ごしていたようだから、そう言う部分には目敏く感づくに違いなかった。

 

 朦朧としながら無為に天井を眺めていると、ふと死にたくなる程の悲しみに襲われた。

 みんなが明日に向かって歩いている中で、私だけがひとりで立ち止まっている。みんなが私を追い越していく中で、私だけが後ろばかりを見ている。私だけが、背後にある昨日を見て、昨日に一番近い場所で泣いている。

 なんと惨めな事か。なんと無様な事か。生きながら恥を晒す私の、なんと悍ましい事か。

 いっそこの脚が不能であったのなら、きっとこんなにも苦しまずに済んだのだろう。歩けぬのなら、誰も期待しなかった。歩けぬなら、期待を持たずに済んだ。私は私のまま全てを諦めて、死んでいられた。

 両脚も動かなくって、カラカラ車椅子で走るのが、きっと私に相応しい最後だったのだ。

 そう、歩けぬのなら、歩けぬのなら。

 

 ひとつ咳をしたら、パッと考えていたことが消えてしまった。何か難しい事を考えていたはずなのだが、熱と痛みで霧散してどこぞへ飛んでしまったようだ。

 どうにもこのままだと良くない。不安になってフクキタルの名前を呼んだが、返事をするのは孤独ばかりで、部屋の中には、加湿器の音と己の息遣いだけがあった。

 

 これは罰と思って受け入れると先程は考えたが、どうにも前言を撤回しなければならんようだ。

 風邪をひいている時は、誰しもが弱気になるものだと言うが、なるほど本当の事だったらしい。

 誰もいない部屋は、今の私には酷く大きなものに感じられて、心も身体も弱ってしまったように感じられた。私と言うのはちっぽけな存在で、価値がないものとまで思えて、ただただ寂しくなった。

 こんな辛い体験をしょっちゅうしていたのだと考えると、あいつにはまったく頭が上がらない。あいつは私が思っていた以上に、性根の強い奴だったようだ。

 

 働かない頭で取り留めもない事を考えながら、けほけほと咳をして苦しい気持ちに呻いていると、急に戸が開いて、心配した様子でサイレンススズカが部屋にはいってきた。

 意外な来客にわずか驚いていると、彼女は私の横に来て身体の調子はどうかと聞いてきた。どうもこうも見りゃわかるだろうと咳混じりに返せば、こいつは曖昧に頷いて耳と眉尻を下げた。

 風邪がうつるから見舞いならそこそこにしてさっさと帰ってもらいたいのだが、今回はどうも見舞いに来た雰囲気でもないらしい。

 サイレンススズカは、私の心配を他所に椅子を持ってきて横に座ると、暗い顔をして私を覗き込んだ。

 

「貴女は、辛くないのかしら」

 

 風邪の事を言っているようではなかった。こいつが聞きたいのは、おそらくは怪我に関する事なのだろう。

 今日のこいつは、何だか随分と気落ちした様子である。察するに、どうやら私と似たような事でよっぽど悩んでいるようだった。

 サイレンススズカは黙ったまま、私を見つめ続けた。私も黙して、彼女を見上げていた。

 ここの数分は、私たちはまともに言葉を交わさなかったのだけれど、私たちは何か途方もなく大きな溝と、それの間にかかる一本の線とで繋がっているようであった。

 それはきっと、お互いが似た恐怖を持っていたがゆえの、ほんのわずかな繋がりに違いなかった。

 

 沈黙を作ったのがサイレンススズカならば、この沈黙を破ったのもサイレンススズカであった。

 こいつは思い悩んだ顔を歪めると、私の頭を撫でながら、己の抱く恐怖についてぽつぽつと話を始めたのである。

 その話をかいつまんで纏めると、つまりは、また怪我をしてしまいそうで走るのが怖い。と言う事らしかった。

 もっともな恐怖だなと思う。誰だって怪我をするのは怖いもんだ。痛い思いをするのは一度きりで十分だ。これほど辛い思いなんてものは、二度と味わいたくないもんだ。

 私は共感の意味を込めて、サイレンススズカの言い分に頷いた。私も私で、走る事への恐怖を抱いているから、彼女の言葉は理解できた。

 

「似た者同士ね、私たち」

 

 自嘲的な言葉に、私もまた自嘲的に頷いた。

 私たちを繋ぐ一本の線のその正体は、形は違えども、走る事への恐怖そのものであった。

 

 傷を舐め合うみたいにしばらくはサイレンススズカと、私は話せないから彼女が一方的に話しているだけだったのだけれど、他愛もない話をしていた。

 しばらくすると、フクキタルがスペを伴って帰ってきた。

 どうも練習の終わりが被ったそうで、どうせならとふたりで帰ってきたようである。

 驚いた顔をしたスペはサイレンススズカに、スズカさんも来てたんですね。と声をかけたあと、私の横に来るとフクキタルから話は聞いたよと言ってきた。

 フクキタルが易々と人の事を話すとは思えんから、きっとこいつが無理矢理迫って聞き出したに違いない。

 こうもアッサリ見抜かれるといささか憮然としてしまう。まったく余計な事をするもんだ。スペになんかには知られたくなかったのに、どうしてこうも隠し通せないものか。

 むっと口をへの字にしていると、不機嫌を感じ取ったスペは、少し申し訳なさそうに苦笑を浮かべた。

 けれどもすぐ、顔を真面目に引き締めて、スペは「ねぇ、私は何のために走ってると思う?」と聞いてきた。

 意味のわからぬ質問だった。

 こいつが何のために走るかなど、日本一になるためひとつしかない。産みの、そして育ての母親のために、あいつとの約束を果たすために、日の本一の頂に立つ。極めて明確で、これ以上になくはっきりとした理由だ。

