逃がさないスズカと逃げるマヤと逃げられないトレーナー 作:エアジャガーる
春の中山で行われる皐月賞の前哨戦。
弥生賞より1ハロン短いマイル戦となる。
シンザン、ナリタブライアン、オルフェーヴルなど三冠馬を多数輩出した皐月賞トライアルレースのひとつ。
短いゾ♡ですっかりお馴染みなストレートの中間地点にある例の坂からスタートして1コーナーがすぐに来る、見るからにちょっとクセの強いコース。
お台場のテレビ局の自己主張が激しいので、中継番組だとまずタイトルをマトモに言わせてもらえない。
スタジオでゲストとアナウンサーによる「今回のスプリンry「フジテレビ賞ですね!」の攻防がほぼ毎年行われているよ。
この調子なら『フジテレビ賞スプリングステークスオルフェーヴル記念』みたいなクソダサネーミングにされる心配はなさそうだね。
『昨夜の嵐が抜けた中山レース場、天候は晴れ。バ場状態は回復せず稍重。日差しと南風が持ち込んだ熱風と湿気により気温は跳ね上がり、観測史上稀の夏日となっております』
タイキシャトルをパドックへ向かう通路ギリギリまで送ったあと、桜を咲かす前に枯らしかねないほどの夏陽気に晒される観客席へと向かう。
一人で観客席に来たのは、初めてのことだ。
パドックでのアピールは上々、最新のデータでも◎がひとつ付いた。
国内での出走記録がシンザン記念一回ということを考えれば、充分な注目度だろう。
問題は、タイキシャトルは馴染みのないだろう今日の高温多湿な空気だ。
スプリングステークスでまずは日本の高速バ場でのレースに慣れさせて、段階的にゆっくりと日本の夏の蒸し暑さに慣らしていくつもりだったのが、ぶっつけ本番となってしまった。
生まれのケンタッキー州は確か、内陸のほうだったか。
現地の気候は知らないが、この高温多湿な空気にはおそらく不慣れだろう。
スプリングステークスを選んだのは失敗だったかもしれない。
例えば、ニュージーランドトロフィーだったらどうだったか?
NHKマイルへの優先出走権を取れるのは大きいが、他のウマ娘にとってもそれは同じことだ。
レート負けでの出走枠落選のリスクが高まる。
掛けられるだけの保険は掛けておきたい。
スプリングステークスの結果と他陣営の動きでニュージーランドトロフィーを挟むかどうかを考えられる。
タイキシャトルの走りを考えたら、コースの選択も間違いはない。
問題はない。
出来ることは全部出来た。
それなのに、虚勢を張ることもままならない自分に嫌気が差す。
タイキシャトルをパドックへと送り出した僕に出来ることは、何一つないというのに。
これから始まるレースの展開を分析して、次のレースに備えることしか出来ない。
それだって、このレースの次があることが前提だ。
どれだけコツコツと備えようが、台無しになるのは一瞬で、台無しになる時は、まるごと全てだ。
タイキシャトルが無事に好走することを祈るのもいいだろう。
祈ってどうにかなるなら、週3ペースでエルサレムに通ってやる。
実際には無意味で、何かあった時の備えもしていくしかない。
観客席で座っても、足元が落ち着かない。
目尻スレスレを汗が落ちたような感覚がする。
一人でレースを観るのは、こんなにも落ち着かないものだろうか。
『現在、3番人気はセブンスナナ。強気の先行策での真向勝負が持ち味です。ここで勝って、初重賞を得たいところです。2番人気はタイキシャトル。シンザン記念での出遅れからの前代未聞のペースでの巻き返しで捩じ伏せての大差勝ちが記憶に新しいウマ娘。今回はどのような走りをするのか注目です。一番人気はサクラバクシンオー。サイレンススズカを途中まで突き放していた朝日杯では最後に失速したものの、共同通信杯では圧倒的なペースで脇目も振らずに爆走しきっての圧勝により、マイル戦ならサイレンススズカよりも速いと期待されての一番人気となりました』
『スプリンターとしては芝1800mは遥か遠いゴール板を目指す旅路となる長い距離ですが、サクラバクシンオーの爆走が今回も炸裂するのか、要注目です』
サクラバクシンオーは1枠1番に、タイキシャトルは3枠4番に収まる。
今回は注目度の高いウマ娘のほとんどが真ん中より内枠に収まった形だ。
『各ウマ娘のゲートインが完了しました』
タイキシャトルはちゃんとゲート内で集中しているだろうか。
蒸し暑さにやられていないだろうか。
考えれば考えるほど、足元が落ち着かない。
タイキシャトルはスタート前に構えて、目を閉じている。
言いつけを守っているなら、たぶん大丈夫だ。
仕掛けるタイミング、必要な備えはだいたい教えた。
何事もなければタイキシャトルが勝てるレースだ。
自分は勝ちを信じて、落ち着いて座っていればいい。
それなのに、ただ座って落ち着いてレースを観ていることが出来ない。
想定との誤差があっても、埋められる地力があることは信じているハズなのに。
控え室に置いているリュックを持ってきて、抱えておけばよかったかもしれない。
一人で担当のレースを観るのは、ここまで不安になるものなのか。
ごちゃごちゃと考えている前で、ゲートが開く音がした。
あとはもう、信じて待つことしか出来ない。
『スプリングステークス、スタートです!』
ちょこっと書き直し。