逃がさないスズカと逃げるマヤと逃げられないトレーナー 作:エアジャガーる
春のシニア三冠レースの一冠目、といっても春にシニアクラスの芝のGⅠレースが3つ揃ったのがごく最近のことになる。
どのくらい最近かって?春シニア三冠を達成したウマ娘が未実装どころか現実で春古馬三冠達成した馬がいないし、そもそも育成レースの目標の大阪杯が実は全員GⅡの「産経大阪杯」の置き換えというくらい。
実装済みキャラでGⅠの大阪杯を勝ったの、サポ込みでもキタサンブラックだけなんだよね……
コースはゴール板から300mほど後ろからスタートする内回り。
挨拶代わりの仁川の坂から始まって1コーナーから2コーナーの短いスパンで曲がり、向こう正面の平坦なロングストレートを抜けると角のキツい内回り3コーナーへと入りそこからなだらかに下りながら少し長めの流しっぱなし緩やかな弧を描く道なりストレートを抜けてタイトな4コーナーを曲がると外回りの時よりすぐ手前で仁川の坂が再び牙を剥く……なんでどこもかしこもホームストレッチにエグい登り坂を置くんですか?
『3月31日、大阪杯!春のシニアクラス三冠戦線が本日、幕開けとなります!』
「今回はやっぱハヤヒデだろうなぁ」
「いやぁ、ライアンだって今回はやれそうだぞ!」
「今度こそターボ師匠が爆逃げかましてくれるさ!」
口々に自分の読みや推しを話しながら観客が阪神レース場に入っていく。
春シニアGⅠ三冠レースの第一弾だけあって、前週の中京よりも人出が多い。
桜がまだ咲かぬ阪神レース場、大阪杯当日の天候は一週間続いた晴れそのもの。
芝もカラカラの良バ場、紛れる要素無し。
パドックでは、次々に姿を現す強豪達に沸き立っていた。
「ブライアンが先週勝ったのもあるけど、やっぱ今回はハヤヒデがアタマひとつ出てるな」
「誰の頭がでかいって!?」
「言ってないぞー!ブライアンに続けー!」
「ターボ、今日もぶんぶん走るぞー!」
「いいぞいいぞー!今日もどんどん行けー!」
実はネタでやってるのでは?と疑われるほどの御約束をファンと交わすビワハヤヒデや、一角をファンが固めるところに集まったツインターボがいる中で、彼女は最後にパドックに姿を現した。
「うぉっ!?」
「あっ、あれは……ッ!」
六甲からの冬の爪痕のような冷たい風を引き連れ、彼女はそこに現れた。
一歩ずつまっすぐに、力強く歩く金の髪の少女。
傍目には言葉も合図もなく、ただ歩いているだけだ。
その小さな靴音を鳴らす一歩だけで、パドックの周囲の目は誰も彼も関係なくそちらを向いた。
パドックの台の一番先、一言も発することなくそこに立つ。
「あれは、ゴールドシチー……!」
「実物ヤベェ……」
「顔ちっちゃ……」
「スゲェ存在感だ……」
カメラを構えている観客は、ゴールドシチーが目線を向けた瞬間に無意識でシャッターを切ってしまう。
だいたいの観客席のカメラのレンズに己の姿を見せたあと、一言も発することなく、ゴールドシチーはパドックを背にして下がっていく。
「つい撮っちまった……おぉ、すっげ……」
「トップモデルの目力やべぇ……」
「あれが、100年に1人の美少女かぁ……」
「シチーが歩いて立って回っただけで、パドックがランウェイになっちまった……」
「壁紙にしよ……」
ゴールドシチーに目を奪われたのは観客ばかりではない。
出走する他のウマ娘の目も、ゴールドシチーに向いていた。
「ゴールドシチー、クラシック期は勝ち切れないレースが続いていたハズだが……」
少なくとも、ビワハヤヒデは額に指を当てながら考える。
今回のレースプランでゴールドシチーはマーク外。
油断などではなく、今までのレースを元に考えた上で判断した。
もちろんいくらか誤差はあるが、少なくとも同期の二人や妹のようなカオス足り得ない。
仁川で一度勝っているというのはもちろん忘れていないが、コースの練度の話なら自分のほうが勝っている。
ゴールドシチーがあれほど自信に溢れた姿をしていようと、実力そのものは伴っておらず修正可能な誤差のハズだ。
クラシック期を共にしていたトレーナーもいない今、彼女のトゥインクルシリーズはこの大阪杯がラストランになるだろうことを加味しても、やはり彼女はレースプランにヒビをいれるような存在足り得ない。
そう思っているのに、ビワハヤヒデの脳裏から違和感が拭えない。
まるで靴底の溝に挟まった小石のように。
「全員揃いましたね。写真を撮っても?」
「いいよ!」
「ハイッ!」
「えっ?」
乙名史記者に言われるがまま写真を撮られる。
タイキシャトルとマヤノトップガンはちゃんとピースして、サイレンススズカは戸惑いながらも小さくピースしている。
