逃がさないスズカと逃げるマヤと逃げられないトレーナー 作:エアジャガーる
「アンタはもう出ていき!好き勝手走っとれ!」
「言われんでもアタシは好きに走っとるわ!」
爺と姉がもう何度目かになる喧嘩別れを始めている。
本人達よりも見たかもしれない最後の光景だ。
当時の僕には出来ることは何もなかった。
今の僕に出来ることも何もないのだけど。
「待てよ!なんでアネキが出ていく必要があるんだよ!」
「じゃかぁしぃ!中央行けたかもしれんのをくだらんとこでフイにしたバカなんぞウチに置いとけんべや!」
「くだらん!?勝手言いよるわ!あたしゃ走りたいとこ走るだけじゃ!なんじゃ!?せせこましいトラックの中をくるくるアホみたいに回っとるんがそんな偉いんかぁ!?えぇ!?」
爺が青筋立てて怒鳴り散らすのを、姉が更にがなり立てる。
あの時の僕は、この2人をなんとか止められるかもと希望を残していた。
実際には何をしたって止められっこない、ということに気付いたのはあまりに遅かったし、気付いた頃には家が更地になっていた。
最後に残ったのは、他人の僕だけ。
「野道走ってケンカしてそのせせこましいトラックにすら入れんなったバカよりは遥かに偉いわ!こん、ボケナスがっ!出ていけ!二度とツラぁ見せんじゃねっぞ!」
「言われんでも出てくわアホンダラ!せいぜい往生しぃ!」
あぁ、まったく嫌なことを思い出す。
現実には跡形も残っていないのに、いつまでも頭の中には残っている。
まったくもって、嫌になる。
唯一の救いは、これが夢だと認識出来ることだけだ。
とっとと起きよう。
そう思っても、この夢が終わるまでは起きられない。
「……ーナーさん……トレーナーさん」
「……ん……?」
肩を軽く揺すられながら、風鈴のような声が聴こえてくる。
そもそも俯せで寝ていたハズなのに、仰向けになっている。
瞼の重たい目を開けてみると、服を着替えたのだろうサイレンススズカがこちらの顔を上から覗き込んでいる。
「起きましたか?」
「あぁ……何時だ?」
「5時を回ったところですよ」
起き上がって改めてサイレンススズカのほうを見る。
座布団の上にペタリと座り込んでいるサイレンススズカに、どういう状況になっていたのかを察する。
「寝落ち、していたか……」
「お風呂から出たら勉強、と言っていたのにずっとエントランスに来る様子がなかったので見に来たんです。そしたら部屋の扉が半開きのままで、中を見たら倒れて寝ていたので……」
「心配させたか。面倒をかけた」
まったく、我ながら呆れるしかない。
部屋の扉が半開きになっていたほど、後ろを気にしないでそのまま部屋に入って倒れ込みそのまま寝落ちして、さらにそれを担当に見られて不安にさせるとは、呆れるどころではないか。
「トレーナーさん」
猛省すべき点を列挙していると、サイレンススズカが膝を手でぽんぽんと叩く。
「もう少し、休んでください」
「僕が?どうして」
「その、疲れてるようですし……頬に畳の跡が残ってます」
頬を手で触ると、確かにデコボコとした跡が残っている。
これでは、心配かけるのも当たり前なら、だらしなさに呆れられるだろう。
「タイキ達は?」
「下で勉強してます。ゴールドシチーが2人を教えてくれてるので」
「……そうか。もう少ししたら行くから先にっ」
サイレンススズカに肩を引っ張られて、横倒しにされる。
起き上がろうとしたところを、サイレンススズカに上から止められる。
サイレンススズカの膝の上に寝かされて、肩を押さえ付けられては起き上がれない。
「休んでください」
「いや、スズカ。脚……」
「嫌ですか?」
「……答えにくい質問をするね」
「こうでもしないと、話す機会……無さそうなので」
そういえばサイレンススズカと2人きりのタイミングはあまりない。
なにか、話したいことがあるのかもしれない。
それも、話題が山積みになるくらい。
「……ごめんなさい。最後の併走で、わざと全力で走りました」
サイレンススズカが落ち込んだような表情で、最後の併走の時のハイペースを謝ってきた。
落ち込む理由もなんとなく想像出来る。
「……だろうとは思った。でも、なんでそれを謝る?」
「私を限界以上のペースで追ってきたゴールドシチーが倒れました……トレーナーさんは本当は倒れるほど追い込む気がなかったのを、私がトドメを刺したんじゃないかって……」
「別にいい。倒れる前にタイキに助けさせたから問題ないよ。それにあれだけ消耗していたゴールドシチーでも、限界以上のペースで走れば君の本気の逃げも差し切りに来ることが出来る。この意味がわかるか?」
見上げているサイレンススズカの頬に手を伸ばして、指先で撫でる。
サイレンススズカの肌が、指先にさらさらと気持ちいい。
「……ゴールドシチーが万全なら、私は逃げ切れない……?」
「なおかつ死力で追ってきたら、な。初めてだっただろう?自分を鬼気迫る表情で追ってくる相手に並ばれたのは」
「……はい」
「怖かった?」
「……少し」
「桜花賞、そこでダイワスカーレットがきっと死に物狂いで追ってくるハズだ」
「スカーレットが……?」
「桜花賞での挑戦状を叩き付けてきたのは、他ならぬダイワスカーレット本人だ。負けたら死ぬくらいの覚悟はしてるだろうな」
サイレンススズカが伏し目がちに目を逸らした。
肩を押さえ付ける手が離れているので起き上がって、サイレンススズカの頭を撫でる。
「スズカ、桜花賞はきっと君が初めて後ろからの恐怖から逃げるレースになる。本当に全力、死力を尽くして逃げることになると思う。本当ならマヤが弥生賞で追い立てるものだと思っていたから、ここまで先送りになってしまったが……ゴールドシチーから感じたプレッシャーは間違いなく経験になったハズだ。あれを背にしても逃げ切る強さが必要だ」
「トレーナーさん、私は……スカーレットから逃げ切れますか?」