これが土屋家の日常   作:らじさ

117 / 267
第3話

「じゃ、とりあえず始めようか」と腰に両手を当ててかがみこむような姿勢で陽向が3兄弟に向かって宣言した。

「何をやりだす気だ、お前は?遊びに行くんじゃなかったのか」と颯太が尋ねた。

「決まってるじゃん。あたしがいない間に兄ちゃんたちが修練をサボってなかったのか確認をするのよ」

「・・・・・陽向君。君も疲れているだろうからとりあえず休んだらどうかね。アンナ君、お嬢様にお茶を・・・」颯太の態度が急変した。

「ごまかそうとしてもダメだよ、颯兄。この間発売されたアルバムのタイトル曲の「Flying winds」。あれ何?せっかく篤兄が全く心にも無い良い詩を書いてくれてるのに、颯兄のボーカルのせいでメチャクチャじゃん。あの聞かせどころのエンディングのたった8小節のロングトーンが何でできないの?」

「(篤君の詞が全く心にもないってバレてるね・・・)」

「(・・・・・あいつは篤兄さんの天敵だからな)」

 

「お前、そういうけどあの曲はオリコンで5週連続1位になってるんだぞ」

「ふーん、タコ&ライスのファンって音楽聞く耳がないんだね。あんなヘナヘナ声で感動するなんて」

「陽向いくら妹でも言いすぎだ。ファンのことはいくら馬鹿にしてもいいが、俺を馬鹿にする事は許さんぞ」

「そのセリフって普通逆じゃないですかね・・・」愛子が思わずツッコんだ。

 

「というかお前は素人のくせに随分と聞いた風な口をきくじゃねぇか」

「あのね、颯兄。あたしこれでも絶対音感持っていて、声だって6オクターブ出せるんだよ。これでも、伊賀のマライヤ・キャリーって呼ばれてるんだから」

「凄いんだか凄くないんだかよく分からん仇名だな」

 

「大体、颯兄は腹筋が弱すぎ。だから声をフェードアウトするところでも力がないから声が震えて感動が台無しだよ。わたしが言ったとおりにちゃんと毎日腹筋100回やってるの?」

「・・・・・あっ当たり前じゃないかね陽向君。可愛い妹のいいつけをこの兄が破るとでも・・・・」

「ふーん、そうなの。ちゃんとやってくれているんだ」

 

少女は颯太に近づくなりいきなりボディにアッパーをぶち込んだ。

「ぐおぉぉぉぉー」颯太が苦痛でのたうった。

「なによ。腹筋なんて全然なくてお腹ブヨブヨじゃない。これでよくロックなんて歌えるわね」

「・・・・・ばっバカ野郎。幼稚園の時に猪を一発で仕留めたお前のパンチをいきなり腹に打ち込まれたらマイク・タイソンだってノックアウトされるわ」

「ちゃんと手加減したから大丈夫だって」

「人をこれだけのたうたせておいてどこが手加減だ、このバカ妹」

「だって本気で打ったらパンチがボディ突き破っちゃうよ」

「天下一武道会で優勝でも狙ってるのか、お前は・・・」

 

「やっぱりね。颯兄は腹筋弱すぎ。とりあえず腹筋100回やる。はい、うつ伏せになって両手で体起こして」

颯太は渋々と言われた体制をとる。この妹がやると言えば絶対にやるのだ。

「はい、じゃ腹筋100回開始」

「・・・いーち」と言いながら腕を曲げて体を床に近づけた瞬間、尻を踏みつけられた。

「何やってんのさ颯兄は、あたしは腹筋をしろと言ったの。それじゃ腕立て伏せじゃない」

「お前がこの体制を取らせたんだろうが」

「引掛けに決まってるじゃない。どうやってその態勢で腹筋するつもりなのよ」

「何で腹筋するのに、いちいち引っ掛けられなきゃならんのだ」颯太はブツブツいいながら仰向けになり「いーち、にー」と言いながら腹筋を始めた。

 

それを横目で見ながら陽向は言った「次は陽兄だね。大学に提出するレポートを何でもいいから持ってきて、あたしがチェックしてあげる」

「ははは、陽向。いくらお前でもT大のレポートだぞ。荷が重くないか?」

「大丈夫。T大って言ってもたかが学部レベルのレポートじゃない。さっさと持ってきて」

陽太は渋々と部屋に行き、紙の束を陽向に渡した。

「まだ教養なんで哲学のレポートだがな。理解できるのか?」

「ふーん、「現代における唯物論的弁証法について」か・・・まあ、今どき随分陳腐なテーマを出す先生だね。ちょっと読ませてね」

「(ねえ、康太)」

「(・・・・・何だ)」

「(陽向ちゃん、随分頭いいみたいだけどあんなの読めるの)」

「(あいつは幼稚園の時に既に専門書を読んでいた。あれくらい軽いだろう)」

 

