逃がさないスズカと逃げるマヤと逃げられないトレーナー 作:エアジャガーる
「……高速コーナーからのダウンヒルからヒルクライムのスイッチポイント、そこへのアプローチが今日のレースの全てでした……下り坂をどこまで突っ込み登り坂へのアタックに滑らかに切り替えるか……それを見に来たつもりでした……それがまさかあんなことをやるとは……」
「おい、貴様……まさか私にあのアクロバットをやれとか言い出さないだろうな?」
「……言うわけがないでしょう……あなたがやったところで間違いなくターフの赤いシミになりますから……あれはサイレンススズカだからやれたことです……」
ホオヅキのあまりにも手心のない一言にエアグルーヴは顔をしかめる。
エアグルーヴは言動の圧こそ強めだが、性根は草花を愛でる生真面目な年頃の少女だ。
少々、過激な極論や血生臭い暴論から始めがちなホオヅキの言動をあまり好ましく思えない。
正直に言えば、何度かキツく諌めようとしたことはあるが厄介なことに舌を動かして出る言葉以外には、そのような要素が片鱗すら出ないので他の生徒や職員から見た外面はいいというオマケ付きだ。
エアグルーヴがホオヅキの舌鋒を咎めても、外から見たら信じられない光景にしかならないだろう。
「ねぇねぇ、ボクなら出来る?」
「……テイオーなら、出来ることは出来るかもしれません……ただ、サイレンススズカがやったような結果は得られないでしょう……そもそもリスクに対しての効果が薄すぎます……ターフにへばり付くことになるリスクに対してせいぜい稼げるリードは最終的に1バ身あるかどうか……その1バ身に命を懸けなければならないというのなら止めませんが?」
ホオヅキはズレて鼻の先で落ちかけていたメガネの位置を直しながら、エアグルーヴとトウカイテイオーを連れてウイナーズサークルのほうに歩いていく。
どこかウンザリしたような顔をしているのは、エアグルーヴの気のせいだろうか。
「……言っておきますが、アレは最高速でストレートに突っ込むだけで出来ることではありません……自分がどれだけのスピードで走っていて、どれだけの力で跳ぶことが出来て、どれだけの力が着地時にかかるかわかっていて、着地の衝撃をどうコントロールするか……頭ではなくもっと根っこのほう、脳髄というべきか本能というべきか……理性的な部分より野性的というか感覚的というか……阪神外回り1600特有のハイスピードコーナーと下り坂と登り坂の複合ロングストレート、的確なタイミングでの踏み込みによる跳躍、着地の衝撃をダメージにせず勢いをちゃんと生かしきる脚の使い方とそれを可能にする柔軟性……それら全てがなければ出来ない跳躍でした……」
「身体の柔らかさならボクは負けないよ?」
「……あなたでは柔らかすぎます……あなたが同じことをしても登り坂をうまく着地出来てもトラクションが足りず、登り坂へのアプローチに繋げられない……サイレンススズカは柔らかさとそれを支えきる強度が両立していたから出来たのです……わかりやすく言えば豆腐と厚揚げの差みたいなものです……」
ようやっと人混みを掻き分け辿り着いたウイナーズサークルでは、ダイワスカーレットとサイレンススズカがそれぞれのトレーナーを伴って並んでいた。
桜花賞のティアラはひとつしかない以上、どちらが受け取るかでお互いに譲り合っていたが、サイレンススズカの一言でダイワスカーレットが観念したというには力強い態度でティアラを用意しているURA職員の前に立って自分のしているティアラを外して頭を下げる。
ダイワスカーレットが桜花賞のティアラを被せてもらうのを見ながら、エアグルーヴはサイレンススズカがダイワスカーレットに言ったことを思う。
「トリプルティアラを揃えてくるの、待ってるわ」
サイレンススズカはきっと、もともと同じ担当だったダイワスカーレットに激励しただけなのだろう。
後ろにいる胡散臭い笑顔のトレーナーと違って、サイレンススズカはひねた言動はしない。
だからこそ、サイレンススズカの言葉がそれ以上の意味を持たないことをわかっている。
ただ、それでも、首筋にチリッと障るものがあるのは、きっとエアグルーヴ自身が桜花賞を逃した悔しさがあるからだ。
「……エアグルーヴ……今回、タイムオーバーがざっくり2人は出ています……順当に行けば今回のような出走枠除外はありません……例えばNHKマイル好走から連闘でオークスに殴り込んでくるようなのがいたら別ですが、まぁそんなことするなら素直にダービー行けという話なのでレート負けはまずないでしょう……ですがあなたが今のままオークスに挑んでも勝ちは見込めません……そこで、あなたがオークスで戦えるウマ娘であることを示してもらいます……」
「私を試す、だと?」
「……はい……あなたがたまたまただの優秀なウマ娘としてオークスを勝ったところで、それは理想の姿とは言えないでしょう……絶対的な強者として現れて圧勝し、樫の女帝として君臨する……そのためにひとつ、オークスの前にそこそこ高いハードルを越えてもらいます……出走申請です」
ホオヅキがデニムのジャケットのポケットから三つ折りにした紙を取り出して、エアグルーヴに渡す。
透けて見える文字から、出走申請用紙であることは間違いないが、肝心のレースの部分が裏からではわからない。
普通に考えれば、オークスのトライアルであるフローラステークスの出走申請であるハズだ。
しかし、そんなものをわざわざ勿体付けたような出し方で渡してくるだろうか?
