逃がさないスズカと逃げるマヤと逃げられないトレーナー 作:エアジャガーる
「お引越しをしてくれませんか」
「はぁ、お引越し……ですか」
緑の人、理事長に振り回されてる人、実は理事長を猫越しに遠隔操作してる人、理事長の隣の人、たまには豪華な扉を開けろ、扉は理事長に任せてお前は休め、1回ずつ扉開けさせて音を上げさせてやる、などの異名を持つ理事長秘書のたづなさんがチームアルコルのチームルームに来たのは、スプリングステークスのために中山へ向かう予定だったその3日前のことである。
フユミとしては、バタバタとしたくないタイミングだった。
ただですらようやく中山から府中に帰ってきたのにインタビュー企画で飯田橋に行って、一息吐いたと思ったらまた中山行って、阪神行って、また中山行きというずっと忙しいだろうことが予想される中で、それ以上のドタバタは勘弁願いたいのが、フユミの本音だった。
「今期クラシック最有力チームになるだろう“アルコル”がいつまでも端っこの一番小さな部屋では示しが付かない!ということで、是非とも大きい部屋に移ってもらいたいんです」
「……先に言いますけど……部屋移ったからって、新しい娘の担当はしませんよ?」
この時期になると、入学式より少し早く学園にやってきたウマ娘によるトレーナーへの売り込みが始まる。
ダイワスカーレットの担当であるハルヤマやウオッカの担当であるサンジョーは、チームを作っていないのでまだいいが、いちおうチームであるフユミのところには、間違いなく売り込みに来るウマ娘がやってくる。
一人や二人ではない、もっとたくさん来るだろう。
3人で手一杯であることを示せるちょうどいい広さの今の部屋は、そういった売り込みを断るにはうってつけの理由になる。
あとフユミには短くない期間、この部屋を使っていた思い入れもある。
「その3人全員が重賞を取った有力チームに、所属したがる娘もかなり多いと思いますよ?それを全員一律で断るのは……」
「3人同期というウチより暇なトレーナーなら他にいるでしょう。僕は今ですらちゃんと全員の面倒を見きれてないんじゃないかと思ってるくらいなんです。マヤが病院に担ぎ込まれた時の無力感は、正直に言えば堪えました。自主的で制度以上の理由でトレーナーを求めていない勝手気儘な娘ならともかく、ちゃんと面倒を見て重賞を取れるようなレベルにしろというのなら間違いなく無理です」
自分のデスクで膝に乗せたマヤノトップガンの頬をぷにぷにと指でつついて撫でながら、フユミはうつむく。
マヤノトップガンも微妙な表情で、頬をフユミの指に任せている。
たづなさんは切り出すのに少し苦心したような顔をした後に、意を決したような表情で切り出した。
「実は本当のことを言うと……あるチームのトレーナーさんが、病気を理由に退職するんです。担当トレーナーがいなくなるチームは当然、解散という訳で……」
「……そこに属していたウマ娘は?」
「転籍は既にほとんどのウマ娘が終えています。多い人数ではなかったので、大多数が……チームマーネンに」
チームマーネンはチームとしては最大規模として、このトレセン学園でも影響力はかなり大きい。
優秀なウマ娘の選別は入学の時点で済んでいるのだから、あとは集団で鍛えてレースに送り込みチームの誰かが勝てばいいという方針を、隠しもしない大型チームだ。
チューリップ賞にも自分達だけで3人を送り込み、更に連携するチームも含めれば出走ウマ娘の内の7人がマーネンの息のかかったウマ娘だった。
所属するウマ娘は粒揃いで、極端な才覚のあるウマ娘はいないが、仲間一人を勝たせるためなら自分の勝負を捨てられる鋼の結束を持つレース集団。
公然の秘密というべきか、暗黙の了解というべきか、トレセン学園の外にあるレース集団“ミルキーウェイ”がむしろ本体で、その連携チームという実態がある。
この実態に学園としての本音はどう思っているかは、たづなさんの少し苦々しい表情が物語っている。
「……チームマーネンに、ね。全員が納得しての転籍ではなさそうだが……里心が出る前に空き部屋を埋めてしまいたい、というところですか」
「はい、それが当人達たっての希望です。前に進むためには、こうしたいと」
「当人達、が本当に全員とは限らない。もちろん、反対するウマ娘もいるのでしょう?そのチームが新しくトレーナーを迎え入れて続投することも望んでるウマ娘も少しはいるでしょう。僕のところにその打診が来ていないということは、その少しはいるだろうウマ娘はチーム存続のチャンスすら与えられてないということだ。そんな強硬策を選ぶほど内紛しているか、本当に少数、下手をしたらチームとしての体をなせない人数である一人か二人しかいないということ。その一人か二人の納得無しには、僕も怖くて引っ越せませんよ。いらないところで恨まれたくないですから」
「反対しているのは、一人だけなんです。そのウマ娘も引退するトレーナーさんが引退してチームもなくなるなら自分も、と」
フユミはそれを聞いて他人事と思えなくなってきた。
今は膝の上でむにむにと頬を弄られているマヤノトップガンが、同じことを言い出しそうだと思うと、内心で頭を抱える。
おちおち、病気で倒れることも出来ない。
自分のせいで最悪の空中分解をするところだったのは、身につまされている。
大方、引越しはオマケで、本題は反対してトレーナーと一緒にターフを離れようとするウマ娘を説得なりして、収まりのいいところに着地させてほしいというのが本音なのだろう。
「……そういう役回りに一番向いているのは、僕という訳ですか」
「すみません。他に頼める立ち位置にいるトレーナーさんが」
「他にいない……その通りでしょう。ただ……僕が悪役になるのは構わないのですが、この娘達を悪役にしたくはないなぁ」
フユミは何かを言おうとしたマヤノトップガンの口に指を当てて、口を噤ませる。
たづなさんも、ハッキリ言えば困り顔だ。
要するに、トレーナー不在で畳んだチームの跡地に、実際の始動からほんの3ヶ月も経ってない新興チームが引っ越せというのだ。
完璧に悪役のやることだろう。
「とりあえず引越しなら、まずは内見からでしょう。部屋を見に行っても?」