少女はしばらくレポートをパラパラとめくっていると、静かに頭を振った。

「ねえ、陽兄。今までずっとこんなレポート出してきたの?」

「ああ、とりあえず今までのところ全Aだったぞ」少し誇らしげに陽太が答えた。

「そうだとしたらT大って随分ヌルい大学だね。あたしが教授だったらDか、おまけしてもせいぜいCだね」

「どこが悪いんだよ」陽太が少しムッとして言った。

「なにもかもよ」少女が間髪いれずに言い返した。

 

「いい、陽兄。唯物論的弁証法を語るのにマルクスやエンゲルスだけに言及しているようじゃテーマの表層をなぞっているだけなの。そもそも弁証法ってのは、ソクラテス、プラトン、アリストテレスに始まる西洋論理学の発展の延長の一つの終着点としてヘーゲルが完成させたものなの。ヘーゲルは命題を「テーゼ」とそれに対立する「アンチテーゼ」、そしてそれらを内包した「ジンテーゼ」に分類することによって、「テーゼ」と「アンチテーゼ」が相克し、より上位の「ジンテーゼ」へと昇華する「アウフヘーベン」を提唱したのよ。エンゲルスもそんなヘーゲルの功績を認めながらもその対象が形而上にのみ限定されていることを批判して、理屈だけの「頭でっかち」と呼んだわけ。そしてエンゲルスは弁証法を現実つまり歴史分析に用いることによって唯物論的弁証法として、現実からのフィードバックを受けるという方法論に変えたのよ」

 

「そっそうだったかも知れないね・・・でも」陽太が悔しそうに言った。

「でも、なに?」

「もう少しギャグを入れてくれると書いてる人は安心だと思うんだ・・・」

「なに言ってんのさ。陽兄は」陽向が激昂して叫んだ。

「書いてる人だって意味わかって書いてるわけじゃないんだから。なんとかそれっぽく見せようと必死なのよ。ギャグなんて入れられるわけないじゃない」

「わかった俺が悪かった・・・というか何でお前はそんなに怒ってんだ?」

「・・・・・はっ。今、あたし何か言った?何かにのり移られたみたい・・・」

 

一読しただけで陽太のレポートの問題点だけでなく、その方向性や書いている人の事情まで指摘する陽向に一同は目を丸くしていた。

「すっすごいね陽向ちゃん。中学生なのにドイツ語も喋れるんだ」

「・・・・・最初から最後まで日本語だ、バカもの」

「えっ?だって一言も理解できなかったよ?」

「・・・・・ヘーゲルっていう名前だけで瞬時にドイツ語だと思うお前の方がスゴいと思うんだが」

「いやあ、日本語が理解できないってのもあるもんだね」

 

「だから唯物論的弁証法を語るためには、今言ったことをバックグラウンドデータとして知っておくべきなの。基本的にエンゲルスの主張は一概に間違いだとも言えないと思うわ。だけど問題は、唯物論的弁証法がマルクス主義と結びついてマルクス主義的弁証法になったことね。そのために共産主義国家の思想的バックボーンとして採用されて、レーニンやトロッキーそしてスターリン達に採用されたけど、共産主義国家っていうのは所詮は人工国家よ。軍部という暴力装置の背景がなければ成り立たない歪で不自然な国家体制。だから思想さえも国家擁護のために利用されたの。マルクス主義的弁証法もその例外ではなかったわ。年月が立つにつれてより政治的イデオロギーが強くなり、結果として教条主義に陥ってしまったの。簡単に言えば、自由な思想、結論を導き出すための弁証法が、共産主義国家の正当性を示すためのジンテーゼが先にあって、それを導き出すためにテーゼやアンチテーゼが後付けで加えられるようになったわけ。

そして数十年経って共産主義国家は崩壊した。エンゲルス流に言えば現実を思想に反映させた結果、現実によって唯物論的弁証法が否定されてしまったってことかしら。レポートを書くならこの程度のものは書いてよ、陽兄」

 

「・・・・・まあ、そうかも知れんが。教授がバリバリのマルキストだからなあ」

「今どき、そんな化石みたいな人がいるの?大丈夫、いざとなったらあたしが論破してあげる」

「大学のレポートで中学生の妹に応援頼んだ日にゃあ俺はT大の伝説になるよ」

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。