逃がさないスズカと逃げるマヤと逃げられないトレーナー 作:エアジャガーる
『仁川の大舞台、最終直線!その登り坂で全てを撫で切り!逃げきりに入ったジョバンニスコールをハナ差で差しきって!ダイワスカーレットの勝利です!』
「トレーナーサン!スカーレットが勝ちマシタ!勝ちマシタヨーッ!」
「ああ、うん……そうだな……」
着順が確定した瞬間にタイキシャトルがフユミに抱き付く。
フユミの首を回した左腕で思いっきり引っ張って締め上げている、というほうが正しいが。
右手にコーラの缶を片手にカンパーイッ!と叫ぶタイキシャトルに圧されて、飲み物を持ってた周りの全員が乾杯する。
その左腕には、いろいろと諦めたフユミが絞められているのだが。
「ダイワスカーレット、まさか差し狙いで走ってくるとは……」
「いや、先行策のままだよ……無理に前に出なかった、前が開く絶好の機会を狙って耐えていた。それだけだ」
タイキシャトルの絞めにさすがに苦しくなって、宥めながら腕の中から抜け出したフユミは答える。
少しフラフラしているが、ため息交じりにフユミはマヤノトップガンを膝から降ろして立ち上がる。
ナイスネイチャのトレーナーが、親指で自販機のほうを指している。
そちらのほうに向かって歩きながら、続きを話す。
「ジョバンニスコールとクロノステイシスはおそらく、リシャーデンポートとグルだった。そして、マークの対象は最初はダイワスカーレットだったのだろう。ところが、いつまでもダイワスカーレットが上がらないことに焦れたリシャーデンポートはエアグルーヴを抑え込みに行った」
「強気な先行策を打てなかったダイワスカーレットはもはや敵ではない、という訳か」
「むしろ、エアグルーヴが前に出てきたことのほうが脅威だったのだろう。スズカがいろいろとリミッターの外れた末脚で差し返したサウジも、普通なら追い付けたものではない。それにまごまごしていると後ろにはウオッカもいる。ウオッカは本気ではないだろうが、それでも興が乗ってマジでブッ差しに来る可能性もある。ダイワスカーレットを蹴落とす布陣のまま、エアグルーヴとウオッカを警戒しなくてはならなくなったわけだ」
ナイスネイチャのトレーナーが自販機に小銭を入れて、促してきたので緑々しているメロンソーダを買う。
メロンの味などまるでしないのに、これをメロンソーダだと思えるのはなんでなのだろうか。
「しかし、実際にダイワスカーレットはかなり後半まで抑えていた。ほぼ最後の直線で差しに来たのに先行策って言えるのかい?」
ナイスネイチャのトレーナーは選ばれることでお馴染みの緑茶を買って飲んでいる。
アタマを働かす糖分さえ気にしなければそっちがよかったな。
「ダイワスカーレットは、ずっと先頭にいたジョバンニスコールとの距離を維持して走っていた。位置はともかく、そのスピードは逃げるジョバンニスコールと同じペースで、だ。そしてダイワスカーレットは内に隠れながら、自分へのマークが外れるように動いて、最終コーナーから集団が横に広がるほんの一瞬の隙を突いて立ち上がりからぶっこ抜きを仕掛けた。仁川最後の直線のダウンヒルからのポップアップという、ごまかしの利かない勝負処を、誰よりも走り込んだからこそ見極められたタイミングだ」
「ははははははっ!なーんだ。結局、真面目に観てたんじゃないか」
「他の手段でダイワスカーレットが勝つ見込みがなかった。それだけだ。外から行けばクロノステイシスが内から競り合いを仕掛けてその内をリシャーデンポートにかわさせて、力尽きたらバトンタッチして二人で削りにかかる。内から闇雲に突っ込めばジョバンニスコールとクロノステイシスが前と外で挟んで潰しにかかっただろう。実際にそれを食らった結果が、エアグルーヴだ」
「担当には、そういうレースの駆け引きを教え込んでるわけか?」
フユミは肩を竦めて、首を振る。