マヤノトップガンを膝に乗せていたフユミだけが何も反応出来ずにただ撮られていた。
「フユミトレーナー、いつもより表情固いですよ?」
「えぇ、まぁ……」
フユミが苦笑いのままなのは理由がある。
フユミが観客席に向かおうとした時、マヤノトップガンが唐突にフユミの手を握って引っ張り始め、そのまま流されて最前列の席に来ると押されるように座らされて、その膝にマヤノトップガンが座り、手を取られて外から抱き締めるように腕を回させて、マヤノトップガンのお腹の前で組んだ手を上から掴んで押さえたのだ。
ここまで勢い任せで半ば強引に、マヤノトップガンが自分からこうしてきたのは少し珍しく、少し戸惑った。
マヤノトップガンは腕をしっかりと押さえているので、フユミはそのままマヤノトップガンを抱き締める。
両隣にいるサイレンススズカとタイキシャトルが何も言わないので、それも不思議だ。
この3日ほど、マヤノトップガンは話し掛けても小さな返事しかしなかったし、マヤノトップガンが何か言おうとしたのを聞こうとしても黙り込んでしまう状態だった。
僕が普段と違って、ゴールドシチーをとことん追い込んでいたのがよほど怖かったのだろうか。
ゴールドシチーの前ではあまり甘やかすことも出来なかったのもあって、すっかり嫌われてしまったのかとも思った。
そんな状態で、今日はこうして膝の上にいるマヤノトップガンを抱き締めている。
シンザン記念の時にうっかり頬っぺたを潰しそうになった時よりも、強引なマヤノトップガンの態度に怒っているのかもわからない。
ただ、春の中に紛れる冬の風を感じるとマヤノトップガンが袖を引いて背中をぴたりとこちらに預けてくるので促されるままに抱き締める。
背中から抱き締めるマヤノトップガンの身体が、じんわりと温かい。
「あ、ゴールドシチーさんがコースに出てきましたね」
パドックでのアピールは予定通りにいったらしい。
余計なファンサービスは考えず、ファッションショーのランウェイを歩く時と同じように歩いて姿を見せつけたらすぐに下がるように指示した。
ゴールドシチーの使える手札を文字通り全て使い切る、まずはその一枚目を切らせた。
全部の手札を使い切って、ようやく少しだけ勝ち目が見えるという割の合わない勝負。
勝ちまでの線が細過ぎる上に頼りない。
「シチー!ファイトですヨー!」
隣でタイキシャトルが両手を振りながら応援するのに対して、ターフの上のゴールドシチーは小さく手を振って返事をする。
地下通路からターフを経てスタート地点のゲートへと向かうまで、ほんの一時の間だがゴールドシチーの状態を見る。
たぶん、ゴールドシチーのコンディションに問題はないハズ。
問題がないからといって、万全なら勝機はあるのかと問われたらそれはあまりないのだが。
出来ることは思い付いて時間内に収まる範囲で全部やった。
追い込んだ翌日からは走らせるのを抑えて、ライブの練習をメインに据えた。
あとは食事の内容も少し口出しして、最初に肉を多めに食べさせたあとはご飯を中心にした食事を2日ほど食べさせ、糖質を多めに摂らせた。
今朝は食堂で用意してもらったチマキとオレンジジュース、そしてレース前の控え室でレモンやミカンなど柑橘類を揃えるだけ揃えて好みのものを摘まませた。
ここに来てしまったら、もう足掻きようがない。
祈ったって何も変わりはしない。
観客席にいるのも、極論で言えばただの自己満足だ。
『各ウマ娘のゲート入りが始まりました。本日の注目はやはり一番人気、ビワハヤヒデです』
ゲートに入るビワハヤヒデの様子を見る。
ビワハヤヒデの意識がゴールドシチーを問題としていなかったなら、どう足掻いても勝ち目はない。
メジロライアンも出てきた。
こちらも位置取り次第では、何をどうしようが無駄だ。
そして、ツインターボが観客席に向かって両手を振りながら歩いていく。
全ての鍵はツインターボがどこまで逆噴射せずに逃げられるか、だ。
賭けの線が細過ぎる。
下調べも確信が持てるほどは出来ていないし、いちおう作戦らしいものは立てたが穴だらけどころか谷の間を渡した綱の上を歩いて渡るようなものだ。
こんな作戦と呼ぶのも馬鹿馬鹿しい、ご都合主義が罷り通るハズもない。
「トレーナーちゃん」
マヤノトップガンの手が、僕を逃がさないようにしっかりと握られる。
逃げるつもりなどないハズなのに、どこかで逃げ出したくなっているのだろう自分に嫌気が差す。
この大阪杯を見届ける。
今の僕にはそれしか出来ないし、それが僕のやらなければならないことだ。
逃げ出すことは、出来やしない。
見届けるのが、今の僕の義務だ。
勝つことは、願えやしない。
勝ってくれ、なんて思えるほどのことは何一つ出来ていないのだから。