逃がさないスズカと逃げるマヤと逃げられないトレーナー 作:エアジャガーる
「ありがとうございました」
診察室を出たフユミは、廊下を曲がり角まで歩いてから、溜め息を吐きながら壁にもたれ掛かる。
いつ、タイキシャトルから急な連絡が来るかと、ヒヤヒヤしながら病院へと向かったが、ひとまずは診察の結果に安堵した。
情けない。
サイレンススズカに「私のライブはいいですから、マヤちゃんのところに向かってください」と強めに言われて、ここまで急いで向かっている時点でも情けないのに、診察室に呼び出された時はそれだけでも緊張した。
医者が診察した上での最終的な結論は、今まで経験のないレベルのストレスを受けながら、これまで出したことのない速度を出し続けて走る極限状態からの反動に、心肺機能がショックを受けて一時的な発作を起こしたもの。
段階を踏んで慣らしていけば、心肺機能が走りに追い付くようになるだろう……というもの。
診断結果に、納得は行く。
サイレンススズカに、ざっくり1400mもの間を尻尾が掠めるような距離感で追走され、いくら逃げても逃げても、背後にピタリと付かれて逃げられない。
サイレンススズカに『今日は自分が勝つ』と煽った上で、追われ続けたのだ。
どれだけ追い込まれた状態だったかは、想像に難くない……等と言うのはもはや侮辱的だろう。
おそらく、僕の想像力や経験で推し量れるような、矮小なレベルのものではなかったハズだ。
そんなレースに、淡々とマヤノトップガンを送り出したくせに、いざ終わってみればこうして怯えている自分が、本当に嫌になる。
自分で谷底に落とすような真似をしておいて、谷底に落としたことを悔やむマッチポンプ。
全くもって度しがたいことをしたと思う。
足音が聴こえてきて、壁から身を起こして表情を作り直す。
他人には見せられない姿を正して、マヤノトップガンの病室に向かう。
「トレーナーサン!ドクターとのお話は終わりましたカ?」
「ああ、マヤは?」
「起きてマスヨ!ただ、チョット落ち込んでマシタ」
「そうか……ん?」
「ハイ」
タイキシャトルがフユミに腕を広げている。
こちらに来てからベアハグ被害者が相次いだことから、タイキシャトルは少し学んだのか、自分から飛び込むのはやめた代わりに、こうやって待ち構えるようになった。
ちゃんと力の入れすぎにも気を遣うようになったので、今は誰もタイキシャトルのハグを嫌がらなくなった。
根が寂しがり屋な上に、異国に独りで来た不安もあるのは、フユミもわかっている。
タイキシャトルと軽いハグをしたあとに、頭を撫でてからマヤノトップガンのいる病室に入ろうとしたところで、タイキシャトルが止まる。
「外で待ってマスヨ。マヤとお話、してきてクダサイ」
「タイキ……ありがとう」
「入るぞ」
病室の扉が開いてフユミが顔を出した瞬間に、ベッドから身を起こして窓から外を見ていたマヤノトップガンは、こちらで着替えたのだろう入院服姿で縮こまる。
これからイタズラがバレて怒られる子供のように。
「マヤ」
ベッドの横の椅子に座ったフユミに呼ばれて、小さな悲鳴を上げてマヤノトップガンは眼を閉じる。
その頭に、フユミの手のひらが優しく載る。
「頑張ったな」
「トレーナーちゃん……」
「なんだ?」
「ごめんなさい」
しょんぼりとしながら、マヤノトップガンは頭を撫でられながら俯く。
耳までぺたん、と畳んでしまうほど。
「マヤね、スズカちゃんと同じ走りをして、スズカちゃんより速く走って、トレーナーちゃんに……マヤはスズカちゃんより特別って……思ってほしかったの……トレーナーちゃんとずっと一緒にいたのはマヤだもん……でも、マヤよりスズカちゃんのほうが特別なんじゃって……思ったら……!」
「マヤ、ごめんな……寂しがらせた」
フユミはマヤノトップガンの頭を撫でながら、そっと抱き寄せる。
マヤノトップガンはそのまま身体を預けて寄り掛かる。
「マヤをほっといたら、学園から去りそうだったから……なんて、言い訳してたけどな……マヤのことを面倒見ていた時、少し楽しかったんだ。なんでもすぐに覚える君を相手にしていると、次の日が少しだけ待ち遠しかった。一人だけになって、トレーナーを辞めようと思ってた僕が辞めなかったのは、マヤのおかげだったのにな」
フユミはマヤノトップガンの頭をポンポンと撫でて、思いっきり抱き締める。
「……今のトレーナーちゃんは、トレーナーでいて辛くないの?」
「……どうして、そう思う?」
「……トレーナーちゃん、寝てる時にうなされてたから……前の担当の名前……」
マヤノトップガンの前でフユミが眠りこけたのは、何度かある。
最近だと、有馬記念の中継を観たあと。
露骨にうなされていたらしいのを、マヤノトップガンに心配された。
「ごめんな。まだ、たぶん立ち直れてない……たまにだけど、確かに昔のことを夢に見るんだ……そりゃ、嫌なこともあった……でも、それはトレーナーを辞めたって結局思い出す時は思い出すんだ。逃げたくても、たぶん……逃げられない」
「トレーナーちゃん」
フユミはマヤノトップガンの頭を撫でながら、あやすように明るい栗色の髪を指ですいていく。
ふわふわの髪が、フユミの手から指の間を通っていく。
「それに最近は、割とよく眠れてるんだ。君達に振り回されたり、君達のスケジュールやトレーニングに頭を抱えたり、書類に潰されそうになったり……忙しくしていたら、家に帰ってバタッと寝て、朝が来て……目まぐるしく毎日が過ぎてる中で、君達が少しずつ速くなって、君達をより速くするために不馴れな論文とか手を出して、だからさ……大丈夫だよ、マヤ。僕はまだ、トレーナーでいられると思う」
「……マヤを置いていかない?」
「置いていかない」
「……マヤも連れてってくれる?」
「連れていく訳には行かないから、ここにいるよ」
「……なら、いいよ……」
マヤノトップガンが、静かに寝息を立て始めたのは、それからしばらくしてからのこと。
寝息を立てるマヤノトップガンをベッドに寝かせ、布団を肩まで掛ける。
鬱陶しそうにしている前髪を払って、頭を撫でる。
フユミは改めて猛省した。
きっと、ずっと不安にしていたんだと思う。
あの雨の日のことを、改めて後悔する。
あの日、僕は逃げ出してはいけなかった。
あの日、僕はギリギリでスズカに見つからなければ、もっと酷いことになっていたかもしれない。
トレーナーとして、最低だった。
今、僕を頼っている3人がいる間は、僕は逃げ出せない。
どれだけ力がなくても、今は出来る限りのことをしよう。
いつか、この子達が僕のところを去るまでは。
今週は家に帰るのが1日おきになるレベルで忙しいので更新遅れます。すまねぇ、すまねぇ……