逃がさないスズカと逃げるマヤと逃げられないトレーナー 作:エアジャガーる
「どこで観るつもりなんだ?やはり4コーナー出口に出来るだけ近い観客席右端か?」
「ダメだなぁ、エアグルーヴは。そんなところで勝負は決まらないよ。ゴール板前まで決着はわからないさ!だよね、ホオヅキトレーナー!」
焼きそばの匂いが漂う阪神レース場への道中、私服姿のエアグルーヴの隣を、ホオヅキは右手をトウカイテイオーに引っ張られながら左手で隠した口許からぶつくさ独り言を漏らしながら歩いている。
トウカイテイオーに引っ張られていなければ、ホオヅキはきっとその場で立ったままずっと独り言を呟いているだろうことは、この1ヶ月の付き合いでトウカイテイオーも理解していた。
一度、トウカイテイオーがイタズラで考え込んで自分の世界に引きこもっているホオヅキを担いで運んで三女神像の前に立たせたことがあるが、ホオヅキは考えがまとまるまで一切気付きもしなかった辺り、筋金入りだ。
今もきっと、トウカイテイオーに阪神レース場に向かって引っ張られているということを認識していない。
「……3コーナー……大おにぎり……外回り……サイレンススズカ……4コーナー……ウオッカ……坂……坂……板……スタート……1600……」
「おい、貴様!早く戻ってこんか!」
エアグルーヴも一応、ホオヅキに呼び掛けるがいつも通りに無反応なまま自分の世界に没入している。
エアグルーヴもこれがただの労力の無駄であることはわかっているので、それ以上はホオヅキの返事を求めない。
桜花賞を見に行くと言い出したのはホオヅキのハズなのに、なぜ自分達がホオヅキを引っ張って連れてこなければならないのか。
エアグルーヴは頭を抱えたくなるが、そんなことを考える間も無く道中で、自身とトウカイテイオーへのファンからの応援と励ましを受けて返事をしながらホオヅキを阪神レース場まで連れていくというマルチタスクに追われることになって、考えるのをやめた。
それよりも桜花賞の出走前に、ホオヅキがこっち側に帰ってくるかどうかのほうが心配だ。
桜花賞を直接観たいと言い出したのは、絶賛自分の世界にトリップしているこの毒舌メガネなのだ。
中継ではなく、直接ここで観なければならない理由をホオヅキはまったく言わないので、エアグルーヴもまるで意味がわからない。
試験による篩掛けの網を上手いことすり抜けてトレーナーになったとしか思えないこの毒舌メガネはトレーニングメニューに関しては、確かに本当に文句の付けようがなく、生徒会の活動に関しても一度の例外を除けば口出ししてこないし逆に過剰な配慮でトレーニングに支障をきたすこともないので今までのトレーナーより遥かに有能であることは疑いようがない。
エアグルーヴの気分や本心では『遥かに有能』というより『遥かに無能ではない』という評価に今のところは留めておきたいが。
ともかく、その一度の例外が、今日の桜花賞のために1日丸ごとスケジュールを空けろというものだった。
トウカイテイオーは自分から付いてくると言い出したが、エアグルーヴは入学式等の準備で忙しいというこのタイミングで強引に引っ張り出された。
桜花賞に出るウマ娘からオークスの対策を考えるだけなら、中継やパトロールカメラのほうが正確な分析を出来るだろう。
そうでないとしても、ホオヅキ1人で来ればいい。
つまり、ここでエアグルーヴが桜花賞を観ることに意味があるのだろう。
しかし、この時点で既に憶測だ。
本当にそんな理由でここに連れてこられたのかも、どうしてそんな理由があるのかも、ホオヅキは何も言わなかった。
聞き出そうとも思ったが、チューリップ賞の時の畳み掛けや弥生賞での強引さとマイペースっぷりを思い出すと、あまり自分から聞き出すのは気が進まないし、まず一度目は信じてみようと考えたのだ。
これでホオヅキが信頼に足りないトレーナーであったなら、また一から出直しだが、実際にはなかなか難しい話だろう。
「まったく、厄介なものだ……」
「……はい、厄介です……サイレンススズカが勝ったら……きっと……あぁ、なんて……彼は本当に……」
「おい、貴様!スズカが勝ったらどうなるというんだ」
「……ダイワスカーレットとウオッカ……そうしたら次は……現役最強?……なんて皮肉……これは思い付かないし、やろうともしない……そもそも普通なら出来るわけがない……」
ホオヅキの意識がこちら側に戻ってきていて返事をしたのかと思って話し掛けたエアグルーヴは、相変わらず周りを無視して独り言を続けているホオヅキを忌々しく見つめる。
エアグルーヴは自分がとことん無視されていることに、少しだけ腹が立つ。
どうしても、自分が桜花賞に出られてさえいれば、と思ってしまう。
出ていたとして、今のサイレンススズカに立ち向かうことが出来るだろうか?
