逃がさないスズカと逃げるマヤと逃げられないトレーナー 作:エアジャガーる
「あの、トレーナーさん」
抱き抱えていたサイレンススズカを椅子に降ろして、留め具を自分が固く留めたことに焦れながら靴を脱がせてタイツに包まれている足を手に取る。
足の裏は指で確かめるまでもなく、タイツが擦り切れて穴が空いている時点でかなりの負荷がかかったことは間違いない。
指先で穴の空いて剥き出しになっているところをそっと触ると、ピクリと脚を引っ込めようとするくらい過敏に反応している。
骨にまでダメージが入っていないか、踵を持って膝を伸ばさせて足の甲を爪先からゆっくり撫でていく。
「トレーナーさん!待って!」
「ここら辺が痛むか?」
サイレンススズカが反応した辺りに撫でる手を戻していくが、特に痛みによる反応はない。
少し強めに圧してみるが、それでも特に反応はないし火照りや腫れのようなものも感じない。
「トレーナーさん!」
脚から手を払われて、急に動いたサイレンススズカのほうを見ると、畳んだ足を抱え込んで明らかに顔を赤くして怒っていた。
もしかして、怪我の深さに気付かずかなり痛くしてしまったのだろうか?
「トレーナーさん、さっきから強引過ぎます」
「え?」
自分の行動を、ここで振り返ってみる。
ウイナーズサークルでの写真撮影の前に、急いで足の状態を本人に問い質し、特に怪我の状態を確認出来るようなことを彼女の口から聞くことも出来ないまま写真撮影やインタビューが始まってしまったので、出来るだけ足の負担がないように歩かせないよう立ち回ってから、終わり次第抱き上げて控え室に急ぎ、椅子に座らせて急いで靴を脱がせて、とここまでの行動を振り返ると、確かにずっと無言で強引にサイレンススズカを振り回して急いでいた。
あんなに強引に検診をしようとすれば、誰だって不安になるに決まっている。
少し、冷静になるべきだった。
「ごめん、冷静じゃなかった」
「……怖かったです」
「ごめん、怖がらせた」
治療が必要かもしれない相手を、自分が不安にしてどうする。
後悔で痛みすら覚える額を手で抑える。
落ち着いて考えるべきだ。
跳んだ踏み脚である左は、さほど気にすることはない。
少なくとも、着地からの一歩目で登り坂を踏み込んだ右足よりは負担がないハズだ。
証拠に、左足の裏はタイツが擦り切れていない。
右足の裏だけが擦り切れている理由は明確だ。
自分の身体をあらぬ方向に振り回す過剰な運動エネルギーを足の裏で踏ん張って、力の向きを無理矢理ねじ曲げて前に踏み出したんだ。
それを日常的にやって、何足のソックスとシューズをゴミにしたかわからないバカを知っている。
「スズカ、そっぽ向いて目を閉じてるからタイツだけ脱いで」
「……はい」
壁のほうを向いて目を閉じたあとに、布擦れの音を出来るだけ聴かないようにして待つ。
アンダースコートを穿いているとはいえ、スカートの中に手を入れてタイツを脱がすのは間違いなく嫌がられるだろうし、かといってこうして自分で脱ぐのを待っているのもどうなんだろうと少し思う。
脚をちゃんと診るのに少し引っ掛かってしまうところがあるが、彼女の勝負服姿は他に考えられないので、本人が嫌がるようなら自分がどうにかすべきことだ。
「トレーナーさん」
しばらくして背中を指でつつかれて振り向くと、タイツを脱いだサイレンススズカが顔を赤くして待っていた。
サイレンススズカの心情を考えたら、手早く終わらせてあげたほうがいいに決まっている。
「あぁ、しばらく我慢してね」
改めてサイレンススズカの前に両膝を突いて、膝の上にサイレンススズカの足を乗せる。
彼女の細くて白い脚が、少しだけ熱を帯びていて温かくなっている。
レースを走って少しの時間しか経っていないせいだろう。
レースの前よりも少し蒸れた脚のしっとりとした肌を撫でていく。
足の甲から足首の関節を包んで、ぽんぽんと触診していく。
足首になにもなければ、強度を考えたら脛骨と腓骨だけがダメージを負うとは考えにくい。