 それを今更、どうしてこいつは問いかけるのか。私には全然わからなくて、首を振って答えるしかできなかった。

 

「それじゃあお姉ちゃん──こう言うと、何だか昔に戻ったみたいだね──とスズカさんは、どうして、自分はここまでレースを走ってるんだろうって、考えた事はある?」

 

 そんなのは考えた事もないと、ふたりで首を振って答えた。そうしたらスペは「実は私もなんだ」と笑い、私とサイレンススズカの手を握って自身の事を話し始めた。

 

「私もね。お姉ちゃんとダービーを走るまで、考えた事もなかった。お母ちゃんとあの子のために。それにお姉ちゃんと、スカイちゃんと、キングちゃんに勝ちたくて。きっといつかスズカさんと一緒に走りたくて。夢中で走ってたんだと思う」

 

 そこで言葉を切ると、スペは握る手にわずかに力を込めてから、また続けて言うのである。

 

「でもダービーが終わった後、トレーナーさんに言われたんだ。ここで終わりじゃないだろ、お前の目標はなんだ。って」

 

 そこで一度言葉を切ったスペは、自問するみたいに、私たちに問うのである。

 

「日本一のウマ娘って何?」

 

 私は答える事がなかった。サイレンススズカも答える事ができなかった。

 

「私も悩んだよ。日本一のウマ娘って何だろうって。考えて、考えて、うんっと考えて……それで、気付いた。きっとみんなに愛されて、尊敬されるウマ娘なんだって。ダービーを勝ったら終わりじゃない、ダービーに勝っただけじゃ、本当の日本一にはなれないんだって」

 

 私はスペの言葉に驚かされた。サイレンススズカも何とも返事をできなかった。

 

「だから私は、本当の意味で、日本一のウマ娘になろうって決めたんだ。もちろん、お母ちゃんの約束の事もあるけどね。私は、私を応援してくれるみんなのために走る。お母ちゃんや、あの子のためだけじゃない。トレーナーさんに、スズカさんとチームのみんな、それに応援してくれるファンのみんな……いろんな人たちの期待を背負って、私は走るんだ」

 

 私はスペも随分と強くなったもんだと、一種の深い感動をありありと顔に映した。サイレンススズカは驚きをもって、この答えを受け止めていたように思う。

 彼女の精神は、聞く限りは偉大な意味に聞こえたのだけれど、偉大と言うよりも素朴な感応からくる志だった。こいつの優しい心根からくる、清く貴い決意と覚悟であった。

 そしてそれは、きっと私たちが忘れてしまった、あるいは見ないふりをしていた、大切なものに違いなかった。

 

 ここまで良い調子で話していたスペなのだけれど、急に口をまごつかせて話すのに澱んでしまった。

 何かと思ってサイレンススズカと首を傾げると、こいつは何と「どうしよう! 話してる内に言いたい事忘れちゃった!?」と慌て始めたから思わず三人でズッコケた。

 どうやら、話している内に着地点を見失ってしまったらしい。何とも肝心な所でしまらん奴である。

 神妙な空気もあえなく霧散して緩々として、真面目な話をする雰囲気でもなくなってしまった。

 ほとんど泣いてるに近い顔でスペが謝ると、フクキタルがしょうがないですねと苦笑して、言いたい事は改めて宝塚で示しましょう。と肩を叩いた。

 

 フクキタルはスペと違って、何も言う事はないようだった。真剣な顔をして「無茶で無謀だと笑われても、私は意地を通しますから」とだけ言うのだ。

 私はこういう覚悟を持っているフクキタルに対して、言うべき言葉を知らなかった。

 頑張れとでも励ましを送ればよかったのか。それとも無理するなと心配したらよかったのか。私にはどの言葉を送るのも、簡単ではない事に思えてならなかった。サイレンススズカもおおむねそのようであった。

 本音を言ってしまえば、心配が先にある。

 無理をしてまた怪我をしては、それこそ本末転倒な結果になってしまう。好きな奴が苦しむ姿を見るのは忍びなくってもう見たくない。

 けれども、私たちの気持ちを察したフクキタルは、ただ自信を持って微笑みを浮かべるのである。

 

「大丈夫。私はきっと、応えてみせますから」

 

 はたしてこの科白が宝塚記念で現実のものとなるのを、まだ私たちは知らなかった。




次回、覚醒スペちゃんvs不退転グラスvs覚悟完了フクキタル。
三つ巴の宝塚記念です。

 吾輩はウマであるは電子書籍化しました。
 本編に大幅な加筆修正に加え、新規エピソードが追加されていたり、各主要キャラの設定を見直したりと、いろいろな部分に手を加えています。
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