逃がさないスズカと逃げるマヤと逃げられないトレーナー 作:エアジャガーる
「…………はぁ……」
夕食後に部屋の扉を閉めて、鍵を掛けた瞬間に扉に凭れて座り込む。
慣れないことはしないに限るが、やらなければいけない以上はやるしかない。
レース前日はとことん疲れを抜くことに専念するから、それで日数が1日減る。
それでもまだ、あと2日はこの調子でやらないといけないことに気が遠退く。
気が遠退くが、たった2日しか猶予がない以上は気が遠退くような暇はない。
昨日までのショッピングモールまでマヤノトップガン達の靴を買いに行って予定通りの出費に溜め息を吐いたり、フードコートでタイキシャトルが「このステーキ、スモール過ぎマス……」とショボくれたり、サイレンススズカが人混みに疲れた顔をしていたのを休ませたり、バタバタとしつつも賑やかな1日を過ごして、少しは息抜きをした昨日まではよかった。
具体的には大阪杯4日前の朝、具体的には今朝のことだ。
見たことのない番号からのコールに訝しみながら出たのが失敗だった。
『あの……ゴールドシチーです。今、阪神レース場まで来たんだけど……いい、ですか?』
呼び出された阪神レース場の関係者入り口に大きなカバン1つで来たゴールドシチーは、出会い頭に頭を下げてきた。
「この間は無神経なこと言って……ごめんなさい!」
ゴールドシチーは首がもげてそのまま地面に叩き付けられるんじゃないかという勢いで頭を下げてきた。
あのチームルームでの一件のことだろう。
正直に言えば、ちょっと驚いた。
「いや、別にいい。大方、たづなさん辺りが既にこっぴどく怒ったんだろう?それでいいよ」
同じことで何人から何度も怒られるのは嫌なものだ。
一度の失敗は一度の叱責があればいい。
そんなことよりも、モデル業が忙しいだろうゴールドシチーがどうしてこんなタイミングで阪神レース場まで来れたのだろう。
「ところで、本業が忙しいだろうに、ここに来てていいのか?」
「っ……大阪杯の翌日までの予定、全部マネジに空けてもらったから」
一瞬だけ歯噛みしたように見えたゴールドシチーが、肩の力を抜いて息を吐いた。
よくゴールドシチーの手を見れば、握り締めたシワのあるそれなりの厚さの封筒がある。
胸に手を置いて、逡巡して、こちらに目をまっすぐ向けてきた。
「厚かましいって思われるのはわかってる。けど、アタシには他に頼るアテがないから……」
目付きが変わった。
これはマズい。
これはよろしくない。
「お願い、アタシをガチで……潰すつもりで鍛えてほしい。大阪杯で過去最高のアタシにしてほしい」
「無茶を言うな。大阪杯までは一週間もない。潰すつもりで、ってそれでホントに潰れられたら困る。僕がそこまでする謂れもない。そもそも大阪杯当日に走る気になったら来ればいいとは言ったが、大阪杯の前に来たら君のトレーニングを見るなんて言った覚えはないし、それをなんだって」
「そう。これは全部、アタシのワガママ。迷惑なのはわかってる。でも、今のアタシにはこれしかない!大阪杯、獲らない訳にはいかないの!お願い……します!」
頭を下げる寸前に見えたゴールドシチーの目で、嫌なものを思い出した。
よくない目付きだ。
今だから気付ける、担当にさせたらいけない目だ。
あの当時に気付いていたら、そう思った気持ちを踏みつけて蓋をする。
後悔したところで、時計は逆に回りはしない。
「……ゴールドシチー、僕が断ったらどうせ自主練で自分を追い込むだけだろう?」
「………………はい」
はいじゃないが。
まぁ、否定しないか。
そりゃあ、そうだろうなと思う。
誤魔化されるよりは、いくらかマシだろうか。
そんなウマ娘をほっといたらどうなるか、既に一度は痛い目に遭っている。
どっちにしても今、彼女を理由にしてこの阪神にいる以上、彼女に何かあったらこちらが困ることになる。
たぶん、本人はそんなこと頭にないんだろうが。
「その封筒は?」
「アタシのトレーナーから預かってきた……アンタに渡せ、って」