そんなことを考えて、握り拳に力が入る。
こんな弱気を抱えていて、オークスに勝てるものか。
「スカーレット」
「トレーナー、アタシ……」
控え室の鏡台の前で、勝負服姿のダイワスカーレットは膝に握り拳を置いて椅子に座ったまま俯いている。
当日入りはやはり移動の疲れが出るのか、それとも精神的な緊張からか。
新幹線の中で目を閉じて傾けた座席に身体を預けていた様子から、問題になるような疲労はないハズだ。
それを考えれば、やはり本番前の緊張感が出ているのだろう。
チューリップ賞の時は虚勢で無理矢理奮い起たせていて空回りしそうになっていたことを考えれば、素直になったと見るべきか、虚勢すら張れないのか、ハルヤマは判断に悩む。
そもそも、今の自分が冷静に判断出来る状態という自信がない。
それでも、ダイワスカーレットに過不足ない自信を与えてターフに送り出すのが、レース前に出来るトレーナーとしての最後の仕事だ。
「スカーレット、俺は……っ!」
違う。
ダイワスカーレットが震えている理由は、恐怖なんかじゃない。
口許が吊り上がるのは、敗北の予感からなんかじゃない。
ハルヤマがスカウトしたウマ娘は、負け戦など最初からする気はない、勝つことだけを考えるウマ娘だ。
そのことを見誤ったことを、ハルヤマは悔いた。
見誤った理由は、自分こそが負け戦を受け入れてしまった心の弱さだ。
「……スズカ先輩がいる。ウオッカの奴もいる。トレーナー……この桜花賞で勝って、アタシは一番になる」
ゆっくりと天井に向かって顔を上げ、背筋を伸ばし、伸びきったところで力を抜いて鏡を見る。
ダイワスカーレットの紅い瞳は、鏡越しにハルヤマを視る。
「…………何か、最後に必要なことはあるか?」
「……抱き締めなさい。後ろから、思いっきり」
「……わかった」
チューリップ賞の時と違って、今度はダイワスカーレットから言い出して、ハルヤマが後ろから抱き締める。
勝負服から、微かに花の香りを感じる。
どれだけ負けん気を出しても、肩肘張っていても、しっかり者の優等生の振る舞いをしていても、彼女の本質は腕の中に収まるほど小さく繊細だ。
だからこそ、負けん気と意地っ張りで作った殻と年相応の繊細な少女の内面の隙間を埋める必要がある。
彼女がなりたいと思っている自分に向かって、成長出来るように。
そのためになら、スカイズプレアデスだってサイレンススズカだって彼女の糧にする。
今のダイワスカーレットに必要なのは、内面の成長と補強だ。
「……スズカの数少ない弱点を全て突けるのは、お前だけだ。そのための手札も揃えた。あとは強気に行け。桜花賞、獲ってこい!」
「…………わかった」
ダイワスカーレットが頷き、決意した目をしたところでハルヤマは彼女を離す。
勝負服姿のダイワスカーレットは、チューリップ賞に送り出した時よりも確実に力強く見える。
今なら、彼女は誰が相手でも勝てるハズだ。
ダイワスカーレットが席を立ち上がって歩き出し、扉の前で向けた横顔に相応しい言葉は、きっとこの一言だ。
凛々しい。
「勝ってくるから」