夏目漱石「吾輩はウマである」   作:四十九院暁美

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キング「キングヘイローはクールに去るのよ……」


拾弐

 春を締めくくるGⅠ、西のグランプリと言われる宝塚記念。人々の投票によって出走が決められる、春の集大成たるこのレースに、フクキタルは出走する。

 私がレース場に行ったのは昼を過ぎてからであったが、今回はシリウスの奴らとは一緒に行かず、似たような境遇にあるサイレンススズカと、ダービー前にフクキタルから貰った絵マを持って連れ立っていた。

 道中私とサイレンススズカの間では終始会話はなかったが、ただ一方で、心底では同じ事を考えていたように思う。

 とにかくフクキタルが心配で、いささか気が気ではなかった。あいつが無理をして怪我をしやしないかと、悪い事ばかりを考えては微かな気持ち悪さを覚えていた。

 

 レース場に着くと、まずフクキタルの控室へ向かった。部屋でタロットカードを混ぜていたフクキタルは、いつもの通りの調子で私たちを迎え入れた。

 フクキタルは私たちを自分の真向かいに座らせて「ちょうど今から今日のレース運を占う所だったんですよ」と笑顔を向けてきた。

 私はそれが処刑直前の罪人の落ち着きに見えてしかたがなかった。私は苦しくなって言葉を飲み込んだ。

 サイレンススズカが暗い顔のままで、また怪我をしてしまっては元も子もないから、今からでもいいから走るのをやめましょう。と提案した。

 フクキタルは答えずにカードを捲った。現れた死神の正位置が、私たちの眼を射抜いた。

 あまりにも良くない結果が出た事に、私は斬首を待ち受けるような心持でフクキタルに顔を向けた。

 フクキタルは「おや」と言って軽く驚いた時の眼をカードに向けると、そうして絶望した青い顔を晒している私たちをおかしそうに見た。

 

「どうやらお迎えが来ているようですね」

 

 フクキタルはカードを片付けると、笑いながら席を立った。「お迎えなんて」とサイレンススズカが声を詰まらせたが、フクキタルはあっけらかんとして大きく伸びをするだけである。

 私はサイレンススズカのあとに尾いて縁起でもない事を言うなと首を振った。しかしフクキタルは気にする程でもないと言って、それ以上は片付けたカードに触れなかった。

 

「以前の私なら信じていたでしょう。けれどね、思ったんですよ。占いの結果がどうであれ結局走るのには変わりないんだから、これぐらいで騒いでいたらおふたりに示しがつかないなって」

 

 こう言ったフクキタルの態度は、別段気負っている風にも見えなかったから、私はついに何も言えなくなってしまった。

 占いの結果で一喜一憂していたこいつが、まさかここまでになるとは思ってもいなくて、私たちは言葉を失っていたのである。

 

「そんなの、おかしいわ」

 

「何がおかしいんですか」

 

「だってフクキタル、貴女は占いが好きだったでしょう?」

 

「ええ、それは好きでしたよ。それは」

 

「だったら、貴女は」

 

「占いが好きだったから、その結果で私が何かしないと良くないと言うのでしょう。でもねスズカさん、人って言うのは変わっていくものなんです。占いを気にもしなかった貴女が、今はこうして結果を気にしているように」

 

 しばらくして辛うじて声を絞り出したサイレンススズカに、フクキタルは少し手酷く言葉を返した。しかしその言葉の耳障りから言うと、決して猛烈なものではなかった。

 フクキタルは私たちに、自分の変化を相手に認めさせてそこを誇るではなく、それよりももっと奥の方に秘めた心を伝えようとしていると見えた。

 

「私は責めたい訳じゃありません。ついこの前までそちら側だった私が、おふたりを責められる訳がないんです。だからこそもう一度だけ、今度は私の走りをきっかけにして、おふたりに変わって欲しいのです。おふたりの走りを見て変わる事ができた、私のように」

 

 そう言われて私は、フクキタルの道を示すと言う意味がやっと理解できたから、私はもう言う事もないと思っていた。あいつの覚悟はきっと、途方もなく大きな変化を私たちの中にもたらすのだろうと予感めいたものを察したから、これ以上は無粋だと遠慮したのだ。

