「それはともかくとして由美ちゃん。こういうクラシックコンサートって高いんじゃないかい?」颯太が尋ねた。
「いえ、それほどでも」
「それにしても座席が最前列だしな。指揮者が入って来た時に俺と目があって、俺の格好を上から下まで眺め回した後で、額に血管が浮かぶところまでよく見えたぞ」
「ジャージの観客が初めてだったんでしょうね、きっと」
「ちなみにこの席はいくら位なんだい?」
「アリーナ席ですから三万くらいです」由美子が平然と言った。
「さっ三万だとぉ~!」颯太が大声をあげた。
「ウィーンフィルは人気ですし、それくらいですよ」
「いや、ちょっと待ってくれ。恥ずかしい話だが俺はそんなに金を持ってないぞ」
「大丈夫ですよ、三宮グループが主催しているコンサートですから、タダ券を兄からもらって来ちゃいました」
「心臓が口から飛び出るかと思ったぞ。しかし、龍の奴もこんな連中を呼ぶ金があったら俺たちのコンサートの切符でも買ってくれりゃあいいのに」
世界のウィーンフィルハーモニー交響楽団も、最前列でジャージ上下で座っている男に「こんな連中」呼ばわりされていることを知ったら、コンサートキャンセルして帰国しかねないような発言をした。
「あっ、あのお兄さん。そういうことを兄に言わない方がいいですよ」由美子が慌てたように言った。
「何だ?仕事とプライベートは別だとか言って怒りだすのかい」
「いえ、なんというかその。やっちゃうんです」
「やっちゃうって何を」
「だから切符の買い占めをです」
「良いことじゃないか。全部売れるんだろう?」
一体この娘は何を心配しているのだろう。切符が売れて心配するプロモーターはいない。どこに「やっちゃう」要素があるというのか。
「前にお友達とガラ・コンサートをやった時に、兄に一言「切符買ってね」と言ったら、全席買い占めちゃって」
「切符は売れたわけだろう?」
「切符は売れても人はいませんから、コンサートホールに父と母と兄の3人の観客の前で演奏という恐ろしい目に・・・・・」
「限度を知らんのかあの男は・・・・・」颯太が呆れたように言った。
「ですから、タコ&ライスの東京ドームコンサートでも埼玉スーパーアリーナコンサートでも兄だったら切符買い占めちゃいます」
「・・・・・・・・・」
「あの広いドームでお客さんが土屋家関係者と兄だけということになっちゃいますけど」
「高校の文化祭のアマチュアバンドに観客動員数で負けるプロってのもそうはいないぞ」
「そういうことですから、あんまり兄にコンサートの話はしない方がいいと思います」
「よし、分かった。じゃ由美ちゃんこのことは二人だけの秘密ということで。このことがうちの事務所の鬼社長にバレたらアリーナツアー丸ごと龍に売りつけかねん」
「社長さんって鬼なんですか?」
「鬼というか人でなしというか守銭奴というか悪魔というか・・・・・・」颯太がここぞとばかりに日頃の恨みを吐き出し始めたので、由美子が慌てて遮った。
「具体的にはどういう風な・・・・・」
「まず、俺たちは給料をもらってない」颯太がキッパリと言った。
「・・・・・はい?」由美子が理解できないといった声を漏らした。
「いや、給料をもらってないのだよ」
「それって何でまた・・・・・」
「正確には「お小遣い」として月7万円もらっている」
「給料とお小遣いは違うんですか?」
「大の大人が一月働いて給料7万なんて言ったら転職しているわ。お小遣いと思うから我慢しているんだ」
「それで自分を騙せるのもスゴいとは思いますが、別の事務所に移ればいいんじゃないでしょうか?」
「それが奴は狡猾な上にバックに恐ろしい組織がついている、というかその組織から俺たちを監理するために派遣されてきたようなもんだ」
「芸能界の暗闇という奴ですね」
「もっと恐ろしい組織だ。社長に逆らったらこっちの命が危ない」
いつもアンナちゃんと漫談していて楽しいお兄さんだと思っていたのだけど、こんな暗い現実を背負っていたなんて知らなかった。本当に本当に今までそんな陰など一度も感じたことはなかったのだけど。
「そもそも何でそんな事務所に入ったんですか?」
「いやあ、ある日奴が来て「つべこべ抜かさずにこの書類にサインしなさい」というから、よく分からんがサインしたら、奴の事務所との契約書だったという話なんだが」
「お兄さんたちは、実印とか作らないようにしましょうね。というか書類の内容くらい読みましょうよ」
「それが、いろいろとややこしい法律用語が一杯あって面倒くさくなっていたら「さっさとしなし」と怒鳴られて、しかたなくサインしたのだ」
「絵に書いたような自業自得ですね」
その時、開演のブザーがなって場内の証明が暗くなった。
「それはとりあえずおいておいて、今はコンサートを楽しみましょう」由美子が言った。