脛とふくらはぎを包んで絞るようにしながら、熱を持った筋肉を解していく。
ダメージがあるなら、これでも痛みを覚えるハズだが、サイレンススズカは少し伏し目がちなだけで特に痛がるような素振りはない。
少なくとも大急ぎで病院に駆け込んでどうのこうの、という事態は避けられたようだ。
大腿骨や骨盤部分へのダメージは、あればそもそも隠せるような痛みではない。
ひとまず緊急の事態ではないことに、肩の力が抜ける。
息を吐いた拍子に、サイレンススズカの膝に額を付けて少し寄り掛かってしまう。
「トレーナーさん?」
「ごめん」
いけない。
担当の大事な足にすることではない。
背を起こして顔を離し、火照りと張りがレース前よりも少し強いふくらはぎを、下から上に解しながら筋繊維にダメージがないか確かめる。
足首や膝の次に不安があるのは、踵からふくらはぎにかけての、主にアキレス腱を中心に揉んでいく。
「違和感とかはない?」
足首の裏辺りが他より少し火照りのあるような気がして、手を止めて訊いてみるが、彼女は首を小さく横に振る。
その反応を見て少しだけ悩む。
足首を回させても、変なところで回すのを止めたり痛みを訴えるような反応はない。
考えた末に、近くのテーブルに置いていたカバンから湿布とライブ衣装用のソックスを出して、足首を後ろから包むように湿布を貼っていく。
本当なら一歩たりとも歩かせたくないが、この仁川に来る足に新幹線を選んでしまった。
次からは車を用意しよう、と思いながらビニール包装を破くように開けて出したライブ衣装用のソックスを、彼女の様子を確かめながら湿布が捲れたりしないように慎重に履かせていく。
ソックスの締め付けに痛がるようなら、そのままライブを蹴ってでも病院に担ぎ込むつもりで。
「……トレーナーさん、大丈夫ですか?」
「今、痛みがないならとりあえず大丈夫。ただ、最後にやったあのジャンプは本来なら一発で決まるような技じゃない。正直に言えば、肝が冷えた……」
サイレンススズカが下り坂で踏み出して跳んだ瞬間、咄嗟に席から立ち上がって膝の上にいたマヤノトップガンを床に倒しそうになった。
慌てて抱き留めたから、マヤノトップガンは無事だったが彼女が持っていたイチゴオレを床に落とさせてしまったので、レースが決着したあとに思いっきり拗ねられてしまっている。
ほんの今まで、彼女の脚の具合で気が気ではなかった。
目立ったダメージもないことをこうして、自分の手で確かめるまで、不安を表には出さないように抑え込むのに、だいぶ苦心した。
「“逆落し”っていうんだけど……君にアレが出来ると思ってなかったし、やるとは思ってもなかった。アレをやるバカは僕の知る限りで1人しかいないからな」
「……あの……その1人って、誰ですか?」
「昔のことだ。君と違って、バカで下品で最悪で短絡的で悪趣味で、力任せで勢い任せに速い理不尽でヘタクソな走り方をするヤツだよ」
ソックスを滑らせるように伸ばして、爪先から踵、ふくらはぎまで彼女の綺麗な脚にちゃんとフィットさせてからそっと床に彼女の足を置く。
立ち上がってから、怪訝な表情のサイレンススズカの頭を撫でつつ、とりあえず今は肩を撫で下ろす。
ライブ後にも痛みがないようなら、一週間ほどの休養で抜ける疲労のハズだ。
僕は、サイレンススズカを見誤っていたのかもしれない。
彼女は、僕の想像した程度で収まるようなそこら辺の優駿なんかでは、きっと留まることはない。
「トレーナーさん、私は……その人より速く走れますか?」
サイレンススズカに言われて一瞬だけ、あのクソ女の走りを思い出す。
あんなヘタクソな走りをするアレより、綺麗な走りをする彼女のほうが好ましいし、そこに自分の嗜好や気概が含まれていることを差っ引いても、間違いなく言える。
むしろ、言わなければならない。
「当然」
4月から書いてるのに未だに桜花賞ですまねぇ……ホントにすまねぇ……皐月賞からきっと話のペースが速くなるハズだから……