 サイレンススズカは、なおも言葉を重ねようとしていた。だが係の者がフクキタルを呼びに来たから、ついに言葉を発することはなかった。

 

 地下バ道で別れ際、私は持っていた大吉の絵マを手渡した。ダービーの前には、運を分けると言って渡されたこの絵マだが、今は私が運を分ける側になっていた。

 

「見ていてください、私の走りを。私が運命を超える瞬間を」

 

 絵マを受け取ったフクキタルは、それだけを告げると笑顔でターフへ駆けて行った。左の腰には大吉の絵マが揺れていた。

 

 フクキタルの背中を見送りながら、私は黙っていた。サイレンススズカも言葉を途切れさせた。

 お互いに言葉もなく客席へ行こうと踵を返したら、ちょうど来ていたグラスワンダーが私たちに声をかけた。

 グラスワンダーは私たちを見ても笑わなかったが、代わりにどこまでも真剣な眼差しを寄越して、動向のひとつさえを見逃さぬようにしていた。私たちは蛇に睨まれたように動けなかった。

 

「私からは、貴女たちに何も言う気はありません。しかしひとつだけ言うならば、私も故障を経験して苦しい思いをしたと、それだけを覚えておいてください」

 

 しばらく私たちを見つめたあと、やがて口を開いたグラスワンダーは、突き放すみたいにすぐ横を通り過ぎた。言葉は己の顔に浮かんだ憐れな表情を、咄嗟に覆い隠しているようだった。

 私はどこか愕然とした気持ちで、ほとんど突発的にグラスワンダーの背中に、お前は怖くなかったのかと疑問をぶつけた。

 

「ええ、怖かったですよ。己の弱さに負けてしまうのが」

 

 グラスワンダーは振り返らずに言うと、堂々とターフに出て行った。あとには冷たい風だけが吹いていた。私の頭には、彼女の言葉だけが大きな音を伴って反芻されていた。

 

 地下バ道から客席に移って、ゲートインまでを無言で眺めている。

 フクキタルは無事に走り切れるのだろうか。もし何事もなく走り切れるのならば、私はそれだけで満足するのだろうか。

 私の心中は複雑だった。私は私自身の心根の在り方がわからなくて、満足とも不満足とも極めようがなかった。

 また私の疑問はその上にもあった。

 三人のレースに対する覚悟はどこから来るのだろうか。ただ目の前のレースを必死に走り続けた結果なのだろうか。

 スペは自分だけでなく誰かの夢を背負う質だった。グラスワンダーは己が決めた志を貫徹する質だった。フクキタルは私たちのために走ると言う献身に根差す質だった。

 三人と比較して、私には自分がどれを持っているのかわからなかった。サイレンススズカもどれを持っているのかもわからない様子であった。

 

 思うに三人の覚悟は、生きた覚悟らしかった。私の目に映る三人はたしかに太陽の輝きを放っていた。けれどもその凛然とした輝きの奥深くには、強い意志が織り込まれているらしかった。

 自分と切り離された意志ではなくって、自分自身が痛切に味わった事実、勝利に血が熱くなったり敗北に脈が止まったりする程の意志が、覆い隠されているようだった。

 これは私の胸で推測するがものではない。あいつらが自身でそうだと告白していた。ただその告白が雲の峰のように、私の頭の上に恐ろしいものを蔽い被せた。

 そうして何故それが恐ろしいのか、私にもわからなかった。告白はハッキリとしていた。しかして明らかに私の神経を震わせた。

 

 ここ感情の正体を求めるようにターフを見ると、三人がこれまでにないくらいに本気の顔をしていた。近くにはキングヘイローもいて、三人と何事かを話しているようだった。

 去年とは違うファンファーレが場内に響き渡ると、そのすぐあとにはアナウンスが流れて、スペと、グラスワンダーと、フクキタルが順々にゲートにはいった。

 そして数秒の沈黙が過ぎると、ついにゲートが開いてレースが始まった。

 一斉に飛び出した十二人のうち、ハナを進む逃げ馬の少し後ろを、キングヘイローが尾いていく。スペは五番目、グラスワンダーはそのすぐ後ろに位置取り、フクキタルは後方四番目である。