わざとらしい仕草で、実は自慢なんじゃないかと思うほど。
「あの三人がそういう駆け引きを好んでするタイプでも、駆け引きでレースを走るタイプでもないのはわかるだろう?」
「……くっ……誰だ」
「ホオヅキです……」
エアグルーヴの控え室。
ドアに控えめなノックが鳴り、ホオヅキが入る。
ホオヅキは最初に話しかけてきた時から何も変わらず、パンパンのリュックを抱えて前屈み気味な姿勢のまま。
賭けには勝ったというのに、何も変わらない。
「私の惨敗だ。弁解の余地もない」
「最終コーナーを抜けた直線……最初の下り坂で脚が残っていなかったにも関わらず、あそこまで粘るとは思いませんでした……体調から考えれば好走、善戦と言っても……」
「……貴様、私をどこまでも……」
「あなたは確かに、優秀な優駿です……出過ぎた言葉でした……」
リュックを足元に置いたホオヅキは、首からタコ糸で下げていたバッヂを外して、エアグルーヴに投げ渡す。
キャッチしたエアグルーヴの手に、ちくりと何かが刺さる。
バッヂの裏側の折れ曲がったピンの針が、エアグルーヴの手のひらに小さく刺さっている。
裏のピンが折れて曲がって壊れたバッヂ。
バッヂを壊したのは、ホオヅキの首元からもぎ取ったエアグルーヴだ。
「……それでは」
「待て!……いや、待ってくれ……」
しばらくの沈黙のあと、ホオヅキが外に出ようとしたのを、エアグルーヴは腕を掴んで引き留める。
咄嗟の行動だった。
自分が何をしているのか、エアグルーヴ自身もわかっていない。
論理性の欠片もない、衝動的な行動。
らしくもないことをしたことに気付いたせいで、エアグルーヴはそこから先の身動きが取れない。
「………………溺れる者は、藁をも掴む、ですね……」
「……くっ……」
「……あなたは、私という藁を掴みました……私から、あなたに提案出来るのはふたつだけです……ひとつは、来週からオープンを連闘して桜花賞のフリー出走枠を無理矢理掴んで、桜花賞で死力を尽くして勝つ……オススメはしませんよ?たぶん、死にますから……」
エアグルーヴは、自分の頭に血が上る感覚を実感する。
しかし、今となっては反論の余地もない。
まったくもって、ホオヅキの言う通りだ。
「……もうひとつは、桜花賞をバッサリと切り捨て……万全な支度をした上でオークスを確実に獲りに行く……こっちもこっちで、最後の賭けかもしれません……これでオークスも取れなかったら笑い者ですからね……」
「失敗を前提に……」
「しますよ。私は詐欺師にはなりたくないので……今のあなたは桜花賞に出走すら絶望的……サイレンススズカが明日、弥生賞を好走したらフリー枠のひとつはサイレンススズカから揺るがないでしょう……今のあなたは差したハズのサイレンススズカに差し返されてサウジを二着、ウオッカに最後の直線で競り負けて阪神JFを二着、チームマーネンの包囲網に擂り潰されチューリップ賞は惨敗、ハッキリと言えばオークスを獲るようなウマ娘の成績ではありません……そうではありませんか……?」
ホオヅキは普通なら少しは憚って言いにくいだろうことをズケズケと言ってくる。
おどおどした態度とオブラートという文明の利器を知らないかのような言動が一致していない。
「……2つ目のプランだってサイレンススズカが桜花賞で好走してオークスを優先出走枠で出走するのが前提です……場合によってはオークスすら出走枠から蹴落とされる可能性があります……どうしますか……?」
「私は……」
エアグルーヴは、握り締めているホオヅキの二の腕を見る。
下手をしたら、上着のジーンズのジャケットのほうが固いんじゃないかというほど抵抗感のない腕。
自分で自分のことを藁、というのもわからなくもない。
「あなたはアテにならない藁を掴む覚悟と、掴んでしまった藁を手離す勇気……どちらを選びますか?」
書いてたら切り処がなくてながーくながーくなっちゃった……