ぱら、ぱら、と折り畳みを広げて上から文面を見る。
エアグルーヴの目がみるみる開かれ、瞳孔が平然としているホオヅキへと向く。
対するホオヅキは、また鼻先からずり落ちかけたメガネの位置を指で直している。
「…………貴様……これは、どういうつもりだ……?」
「……今のままオークスに直行してもダイワスカーレットに勢いで負けています……ただのトライアルからの参戦でもつまらない……今年のクラシック戦線……ただの優秀なウマ娘の居場所はもはや、ありません……困難からの劇的な再起と勝利、あなたが女帝たるのに必要なものがそれだと判断しました……別にフローラステークスでまぁまぁ普通に走って、そこからオークスに挑むというのなら止めませんが……今日のサイレンススズカに食らい付き続けたダイワスカーレットを相手に、オークスで勝利する自信がありますか?」
「ねぇねぇ、なんのレースに出るの?」
「……今日1日、考える時間をもらっても構わんな?」
トウカイテイオーに見られる前に紙を折り畳んだエアグルーヴは、 自分の持っているポシェットにしまい込む。
トウカイテイオーが勝手に囃し立てて、話が進むのは願い下げだ。
ホオヅキはそんなエアグルーヴに一瞥もせず、ウイナーズサークルでマイクを渡されているダイワスカーレットとサイレンススズカのほうを見ながら一言だけ言う。
「……いくらでも、考えてください」
「だぁああああああっ!!!ちくしょー!悔しいぜ!悔しいぜ、オレ!」
「どうどうどう、悔しいのはアタマ差3着……じゃないんだろ」
「そんなもんどうだっていいんだよ!オレ、すっげぇ悔しいんだよ!目の前であんなの見ちまってさ!」
控え室の扉を閉めた瞬間に、頭を抱えて悶絶しながら叫ぶウオッカに隣の部屋への迷惑を考えたサンジョーはなだめにかかる。
ウオッカがこうなるだろうことは、ある程度予想出来ていたが、予想よりも大きい声が出ている辺り、ウオッカは本気で悔しいらしい。
「最高の走りで、後ろから差しに行ってたんだぜ?行ける!行けるぜ!って思ってさ。全部順調に脚が進んでさ。もうこれは負けねぇ!って思ったんだ」
「今回のレース展開はかなり縦長になっていたからな。あれだけ仕掛けに行くタイミングに苦心しない展開もなかった。正直、届いて差し切ると思ったが……」
「ガッ!と踏み込んでさ、仕掛けに行こうとした瞬間に見ちまったんだよ……スズカ先輩のジャンプ……アレを見ちまった瞬間にオレ……負けたって思っちまった……スカーレットの奴は食らい付きに行ってたのにさ。オレ、このままじゃダメだ」
「なら、どうする?」
サンジョーの問いかけに、ウオッカはこの2ヶ月ほど選択に悩んでいたことを、ついに決断した。
ウオッカは、もともとダービーを観て中央に憧れたウマ娘だ。
それが、ダイワスカーレットと張り合う内にティアラ路線に迷い込んでしまった。
そのままオークスに行っても、ダービーに挑んでも、走る距離と場所は同じだ。
違うのは、ダービーというタイトルが持つ熱狂。
だからこそ、ウオッカは選ぶことにした。
「トレーナー、オレ……ダービー獲りに行きてぇ。今のままスカーレットとかスズカ先輩とダラダラやり続けても、勝てる!って自信がなかったらきっと負けっぱなしだ。だから、オレはダービーを獲って、アイツには絶対負けねぇ!って思えるようになりてぇ。それからアイツと、ちゃんと戦いてぇ!トレーナー!オレ、ダービーで勝ちてぇ!」
ウオッカの決断に、サンジョーはまるで予想出来ていたようにダービーへの出走申請用紙をカバンから出す。
オークスの出走申請用紙も一応持ってきていたが、この紙の出番はなくなった。
幼少期にダービーを観た時の衝動こそが、ウオッカが中央へと来る動機になったことは知っている。
その原体験の衝動に、勝ちたい理由が付いてきた。
今のウオッカのモチベーションなら、オークスに進めるよりダービーに挑ませるほうが高いポテンシャルを発揮するだろう。
サンジョーはそう判断した。
「いいだろう。ダービー、獲りに行くぞ」
「……おう!」
よーく考えよう。ローテは大事だよ?