 逃げウマはひとりと少なく、前年とは打って変わり序盤から展開の遅いレースとなると実況が声を張り上げた。

 

 阪神レース場は先行有利のレース場と言うのがおおよその評価である。

 開始直後から下り坂があり、コーナーも内回りの作りであるため、瞬発力よりも長く脚を使う持久力と、より良いコース取りが求められる。差しを得意とするフクキタルには、菊花賞と同じく展開が遅くなければ不利な条件だと、多くの奴から言われていた。

 しかし今、このレースは遅くある。ここままの調子で進むのならば、フクキタルの末脚がこれを捲る事も考えられる状況ではあった。

 

 第一コーナーにはいっても、展開そのものに変化はない。二番手のキングヘイローがちらと後ろを気にする素振りを見せるが、依然としてスペとグラスワンダーは中団、フクキタルは後方にいた。

 向こう正面にはいると、今度はスペが周りを気にする素振りをした。グラスワンダーを警戒していると見えた。

 だが、グラスワンダーはスペのちょうど真後ろにいて死角の位置で息を潜めていたから、この場面では結局見つける事ができなかった。

 この様子には実況が、標的を決めたグラスワンダーは怖いぞ。と言う。サイレンススズカが早く気付いてとハラハラとした声を上げた。

 フクキタルは依然として後方に待機している。少し位置が下がって最後尾と並んでいた。顔にはわずかに苦心の色が見えた。

 私は黙して事の成り行きを見守るばかりであった。

 

 第三コーナーにはいると、全体の動きがにわかに速くなった。スペがぐんと五番手から上がって仕掛け始めたのだ。

 これを察知したキングヘイローはわずかに仕掛けを早め、グラスワンダーも静かに外へと脚を向けた。他のウマ娘もそれを見てスパートの態勢にはいっている。フクキタルは後方三番手でまだ上がらない。

 第四コーナーで完全にハナを奪って抜け出したスペは、そのまま一気に駆け上がり後ろを千切る態勢になった。最終直線手前になると、グラスワンダーもいよいよ上がって来てスペと並ぶ。ここに至っては実況も興奮を隠さず、二人の一騎打ちかと歓声を上げる。

 しかし600メートル付近であった。内にいたフクキタルがとうとう末脚を発揮し、200メートルではもう二人の一バ身後ろに迫った。これには観客もおおいに沸き立ち、実況すらも「福が来た福が来た! 阪神に二年ぶりの福が来た!」と興奮を爆発させた。

 私も我知らず涙を流しながら、柵を握りしめてフクキタルの勇姿を見ていた。

 

 勢い甚だしく突っ込むフクキタルがついに並ぶと、競り合っていた二人も驚愕と焦燥を露にした。あわや抜かすかと言う末脚に、随分と肝を冷やしたようである。

 ところが、運命と言う奴は残酷な事をする。

 残り50メートルの地点になると、フクキタルの右脚が不自然に沈み込んだ。怪我をした所が、この土壇場で悪さをしたのである。

 その瞬間の私は、心臓が止まったのではないかと思う程の衝撃を受けて、頭の中が真っ白になった。ここまで頑張ったあいつが、転倒してすべてを悪くする未来を幻視して、私は息すらもできなくなった。

 気付けば私は、ほとんど絶叫に近い声でフクキタルを呼んでいた。

 裏切るのか。負けるのか。お前が試合前に言っていたのは嘘だったのか。と、叱責とも激励とも言えるぐちゃぐちゃの感情を乗せて、声を振り絞ってフクキタルの名を叫んだ。

 すると、フクキタルがこれに応えるように負けるもんかと胴間声で吼えて、崩れた体勢からほとんど無理に近い形で一歩を踏み出し、必死の加速をした。

 スペも雄叫びとともに踏み込んだ。グラスワンダーは強く一歩を踏み出した。もう言葉すらいらなかった。

 三人がゴールするその瞬間は、あらゆるものがゆっくりと流れたようだった。横に並んだ三人の姿が、ゴール板の上でぴったりと重なって、ひとつの大きく偉大なシルエットのように見えた。

