逃がさないスズカと逃げるマヤと逃げられないトレーナー 作:エアジャガーる
「バクシィイイイイイインッ!!!」
叫びひとつ、周りが動揺した瞬間にサクラバクシンオーが飛び出す。
その後ろにタイキシャトルが追走していく形だ。
タイキシャトルは言われた通りに、目を閉じたままゲートが開く音を搔き消すほどのサクラバクシンオーの絶叫を聞いてスタートした。
中山の芝1800はスタート地点が坂の真っ只中。
ほとんどのウマ娘が出足でスピードが乗らない中でサクラバクシンオーは身軽に坂を駆け上がる。
「ホントに叫びながら走ってマスネ……」
サクラバクシンオー、一人だけ他より坂を駆け上がるペースが違う。
坂の真っ只中からスタートしたとは思えない加速力。
スタートダッシュから最高速まで一気に加速するパワーが桁外れだ。
事前にフユミが言っていた通りのロケットマシンだと、タイキシャトルは後ろを追いながら感心する。
「今日の1番人気、サクラバクシンオーというウマ娘を簡単に言うと、天然のドラッグレーサーだ。ゲートが開いた瞬間に飛び出す反射神経とたった半ハロンでトップスピードに持っていく加速力が共存した文字通りのロケットマシンというわけだ」
フユミの言う通り、稍重の坂をまるで意に介さずに逃げるサクラバクシンオーが、さっそく1コーナーへと入っていく。
外から上がってきた他のウマ娘がタイキシャトルの横に並び、後ろにも続いてくる。
前にはあまり出てこないのが、タイキシャトルには少しだけ妙に感じたが、今は気にしないで走る。
仕掛ける目安のポイントは既に決めてある。
そこまではあくまでも、サクラバクシンオーに引き離されないように付いていくだけに留める。
ここでペースを乱して末脚が鈍ると、サクラバクシンオーを差しに行く他のウマ娘に巻き込みで差されることになる。
ここでの我慢は、普段から慣れている。
勝負をするのは3コーナー前、そこから一気に仕掛ける!
『先頭はサクラバクシンオー!スタートの坂を力強く登り、1コーナーへと入る。2番手のタイキシャトルを先頭とした中団とは5バ身差。タイキシャトルの横に並んで、セブンスナナ。後ろ、レンアンドシックス。内からセカンドサンライズ。その外後方、ギガントオクトパス。続いてジャブローウィンド。内、ナンバーナイン。ジェイイレブンが続く。その外、ファイブスター。内からアイフォーミュラが行く!』
1コーナーから2コーナーへのシェイクダウン。
2コーナー入り口でやや減速しながら下り坂にサクラバクシンオーが突っ込む。
この間だけ、サクラバクシンオーと後続の間は3バ身差まで縮むが、スタンド向こう正面のストレートの平坦な道に入ったサクラバクシンオーが、再び加速を始めたことで、徐々にリードが開いていく。
タイキシャトルはそれを見つつも、サクラバクシンオーに引っ張られないようにペースを守る。
横にいたウマ娘はサクラバクシンオーを追って、タイキシャトルの外を回り下り坂を攻め込む。
『向こう正面に入ってサクラバクシンオーがストレートを駆け抜ける。後ろのタイキシャトルは、追わない!その外からセブンスナナが前に出てサクラバクシンオーに追走!レンアンドシックスも続く!タイキシャトルは尚、追いません!シンザン記念から打って変わってのマイペースな走りをしているが、既にサクラバクシンオーは7バ身ほど前を行く!』
「やっぱりバクシンオーはえぇ!」
「2コーナーもぶっちぎりだ!弥生賞のスズカより速いんじゃねぇか!?」
「見ろよ!二番手に付けてるタイキシャトルが置き去りだ!あれでスズカより速いとかやっぱフカシだろ!」
「ナナが前に行ったぞ!タイキシャトルを見切ったな!」
タイキシャトルは向こう正面のストレートを、ペースを上げることなく走る。
ともすれば凡走にも見える、のんびりとした走り方だ。
隣でタイキシャトルをマークしていたのだろうセブンスナナが、タイキシャトルより前に出てサクラバクシンオーを追いに行く。
ハイペースで逃げるサクラバクシンオーに、焦れたのだろう。
4着と5着の間に決定的な断絶のあった弥生賞は、他のウマ娘の脳裏に刻まれるに値するレースだった。
今期のクラシックはスピード勝負になる。
サイレンススズカが弥生賞で作ったイメージは、観客席とターフで然程の差異はないだろう。
だからこそ、先頭を爆走するサクラバクシンオーをどうしても無視できない。
サクラバクシンオーは、朝日杯で1400までならサイレンススズカを引き離していたのだから。
「レンロクもタイキシャトルの前に出た!向こうのストレートで詰めてコーナーでバクシンオーに仕掛けに行くつもりだ!」
タネを知っているフユミから観ても、タイキシャトルの走りは少しスローペースに感じるのだ。
きっと他のウマ娘にしたら、サイレンススズカと普段からやりあってることを踏まえても、今のタイキシャトルをマークするのは無謀に感じるだろう。
坂の先にあるゴール板まで、このペースのままでサクラバクシンオーが逃げることが出来たら?
その想像をすると、手で押さえている膝がカタカタ震えそうになる。
タイキシャトルは勝負処をちゃんと見据えて脚を溜めているというのに、トレーナーがこれでどうする。
有り得ないことに、怯えてどうする。
共同通信杯でのサクラバクシンオーの走りを動画で何度も確認した。
1200mから先のふらつきは、ほんの数ヶ月で解決出来る弱点じゃない。
コーナーで息を入れようとする時に、ぎこちなくペースがガタガタになる。
共同通信杯は他のウマ娘がスローなペースで進んでいたのもあって、4コーナーからのストレートでの立ち上がりで突き放して勝ったが、他のウマ娘からハイペースで後ろから突き上げられる今回のレースは、そう容易く逃げ切れないハズだ。
「間違えるなよ……勝負のタイミングは3コーナーを入るところだ……!」
口に出してみたところで、仕切りの向こう、ターフにいるタイキシャトルには届く訳がない。
それなのに、わざわざ口に出して何をしているんだ。
「柵の向こうにいるトレーナーより、前を走る遥かに遠くの背中のほうが信じられる」
思い出して、背筋が凍る。
膝が震えて地に脚付かないのを、なんとか身体を前屈みにして、手を組んだ肘で膝を押さえ付けてなんとか踏ん張る。
端から歪む視界の中央に、タイキシャトルの姿を観る。
組んでいる両手で口許を隠して、荒れている息を隠す。
勝てると思って送り出したのは僕だろうが。
走るどころかターフの外で観ているだけの僕が怯えてどうする。
トレーナーとして、失格だ。
こんな情けない姿を、見られてはいけない。
担当の勝ちを信じていないようなトレーナーが、ウマ娘に信じてもらえる訳がない。
僅かな吐き気を咳払いで誤魔化して、ターフを見る。
サクラバクシンオーに先行させたことで、タイキシャトルへのマークは上手く外れた。
ただ、タイキシャトルの隣にセカンドサンライズがまだ残っている。
あとは向こう正面にいるタイキシャトルが自分でちゃんと読み切って、ここぞというタイミングでマークをかわして差しに行くのを願うしかない。
担当を送り出したあとのトレーナーというのは、本当に無力だ。
噛み締める歯が、ギリ、と鳴る。