封筒を預かり、中の必要だろう書類と便箋を見る。
病気の重さを感じさせない、しっかりとした字で書かれた文章を読んでいく。
どうやら、ゴールドシチーを相当に気に掛けていたらしい。
便箋にして4枚にも及ぶ文章は、その文量でも相当に簡潔にまとめられていることを察するほど、今のゴールドシチーの状態を推察したものと、それに対しての憂慮、自身が健在であれば出来ただろうがそうではないが故に対処を委ねるしかないこと、その上での丁寧な文面での懇願とこのような形での懇願をする失礼を詫びた文章が書かれている。
自身が大阪杯の終わったあとの月末に退職することが決まったこと。
ゴールドシチーの担当を引き継ぐ相手を自分で探して頼む間もなく病院から出られなくなった事情。
大阪杯出走の手続きを代行したことへの謝意。
そのまま惰性で担当を引き受けざるを得ないようなことだけはないようにたづなさんに釘を刺したこと。
結果や状況や本人の適性だけを見るなら、惰性でもなければ引き受けることはないだろうこと。
本人にも大阪杯で結果を残さなければ、間違いなく次のトレーナーが不在で引退になるだろうことを諭したこと。
ゴールドシチーが自分をとことん追い込んでまで、大阪杯に挑む意思があること。
そこまでしてようやく手が届くかどうかだろうこと。
それでも、ゴールドシチーを諦めさせられないこと。
エトセトラ、エトセトラ。
斜め読みして読み飛ばす、ということが出来ないくらいには、丁寧に書かれた文面にフユミは頭を抱えながらじっくりと30分ほどの時間をかけて読んでいく。
いっそこのまま文壇で発表したら、何かしらの賞を獲れそうな文章が続く。
読んだらもう目を背けられないだろうことはわかっていた文章を、改めて読み終えたフユミは、封筒に全てを入れ直して、ジャケットの内ポケットにしまう。
「……飯、風呂、寝る以外のことが出来なくなるくらい、君をとことん追い込む。自主練なんか絶対考えたり出来ないくらい追い込む。三途の川までの道筋をガイドブックに書けたりツアーガイドがやれるくらいには追い込む。そこまでの覚悟は?」
「あるつもり。アタシのトレーナーのキャリアが、アタシの不甲斐ない成績で終わるなんて、アタシが一番許せないから。」
これで断れるタチなら、どれだけ楽だっただろうか。
自分が仮にもトレーナーで、こうして頼み込まれて、首を横に振れない自分に嫌気が差す。
サイレンススズカの時から、いや、もっと前からずっとこうだ。
呆れるほど成長のない自分が嫌になる。
次の転職先はウマ娘のいない深海で貝をやりたいが、今はここでトレーナーをやっているのだ。
やらなければならないことは、いくらでもある。
あの時に足りなかったものが、今なら少しはあると思いたい。
「……わかった……付いて来なさい。死ぬ気でやれ、なんて言わない。死んでもらうから」
初日はゴールドシチーをとことん追い込んだ。
ゴールドシチーの合流に不満げなマヤノトップガンが途中から血相を変えてゴールドシチーに同情するくらいには追い込んだ。
タイキシャトルに怯えられたのは困るが、必要なことだと理解してもらおう。
サイレンススズカは最初こそ戸惑っていたが、シニアクラスの差し脚に追われたのがスイッチになったのかすぐにゴールドシチー相手に容赦なく大逃げをかますようになったので問題はない。
あとは疲労を鑑みて調整していく。
一番マズいのは、身体の限界に精神が気付かないことだ。
そのために、自分の限界がちゃんと自覚出来る形での追い込みかたをしなければならない。
購買で買ったのど飴を出して舐める。
叫んだり追い立てたりするこちらが先にダウンしてどうする。
僕の姿はゴールドシチーからは「ウマ娘を地獄に突き落とす鬼トレーナー」に見えてなければならない。
このくらいで喉を枯らしていては、面目丸潰れだ。
ゴールドシチーより先に膝を折ることはあってはならない。
嫌いなほうに入る柑橘類の味に耐えながら、のど飴を舐める。
吐き捨てたいくらいだが、今はこれが必要だ。