逃がさないスズカと逃げるマヤと逃げられないトレーナー 作:エアジャガーる
「……よくて紙一重、かもしれないな」
「……紙一重」
サイレンススズカが少し、ムッとした目でフユミを見る。
今日、最後の併走でゴールドシチーに差された苛立ちもあるのだろう。
サイレンススズカにこういった話をする時は、もう少し機嫌のいい時にするべきだろうが、この話をした時点でサイレンススズカの機嫌は間違いなく傾くので機嫌を気にしていては話が出来ない。
「相手は君の走りを弥生賞で直接観ていて、君を全力の死に物狂いで差しに来るんだ。間違いなく、4コーナーで君を捉えて差しに来るぞ」
「……わかりました。全力で逃げ切ります」
「慌てるな。この話はまだ前振りだ。なんのために桜花賞の二週間も前から仁川に来たと思う?」
結論まで最短距離を最速で突っ切ろうとするサイレンススズカをフユミは引き留める。
自分の逃げ足に自信が出てきたのはいいが、レベルを上げて物理で殴るみたいな解決法を選びがちなのは少しどうにかしたいところだ。
今のサイレンススズカはピカピカの最新式のアサルトライフルですらバレルを掴んで殴りかねない。
フユミから問われた質問に、サイレンススズカが少し考える。
「トレーナーさんが年度末年度始めのゴタゴタが嫌だから?」
「……確かに嫌だし、それもないとは言わないけど……」
府中はそろそろ新入生や転入生の受け入れでゴタゴタだ。
本格化の兆候が出て次年度のデビューが決まったウマ娘のトレーナー探しも始まる。
ダメ押しにファン感謝祭まであるのだから、その騒々しさは想像を絶するだろう。
今の時期のトレセン学園は戦場と化しているに決まっている。
確かに今の府中には近寄りたくないが、それは主題ではない。
「ゴールドシチーの大阪杯の出走手続き」
「それは口実。結果的に仕事を必要以上に増やしてしまったけどな」
フユミは最初の目算では、ゴールドシチーは大阪杯には七割がたは来ないと思っていた。
もし、気が向いたとしても実際に来る勇気はないと思っていた。
クラシック三冠レースを勝ちきれず、ぼんやりと観ていた有馬記念にもいちおう出ていたらしく後から見返したが、シンボリルドルフへのマークに巻き込まれて抜け出すタイミングを見出だせずにグダグダと走って沈んでいた。
あれでもうケリは付いただろう。
そんな状態から、ゴールドシチーはここに来た。
てっきり最初は最後のレースを、唯一獲ったGⅠレースと同じ開催地であるここで走りたくなったのかと思った。
何があったのか詳しくは知らないが、ゴールドシチーは勝つ決意をして仁川に来た。
フユミにとっては、そんなゴールドシチーも想定外なら、そのトレーナーが面識もないフユミにゴールドシチーを託すことも想定外だった。
結果として、少々のハードワークで寝落ちした姿を見られて心配をかける無体をしているのだが。
「スズカ。昨日から仁川をかなり走り込んだことだし、年末に走った時からの感覚のズレはかなり直せたと思うが……どうだ?」
「最初は年末に走った時とは少し違う感覚がして戸惑いましたけど……でも、前より思いっきり走れるようになった気がします」
今のサイレンススズカの走りは、朝日杯の時とはかなり違っている。
フォームこそほとんど変わらないが、足の運び方や踏み込み、身体の重心移動をとことん見直すように仕向けただけでモノにしてしまった。
見た目ではマヤノトップガンすら見ただけでは模倣しきれないほど細かいところでだが、その誤差はかなり大きなものになっているハズだ。
速く走ることに関しては、サイレンススズカは本当に驚くほどカンがいい。
だからこそ、この仁川に早く来た意味がある。
桜花賞までに、サイレンススズカにしてやれることはまだまだある。
自分の実力不足を嘆いていられる時間は、どこにもない。
「よし、それなら次の段階に進めるな。ダイワスカーレットとの勝負は、それ次第といったところだ」
「……ふむ。これが、桜花賞のポスター……」
広報部が作った桜花賞のポスターは三種類。
机の上に並べてみて、改めて感傷に浸らずにはいられない。
最初のポスターは黒をバックにサムズアップしたウオッカの写真。
本人がリクエストしたらしく、今までの桜花賞のポスターからかなり異色なものになっている。
わざわざ桜花賞の文字を白抜きの筆文字にしているこだわりは、意欲的だろう。
二枚目のポスターはダイワスカーレットがこちらに人差し指を立てて向けている写真。
薄い黄緑を背景に花弁を舞わせているこちらも、正統派のポスターを望んだダイワスカーレットの希望に沿ったものと聞いている。
問題は、三枚目のポスターだ。
本人からの要望はなく、あとでターフを走らせてくれたらなんでもいいと済ませた彼女の魅力を、広報部がどうやって引き出すか考えた末のポスターがこれだ。
「240ヤードの挑戦」
コピーライターは彼女の担当トレーナーに負けじと、意味深で挑発的なキャッチフレーズを考えたものだ。
『わかる人にわかればいい』というかのトレーナーの口癖に広報部も乗っかったのだろう。
実にそれらしい遠回しな挑発で、本人が言いそうだと思える一文だ。
目線だけこちらに向けている彼女の冷たさすら感じる姿に、この挑発文だけが添えられているのが実にそれらしい。
サウジの時に、彼女がこの短い間にここまで来ることは想像していなかった。
今や彼女は、同世代デビューの全員を蹴散らし最強の座を手にしようとしている。
まだ、次走が桜花賞にも拘わらず、だ。
彼女の才気か、彼の辣腕か、どちらによるものか判断は付かないが、彼女は間違いなくこの中央トレセン学園における目標の体現者になりつつある。
壁に掲げたスクールモットーを見る。
今まで、自分こそがこの言葉に一番近付いたと自負していた。
その自分をもってしても、こうまでは言われなかった。
自分の脚を、そっと触る。
私はまだ、走れるか?
自問自答とはつまるところ、自己暗示と同じだ。
自らへの自信を疑い怯懦するか、自らの実力から乖離した過信をするか、このどちらかしかない。
わかっていながらも、油断すると問うてしまうことに苦笑する。
有馬記念の敗北は、偶然ではない。
最後の一足が出せなかった。
だが、あれが今の自分の限界だなどとは思うまい。
Eclipse first, the rest nowhere.
“彼女”はまだ240ヤード先にいる。
私は“彼女”に少しでも近付けているのだろうか。
“彼女”に辿り着くのは自分ではないのか。
自分よりも先を行き、“彼女”に迫る者が他にいるのか。
生徒会室で、シンボリルドルフは決意する。
彼女はきっと、夏の阪神に来る。
そこで、彼女との対決を望みたい。
プライドもあるが、それ以上に衝動が沸き立つ。
間違いなく増えた、新たなる好敵手との対決を待望してしまう。
自分とサイレンススズカ、どちらが速いか。
確かめずにはいられない。
久しぶりに、走りたくてたまらない。
頂点までの240ヤードの道を後進に易々と譲り渡すには、私はまだ若過ぎる。