逃がさないスズカと逃げるマヤと逃げられないトレーナー 作:エアジャガーる
「トレーナーさん、お願いします」
マヤノトップガンとタイキシャトルにお小遣いと一緒に、先に席取りに向かわせたあとに、改めてサイレンススズカの脚と向き合う。
今日の桜花賞、そしてサイレンススズカの走り。
きっと、全てを問われている。
その感覚がどうしても神経を障る。
だからこそ、控え室を静かにしてサイレンススズカに向き合いたかった。
彼女をどれだけ仕上げたかを確かめて、最後に靴をキッチリと履かせて、作戦もちゃんと仕込んで、自分の全てを尽くしたかった。
「それじゃ、履かせる前に脚の感じを確かめるからね」
サイレンススズカのすらりとした脚。
その踵を手に持ち上げると、細いながらもしっかりとした重さがある。
タイツ越しでも、太ももの張りは弥生賞の時よりも少し強めになっているのがわかる。
距離が2ハロン短い分、瞬発力を求めるトレーニングを濃くしたので、速筋の比率が少し多めになっている証拠だ。
生粋のスプリンター寄りのタイキシャトルみたいな跳ね返すような弾力まではないが、むしろサイレンススズカの走りならこのくらいに抑えたほうがより長く“逃げられる”脚になっている。
仁川のコースなら、この状態がきっと一番走りやすい。
しかしサイレンススズカにとって、1600mはどちらかと言えば苦手な距離だ。
1800mまではタイキシャトルに捕まってしまうのは、弱点が隠しきれてない証拠だ。
本当なら2000mは欲しい。
だからこそ、桜花賞二週間前から仁川のターフを思いっきり走らせてコースレイアウトどころか芝の伸びる向きやデポットの補修跡、その新旧まで脚に叩き込ませた。
距離の不利はライン取りの思い切りでカバーさせる。
「スズカ、タイツが緩かったりキツかったりはしないか?」
「いえ、大丈夫です」
「そうか」
変化は外にはあまり出ないが、脚の筋肉の質が少し変わっているので、用意していたタイツがどれも脚に合わなくなる可能性をフユミは危惧していた。
サイレンススズカはソックスがあまり好きではないらしい。
脚の途中で口があって半端に締め付けられる感覚が嫌いらしく、勝負服ではタイツを注文していた。
さすがにタイツまではフユミが履かせるわけにはいかないので、勝負服に着替えた時点で既にサイレンススズカの脚は黒いタイツがすっぽりと包んでいる。
その爪先から生地の張りを見て、緩いところを指で少しずつ引っ張ってピッチリと均一になるように伸ばしていく。
勝負服を作った服飾師が用意したタイツは、土踏まずの分までちゃんと考えられていたらしく、足の裏も余りなく、その形のまま包んでいる。
彼女の脚の綺麗さを損なわないように、慎重に、慎重にヨレや余りを伸ばして、同時に手のひらで彼女の脚の筋肉を確かめる。
「足首、ちょっと回してみて」
「はい」
ふくらはぎを持って宙に浮いた足先を回させる。
引っ張りすぎて引っ掛かる、ということがないように。
太ももの途中まで丁寧にタイツの張りを確かめて、勝負服の靴を履かせる。
ローファーのようなシンプルな靴だが、緑色のリボンをあしらっているところが、なんだか彼女らしくて可愛らしい。
ストラップの留め具をパチリと止めて、靴を少し動かしてみる。
足にキツすぎず緩すぎず、ちゃんと留まっている。
2日前に一回走らせてフィットを確かめた時と、ほぼ同じ状態だ。
「スズカ、自分の足でも違和感はないか?」
「はい、これなら……」
サイレンススズカの微笑みが答えだ。
問題はないようだが、靴を片方履いたことでレースが待ちきれなくなってきたらしい。
尻尾を少しパタパタさせているので、少し急いで右足も靴を履かせることにする。
サイレンススズカは右足が少し小さい。
片方だけだとわからないが、両足を並べるとほんの少しだけ。
それでなのか、右の靴は色違いで白くデザインされている。
型紙を見せてもらったが外側では同じ大きさだが、中のサイズはちゃんと少しだけ右の白い靴のほうが小さくなっているのでフィッティングでの手間はかなり省けている。
バ場発表は良バ場なので、中敷きで前後の重心をずらす必要はなさそうだ。
「このくらいか……じゃ、立って」
両足の靴を履かせたあと、フユミはサイレンススズカの手を取って椅子から立ち上がらせる。
歩こうとしたサイレンススズカを止めて、彼女の太ももを指差す。
「タイツの生地が太もも辺りで緩んでるハズだ。アンダースコートを穿いてるとはいえ、さすがに僕がスカートを捲って張り直すわけにはいかないから自分でやるようにね。外に出てるから」
「はい」
そう言って、控え室の外に出る。
他のウマ娘やトレーナーが通路を歩いていて、フユミを見ては足早に去ったり嫌なモノを見たような顔をしたり、あからさまに逃げたりするのを見ると、さすがにフユミも少し思うところがある。
自身はどう思われていようが自分のことだが、自分のせいでサイレンススズカ達に何かあるのは嫌なのだ。
自分に向けられている視線が、サイレンススズカに向くのは避けたい。
「トレーナーさん」
フユミが壁を背に少しぼーっとしていると、扉を開けたサイレンススズカがひょっこりと顔を出す。
気付いたフユミは控え室に入り直して、扉を閉める。
まだ彼女に、最後の“おまじない”をしていない。
その“おまじない”が今日の鍵だ。
そう思い、控え室に入ってサイレンススズカの姿を見てフユミは固まった。
なんてことはない。
サイレンススズカがそこに立っているだけだ。
服飾師からのプレゼントで送られてきたパドックでのアピール用の緑色のケープを肩に掛けているだけで、勝負服姿のサイレンススズカがそこに立っているだけだ。
それでも改めて、思ってしまう。
ポスターを見た時以上に。
「……あの、何か変ですか?」
「……いや、似合ってるよ。可愛い」
「なら、よかったです。勝ってきますね」
一瞬、余計なことを言ったかと思ったフユミは、にこりとしたサイレンススズカにホッとする。
本題は、これからなのだ。
「あぁ、最後にアドバイスだ。聞くだけ聞いて役に立たなかったら、それでいい」
「役に立つことが、問題なんですか?」
「役に立たなかったらそもそも思い出すこともなく勝ってるからね。これを思い出す時はきっと負ける一歩手前だ」
サイレンススズカの眉が、少し傾く。
少し不機嫌になるくらいがちょうどいい。
御機嫌なまま笑い飛ばされるよりは、頭に残る。
「……4コーナー抜けたタイミングで、君の内にダイワスカーレットがアタマを捩じ込んできてるハズだ。そしたら、3歩だ。3歩だけ息を入れろ。そしたら思いっきり走れ。それで、もしかしたらダイワスカーレットを差し返せる」
足回じゃないね。