逃がさないスズカと逃げるマヤと逃げられないトレーナー   作:エアジャガーる

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エーテル色のターフで

「ぅっ……くぅ…………ぶっ、うっ……」

 

 朝からもう何十回とゴール板の前を抜け、スタート地点に戻る途中。

ゴールドシチーが口許を手で抑えて、足がふらつく。

ぐたりと崩れそうになった瞬間にフユミが抱き止めて、口を開いたエチケット袋をゴールドシチーに持たせる。

ゆっくりとターフに膝を突かせ、踞ったゴールドシチーが口に当てたエチケット袋の中に苦しげな嗚咽と自分でも聞くに堪えないだろう水音を漏らしていく。

落ち着いたところで息を切らして、肩を揺するゴールドシチーが目線を上げたところに、フユミが突き出したペットボトルの水を恨めしく受け取る。

蓋をもぎ取るように外して、上を向いたゴールドシチーが口の中に落とすように水を流し込んでいく。

 

「ちゃんと、喉の奥までうがいしろ。半端にすると喉焼けを起こす」

 

「んぐっ!んっ!ぶはっ!……はぁ…………はぁ…………言われなくても…………うっ」

 

 うがいをした水を、手元のエチケット袋に吐き捨て顔を上げようとしたゴールドシチーがまたエチケット袋に口を押し付け踞る。

 

「トレーナーちゃん!もう!」

 

「……もう……なに?」

 

「ひぅっ!」

 

 マヤノトップガンがフユミを止めようとしたところを、汗だくで乱れた金色の髪の奥から鳶色の目が睨む。

怯えて何も言い出せなくなったマヤノトップガンが3歩ほど下がったあと、ゴールドシチーは残りの水を乱暴に飲み干してよろよろと立ち上がる。

 

「……限界、かな」

 

「やめる?」

 

「やめない……限界くらいでやめてたら……勝てないから」

 

「わかった。これ、飲んでから走れ。スズカもだ」

 

 朝から用意していてすっかり温くなったスポーツドリンクを、フユミはゴールドシチーとサイレンススズカに渡す。

ずっと付き合っているサイレンススズカも、さすがに戸惑いが隠せなくなってきた。

 

「……どうして、そこまで?」

 

 何度も何度も、少なくとも合わせて100バ身は差を付けてひたすら負かし続けた。

そこから先は数えてすらいない。

走っているゴールドシチーの横顔を、サイレンススズカは一度も見てはいないのだ。

正直に言えば、一人で走っているのとあまり変わらない。

たまにタイキシャトルが仕掛けてきた時に思いっきり逃げたり、油断してあまりペースを落とすと後ろから足音が迫ってきたりしてはいるから、刺激がないとは言わないが。

 

「……自分のトレーナーが引退する。そんな時に最後の担当がアタシみたいな、レースでまるで勝てない見た目だけの人形だったなんて……そんなの許せる?」

 

 ゴールドシチーからエチケット袋と空のペットボトルを預かったフユミがマヤノトップガンを連れて離れたのを見計らって、スタート地点へと歩きながらゴールドシチーはサイレンススズカに答える。

その声は小さく、イヤーキャップが欠かせないほど耳がいいサイレンススズカだからこそ聴こえた呟きで、ゴールドシチー本人もきっとサイレンススズカに答えたつもりはない。

 

 だからこそ、サイレンススズカは聞かなかったことにした。

同情しそうになった気持ちを、心の底に押し込んで目を逸らす。

無意識に手加減してしまっても、おもいっきり頑張っても、きっとトレーナーさんは「スズカはもう休むように」と言うハズだ。

だからこそ、ずっと同じペースで走り続けた。

 

 今のトレーナーさんとゴールドシチーを2人にしたらいけない気がする。

 

 それにもうきっと、ゴールドシチーの身体は限界だ。

これ以上はきっと、年末に倒れたエアグルーヴよりも悲惨なことになりかねない。

それなのに、トレーナーさんはまだゴールドシチーを追い込むつもりだ。

トレーナーさんはゴールドシチーに何を求めて、ここまで追い込んでいるのかわからない。

ただ、このまま続けていてもゴールドシチーの身体が先に悲鳴を上げるだろう。

 

 ゴールドシチーを休ませるためにはどうするか?

ペースを落としてゴールドシチーに追い抜かさせて最初のトレーナーさんの言葉通りに休憩させる?

これはダメだ。

わざとペースを落とせば、ほんのコンマ数秒でもトレーナーさんは気付くだろうし、手加減されたゴールドシチーがどんな反応をするかも予想出来る。

何より、自分がわざとでも追い抜かれるのが嫌だ。

自分から進んで先頭を譲るなんて、出来ない。

 

 次の一周、それでケリを付けてゴールドシチーの心を折るしかない。

 

 

 

 

 

 

 

「まだ、走らせるんですか?」

 

「いや、そろそろ終わります。次の2000mが、彼女の答えでしょう」

 

 口を閉じたエチケット袋をごみ袋の中にしまうフユミが、サイレンススズカとゴールドシチーが走り出した足音でターフへと振り返る。

乙名史記者はいつものように、2人が走り出したタイミングでフユミから投げ渡されていたストップウォッチのスイッチを入れて、フユミに返しながら表情を見た。

いつものような胡散臭さがどこにもなく、疲労感と焦燥感が滲み出ている。

今までかなりの頻度で取材をしてきたが、今のフユミの表情は初めて見るものだ。

 

「……なんですか?」

 

「いえ、お疲れに見えたので」

 

「そうですか。僕も人の子だった、と記事に出来ますかね」

 

「記事に美談として書ける内に、お休みになられてはいかがでしょう?」

 

「次の併走で休めます。だから、大丈夫ですよ」

 

 いつもより言動に、ハリがない感じがある。

いつもなら隙あらば言ってもないことを言ったと深読みしそうな、わかりにくい言動をしてくるのに、今日のフユミの言動はあまりに分かりやす過ぎる。

それなのに行動はまるで意図がわからない。

担当ではないゴールドシチーが主体となった、異常なほどハードなトレーニングをしているフユミに、あまりにも「なぜ?」が多すぎる。

らしくない、というより、有り得ない。

 

「このあと、インタビューの時間が欲しいのですが……よろしいですか?」

 

「今日の予定が全部片付いたあと、外のファミレスでなら」


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