逃がさないスズカと逃げるマヤと逃げられないトレーナー 作:エアジャガーる
「担当がターフの中に入ってしまえば、あとはレースが終わるまで僕には何も出来ません。ゴール板に辿り着くまで勝利を祈るのも仕事、だなんて僕は思えません。祈ってなんになる。祈って勝てるなら観客席に祈祷師でも並べて棒に白い紙くっつけた奴を振り回させますよ」
マチカネフクキタルでも言わないだろうムチャクチャだ。
いや、マチカネフクキタルならやりかねない。
そして担当トレーナーに口八丁手八丁で退かされるのだろう。
「トレーナーとウマ娘は一心同体、なんて言いますが……ターフの此方から彼方までの間は、ニ階のバルコニーと外の石畳くらい遠いものです。勝利に焦る担当を宥めてやることも出来ないんですから」
だいたいのトレーナーがそうだろう。
トレーナーとウマ娘の関係を絶対的に隔てる境界線だ。
それを踏み越えられたトレーナーはいない。
この事実を嘆いたところで、どうにかなったトレーナーはいないのだ。
それを嘆くということは、逆説的にどうにかなっていたことがあるということ。
例えば、無線なり持ち込める公道のラリーレース。
乙名史記者にとっては専門外だが、ターフの外の感覚ではこの境界線が異常なのかもしれない。
もちろん、単にフユミトレーナーが過保護で心配性なだけというオチもあるだろう。
しかし、それだけだと切るには編集部がいろいろと見つけてしまっている。
テーブルに置いている取材のメモ用のボイスレコーダーを、わかるように録音を止めながら、乙名史記者は尋ねる。
「フユミトレーナー、オフレコで……少し、訊いてもいいですか?答えたくなかったら、答えなくて構いません」
「……どうぞ」
少し身構えたフユミトレーナーが返事をする。
きっと、答えてはくれないのだろうが、反応を見ておきたい。
「他のトレーナーがターフの内と外の隔たりを語ることはあまり聞いたことがありません。もちろん、フユミトレーナーからしたら受け入れがたい理由ではあるでしょうがそれが信頼とするトレーナーもいますが、ある意味でそこの隔たりは当然なことだから、というのが大きいでしょう。ですが、フユミトレーナーはその隔たりを大きく感じている。その理由は、かつてはその隔たりを感じることのないところにいたから。例えばですが、あなたはトレセン学園に来る前から、どこかでウマ娘を走らせていたことがありませんか?」
「……昔話は長くなりがちな割につまらないものですから、今はやめましょう。面白いことは、なにもないですよ」
遠回しな回答拒否。
この話をするには、まだ立場が遠い。
同時に、今はまだ早いと時期を示してきた。
いつかは話せる日が来るだろうけど今は話せない、ということだろう。
乙名史記者は頷いてから、ボイスレコーダーの電源を入れ直す。
話題を変えよう。
「次は桜花賞の話です。夕方に公式からポスターの画像が上がったのですが、ご覧になりました?」
タブレットを出してURA公式のウマッターで出された画像を出す。
サイレンススズカがこちらを目だけ向けて見下ろしている写真に挑発的とも取れるキャッチコピーが添えられている。
自分のこだわりのありありと盛られていそうなウオッカのポスターより、よほど捻ったポスターに思えるものだ。
「メールでサンプル画像は届いてました。僕が見たのもタブレットでの画像なので、ポスターに実際に刷られた出来栄えはまだ見ていませんが、ファンの皆さんの目を引けるポスターなのではないかと思います」
「240ヤードの挑戦、という意味深なキャッチコピーが添えられていますが、こちらはフユミトレーナーの提案ですか?」
「いや、広報部の担当の人が考えた3つくらいの候補からひとつ選んでくれとのことで、一番シンプルなものにしました」
「ポスターのサイレンススズカさんを見ての印象は?」
「そう、ですね……」
それを訊かれたフユミトレーナーはテーブルの上にスタンドで立てたタブレットの画面に出したポスターの画像をじっと見る。
サイレンススズカの姿を改めて見るのだろう。
ポスターの画像を見たまま、ぴくりとも動かない。
インタビューの最中ということを忘れていないだろうか?
「……あの、フユミトレーナー?」
「…………あ、あぁ……失礼。写真越しだと、やっぱり違いますね。広報部の仕事は凄いな、と。このポスターが口先だけのものにならないようにしたいな、と思います」
表情を改めたフユミトレーナーがニコリと笑ってから答えるが、ボイスレコーダーで録音出来ていない程度の小さな声で画像を見ながらポツリと呟いた言葉が本心なのだろう。
それを指摘したら、フユミトレーナーはきっと誤魔化すだろうから触れないでおく。
「今回の桜花賞の見どころなどはありますか?」
「そうですね……4コーナーの立ち上がりからゴール板までがどうなるかわからないので、見るとしたらそこですかね」
かなり広い範囲を示してきた。
ポスターの挑発文通りなら、その頃には決着が付いているだろう。
フユミトレーナーの予想では、そうはならないだろうし、そうはさせないだろうウマ娘がいるのだ。
フユミトレーナーは間違いなく、誰かを警戒している。
ウオッカか、ダイワスカーレットか、はたまた別のウマ娘か。
「ところで、このインタビューはタイミング的に次の号に掲載するのは間に合わないと思うが、どうなんだろうか?」
月刊トゥインクル次号の発売は春の天皇賞前、確かに桜花賞や皐月賞には間に合わない。
フユミトレーナーはそのことに気付いたらしい。
「このインタビュー、多くの部分は桜花賞と皐月賞のあとの記事に使う予定なんです」
「……と、いうと?」
「桜花賞と皐月賞のあとの、振り返り記事の中で使っていくつもりです。もちろんウェブの速報版にも使いますが」
「……なるほど、これで負けたらとんだ赤っ恥ですね」
フユミトレーナーは改めて苦笑する。
この苦笑は、単なる恥ずかしさだ。
苦笑出来る余裕はあるらしい。
昼間の様子では、ここで苦笑出来る余裕は見受けられなかった。
やはり、ゴールドシチーの追い込みはかなりの負担になっていたらしい。
「苦笑する余裕、出来たようですね」
「余裕、ですか?」
「昼間は余裕がないように見受けられましたので」
心当たりはあるのだろう。
フユミトレーナーは少し困り顔で、考えたあとに切り出してきた。
「ゴールドシチーが僕にトレーニングを頼んできた時、以前のことを思い出して……同じ轍は踏むまい、と気を張ってはいました」
「同じ轍、ですか」
「1人、同じ目をしてた子のことを気付けずに怪我させてしまったので……その怪我が元で彼女は中央から去りました。恥ずべき失態です。本当なら僕は、中央に相応しくない至らぬ人間です」
「至らぬ人間、が重賞6つ……そのうち2つはジュニアGⅠを獲ったチームを率いるとは思えませんが」
肩入れが過ぎる気はしたが、昼間に無理に声を張り上げていたフユミトレーナーが慣れないことをしているのは傍目にわかるほどだった。
担当に言えないこともあるだろう。
少しは本音を吐露しないだろうか、その意図は通らずフユミトレーナーはいつもの言葉で返してくる。
主義主張は文面でなら同意出来るのに、彼の言葉となるとどうにも懐疑的になってしまうのはきっと、否定のための言葉だからだろう。
そこにある価値観のズレが、どうしても埋まらない。
「その勝利を獲ったのは僕ではありません。彼女達です」
ボーノってハルキと同じくらいでかいのか……