逃がさないスズカと逃げるマヤと逃げられないトレーナー 作:エアジャガーる
「……はぁ、こんなもんか」
ゴールドシチーを休ませている医務室を出て、フユミは痛みにひりつく親指を見る。
深くはないが、少しだけナイフで切ってしまった。
慣れているリンゴの皮剥きで指を切るとは、我ながら呆れるしかない。
ゴールドシチーをとことん追い込んで、意識を走ることにだけ向けさせることは出来た。
阪神JF以降のゴールドシチーの不振は言ってしまえば、『強いウマ娘であるゴールドシチー』を演じようとしたせいだと考えた。
もちろん、当たり運や枠運とかもあるが、あと一瞬でも早く動いていればと思えるシーンがないわけではなかった。
確証はもちろんない。
ただ、阪神で勝っていて、中山、府中、淀と勝ちきれなかった理由を考えるためにわざわざパトロールビデオを夜通しで見て絞れた理由のひとつが、一瞬の判断の遅れではないかと考えた。
考えて走ることが出来るほど、ゴールドシチーは器用じゃない。
本人に言ったら、たぶん怒るだろうなと思うから自分でそれに気付かせる必要がある。
そのために、朝からひたすら併走で追い込みに追い込んだ。
走るのに余計な思考をする余裕を無くすためには、そこまでやる必要を感じたのだ。
ゴールドシチーから余裕がなくなってきたタイミングで、サイレンススズカがトドメを刺しに来た時はさすがに焦った。
そこで完膚なきまでに叩き潰されたら、そこから先のことは考えたくもなかった。
結果的にジュニアでもGⅠを獲ったシニアクラスのウマ娘の底力は伊達じゃなかったらしく、思っていた以上にゴールドシチーは遥かに速く、3コーナーから一気に加速して4コーナーを完全に踏み切り立ち上がってサイレンススズカの隣にビタ付けで並び、下り坂のハードな重心移動を勢い任せで紙一重なバランス感覚で切り抜け、登り坂のパワー勝負に持ち込んでハナ差で差し切るとは思わなかった。
もっとも、その直後に限界を超えたゴールドシチーがついにふらついて横に倒れかけたのを追い掛けさせたタイキシャトルにキャッチさせていなければ危なかっただろうが。
自分はやはり、追い込みの掛け方が下手過ぎる。
手加減を考えてしまうと自主練が出来てしまう余裕を残してしまうし、手加減無しに追い込むと危うく事故が起きかける。
自分がトレーナーに向いていないことを痛感する。
今のゴールドシチーの太ももはきっと、筋繊維がかなりズタズタなハズだ。
筋肉痛と言えば聞こえがいいが、実際には過剰な運動による炎症だ。
回復まで甘い見通しでも72時間。
大阪杯まではもう、無理は出来ない。
脚でなんとかするのは、ここまでだ。
残りはアタマのほうでなんとかするしかない。
今回の大阪杯の出走リストを思い出すと、それだけで頭が痛くなるが、やれることが他にない以上は頭を使ってなんとかするしかない。
もうひとつの理由も読みが合っているなら、ゴールドシチーにほんの爪の先程度の勝ち目くらいはあるかもしれない。
そのためにも自分が頭を使う程度で可能性が増えるなら、安いものだろう。
ここで頭を使わずに、何がトレーナーだ。
考えて道筋を出すくらい出来なくて、なんの意味がある。
出走リストで一番ひどい頭痛の種は3枠にいるビワハヤヒデだ。
他のウマ娘と違って、ビワハヤヒデにだけはゴールドシチーの数少ないアドバンテージが通じない。
ナリタブライアンが春の天皇賞のトライアルに先週の阪神大賞典を選んでいなかったら、もっと頭痛の種が増えていたことを考えればまだマシか。
トライアルに出る必要があったかは知らないが、そのおかげで頭痛の種がひとつ減っているのだ。
そこは素直に感謝しておこう。
今夜も、あまり眠れなさそうだが仕方ない。
図らずもサイレンススズカの桜花賞対策も、進むキッカケは得られた。
あとはサイレンススズカが初めて経験するだろうことを、早めに経験させて今のうちに慣れさせるかだ。
医務室からそれなりに離れて、廊下の角を曲がったところでゴールドシチーの着替えと自分の着替えを用意したのだろうタイキシャトルとマヤノトップガンの2人に鉢合わせた。
「トレーナーさん、シチーの具合は?」
「さっき起きた。落ち着いたら自分で風呂に向かうと思うが、どうせだから迎えに行ってやってほしい」
「オーケー、マヤ。着替えをダツイジョに置いたら行きマショウ!」
「うん……ねぇ、トレーナーちゃん」
着替えをくるんだのだろうタオルを抱き締めるマヤノトップガンが浮かない顔をしている。
この2日、少し怖い思いをさせたかもしれない。
必要なことだったが、本来なら必要なかったことだ。
自分の担当は誰だ?
言ってしまえば他所から預かっているウマ娘であるゴールドシチーを優先して、自分の担当をないがしろにしているのが今の自分だ。
情けなさすぎるし、有り得ない。
トレーナーとして、というより大人としても失格だ。
「ごめんな、マヤ。怖かっただろ?」
マヤノトップガンの頭を撫でると、首を横に振る。
いけない、完全に怯えさせている。
トレーナーとして本当にあるまじき失態だ。
頭から手を離した瞬間に、マヤノトップガンが走って行ってしまった。
「オゥッ!マヤ!?トレーナーさん!」
「ごめん、マヤとゴールドシチーを頼む」
「ハイッ!」
マヤノトップガンを追い掛けて走るタイキシャトルを送り出して、自分の部屋へと向かう。
自分の無能さに、頭がふらつくような気分だ。
階段を二階分上がるのにすら、息が上がる。
部屋の扉を開けて、靴を脱いで畳の上に這うように上がり、座布団の上に頭を置いて横になる。
やることも考えることも山積みだが、今は頭も身体も動かしたくない。
やらなければいけないことだからこうしてはいられないのだが、身体が動いてくれない。
乙名史記者とのインタビューの約束は夜になってからだ。
今はまだ、少しだけ横になりたい。
畳の浜辺に、座礁していたい。