 

 これを目撃した瞬間の私たちの心情を、はたしてどう伝えたら良いものか。少なくとも、私の言葉では、完全に説明できないものであった。

 それは、無理やり言葉に押し込めるのならば、無辺際の感動と憧れの形であった。誰の胸にも燻っている雄渾な精神の現れであった。

 また、かつて私たちが大事にしていた、今では見ないふりをしていたものを、まざまざと見せつけられたように思えてならなかった。

 黄金色の輝きを放つ三人の走りは、確かに私の、そしてサイレンススズカの胸を貫き、変化のきっかけを芽生えさせたのである。

 

 ゴール板を横切ってから少し走った後、フクキタルは力尽きたように倒れ伏した。実際、死力を尽くして走り切ったから、もう何をするのも辛かったのだろう。

 私はよろめきながらも柵を乗り越えると、脇目も振らずにフクキタルの側に駆け寄った。そしてフクキタルを抱き起こすと、子供のように泣きじゃくって抱きしめた。フクキタルは息も絶え絶えに弱々しく、けれどもしっかりとした手付きで私の頭を撫でて「走り切ったよ、私」と言った。私はただ頷く事しかできなかった。

 本当は伝えたい事がたくさんあった。走りに感動した事や、諦めなかった気持ち、その姿に強い憧れを抱いた事を、すべて伝えてやりたかった。

 けれども、もう涙で喉が詰まってしまって、私は自分の気持ちを言葉にすら出す事ができなかったのである。

 

 私に遅れてサイレンススズカも来た頃、掲示板に結果が表示された。着順はグラスワンダー、スペ、そしてフクキタルの順で、その差はすべてハナ差である。

 もし直前でフクキタルの体勢が崩れていなければ、勝者はまた違っていたのかもしれない。そう思わずにはいられない結果に、観客席からは少しの落胆と多くの称賛の声が湧き上がった。

 

「どうでしたかスズカさん、私の走りは」

 

「うん、凄かった」

 

 二人が交わした言葉はたったそれだけだったが、サイレンススズカは改めて己の中にある気持ちを理解した様子であった。

 最後にフクキタルは、気持ち良さそうに笑って瞳を閉じた。よっぽど頑張ったからか、安心した途端に寝入ってしまったようだった。

 私の涙が少し落ち着いてくると、スペとグラスワンダーがやおらと近付いてきて声をかけた。

 口火を切ったのはグラスワンダーであった。まずフクキタルに、貴女のような兵と戦えた事を光栄に思います。と賛辞の言葉を送り、それから私たちの方を見て道は決まりましたかと聞いた。

「ええ、決めたわ」とサイレンススズカは頷いた。私も涙を拭ってから頷いた。

 そうしたらグラスワンダーは微笑んで「それなら、私からはもう何か言う事もありませんね」とスペにあとを譲った。

 

 眼にいっぱいの涙を溜めているスペは、ぐずぐずと鼻を鳴らしながら私たちの顔を見て、先で待ってるからと言う。

 サイレンススズカは心配かけてごめんねと謝罪をして、改めていつか一緒のレースを走ろうと約束をした。

 私も腑抜けた姿ばかりを見せた事を謝り、それから、絶対に追いつくから待っててくれと伝えた。もう後ろばかりを見たりしないから、好敵手として見守ってて欲しいと、スペの顔を真っ直ぐ見た。

 

「今までとは逆だね。今は私がお姉ちゃんだ」

 

 スペは笑顔でそう言った。スペの言葉を聞いた私は、そう言えばそうだなと笑って頷いた。




宝塚記念、決着。
強いものは、強かった。

主人公ちゃんの精神が回復しましたね。ここからはお話も少しずつ明るくなってきますよ!多分、おそらく、きっとメイビー……!


 吾輩はウマであるは電子書籍化しました。
 本編に大幅な加筆修正に加え、新規エピソードが追加されていたり、各主要キャラの設定を見直したりと、いろいろな部分に手を加えています。
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