逃がさないスズカと逃げるマヤと逃げられないトレーナー 作:エアジャガーる
「よ、引っ越しは終わったか?……って、なんだそのでかいの」
ムササビを称する手足と尻尾と頭の生えた布団のようなぬいぐるみをどうにか部屋の一角に置いた辺りで、扉を開けながらハルヤマが駆け込んできた。
昨日の桜花賞からすぐに引き分けた相手のチームルームに平然と来られるのは、神経が太いのかそんなことを気にしてられないか、おそらく前者だろう。
「ムササビのぬいぐるみらしい。名前はまだない」
「それが、なんでここに?」
「置いとく場所がないからとりあえず置いてある。それで、用件はなんだ?」
なんとなくハルヤマと顔を合わせづらいフユミはさっさとハルヤマの用件を聞き出すことにする。
担当同士が鍔迫り合いの末にクラシッククラスGⅠで同着というなんとも言い難い結果になった次の日だというのにこうやって顔を出すどころか話をしにくるのは、コミュ力の差なのだろうか。
あるいはそれどころではないことに直面したのだろうか。
そうだとしたらハルヤマが振ってくる話は限られる。
もっとも、ハルヤマからの話題はだいたい、予想が出来る。
テーブルを片付けたあとサイレンススズカがこのムササビ布団なぬいぐるみを背負って持ってくるまでの時間潰しにパソコンで見ていたサイトでの情報のうちのひとつだろう。
「そうだそうだ。エアグルーヴの次走、青葉賞らしいんだ」
「らしいな。エアグルーヴの出走申請が出てから、ニュースサイトも軽い騒ぎになってる」
フユミにとっては、その話題は正直、どうでもいい。
というよりも、どうしようもない。
エアグルーヴの今のトレーナーがどういうトレーナーかは知らないが、かなりの悪趣味の持ち主ということがわかったし、ハルヤマが誰かと話題を共有したくなるくらい衝撃的な話題なのも察する。
なにしろ、さっきから更新しては新たな記事が出るほどネットニュース上では騒ぎになっている。
エアグルーヴ、オークスを取り止めて青葉賞からダービーへの出走か?なんてニュースもあった。
ついでにその説を前提としたインタビューの申し込みが、ニュースサイトの記者からフユミの元に来たが、問答無用でゴミ箱に送ってブロックした。
どうしてエアグルーヴの話でこちらに取材の手が回ってくるのか意味がわからない。
ただでさえ前々から月刊トゥインクル以外からの取材は全て断る、と明言しているのに後を絶たないのがフユミの悩みの種のひとつになっているというのに、明らかに関係ない取材まで来るのはどういうことなのか。
今のエアグルーヴのトレーナーがそもそも誰かを、フユミは知らないのだ。
「オークスの前に青葉賞を叩こう、とは。どんなトレーナーがエアグルーヴを言いくるめたのか知らないが、剛毅なものだ」
「剛毅?悪趣味の極みだぜ。青葉賞のジンクス、トレーナーなら知らないわけがない」
「青葉賞枠はダービーを勝てない、だろ?」
2人の会話を部屋の端のほうで聞いているサイレンススズカさえも一度は耳にしたことがあるジンクス。
いわゆるクラシックGⅠのトライアルレース。
その中で青葉賞だけは、ただの一人も勝者を出していないというもの。
理由は明白、というにはそれを踏まえても摩訶不思議と疑わざるをえないほどの強固なジンクスだ。
2400mのレースを二回、中3週で走る負担と疲労に耐えられるクラシッククラスのウマ娘はいないとか、ダービー獲るようなウマ娘はそもそも皐月賞で既に出走資格を獲ているか他のレースで勝っていてわざわざ青葉賞を叩かないとか、もっともらしい理屈はある。
それにしたって青葉賞設立からかれこれ何十年、ただの一人もいないというのは有り得ない。
その青葉賞によりによってオークスに行くハズのエアグルーヴが参戦するというのだ。
中2週で2400mを連続出走するなど、正気の沙汰ではない。
それが、曰く付きの青葉賞となれば尚更だ。
「ダービーすら勝てないのに、更に中の詰まるオークスだぞ?マトモに走れるかもわからない」
「走れるように仕上げている……そう判断すべきだろうな。どうせフルゲートはまずないだろう今年のオークスだ。青葉賞を凡走してから来るくらいなら最初からオークスに来る。それではいけない理由は、フィジカルではないところにあるハズだ」
サイレンススズカとダイワスカーレットによる熾烈な争いは、結果的にとはいえ2人のペースに飲まれた他のウマ娘を完全にヘバらせたことでタイムオーバーを5人も出すという結果になった。
そこに加えて、サイレンススズカとウオッカはオークスに出ない。
桜花賞からそのまま残り全員が出走しても11人しかおらず、ダイワスカーレットがサイレンススズカと同着だったこともあってオークス回避が他にも続出するという見方が強い。
さすがにゲートの人数割れで前代未聞のオークス不成立という事態にはならないだろうが、出走枠そのものはガラガラだ。
オークス直行でもなんら問題は起きないだろうハズのエアグルーヴに青葉賞を叩かせる理由を考えると、必然的にフィジカル以外の理由しかないのだ。
「エアグルーヴの新しいトレーナーは、死に物狂いでダービー出走への最後の切符を獲りに来る連中を向こうに回して、エアグルーヴの勝負勘を研がせに行くつもりなんだろう。僕がやるとしたら、それしか理由がない」
「本命のオークスでマトモに走れなくなるかもしれなくてもか?」
「そのダメージコントロールによほどの自信があるか、エアグルーヴにそれが出来るウマ娘だと見込んだか、もう後がないと覚悟したか、どれかまでは僕にはわからないよ。僕はエアグルーヴのトレーナーじゃないから」
わからないとは言ったが、間違いなく青葉賞とオークスのどちらも獲りに来るつもりでローテを組んだことは確信している。
賭けなんかでこんなことをするトレーナーに、エアグルーヴが自身の担当を任せるとは考えにくいからだ。
「フユミ、ひとつだけいいか?エアグルーヴは、オークスで強敵になると思うか?」
「ハッタリでこんなローテは組まない。間違いなく、オークスを獲りに来てると思った方がいい。強敵じゃない。本命だよ」
フユミの言葉に、どこか安堵したように肩を下ろしたハルヤマは頷いた。
自分の担当であるダイワスカーレットより勝ち目があると言われたのに、どうして安堵するのか。
フユミには、それこそよくわからない。
「お前がそう言うってことは、きっとそうなんだろうな」
「なんでこんなことを僕に聞いた?エアグルーヴがここ最近、どう走っているか……僕はまったく見ていないのに」
「簡単なことさ」
ハルヤマは部屋を出ながら、振り向き気味に答える。
そのあっけらかんとした意味不明な答えを聞いてから、フユミが生返事をするのに二拍を要した。
ハルヤマが部屋の隅で控えていたサイレンススズカにも手を振って、あとで引っ越し祝いをスカーレットに持っていかせると言いながら部屋から出ていってから、ようやく思考が追い付いた。
そして、フユミの悩みの種がまたひとつ増えた。
ハルヤマの残した言葉は、それほど意味不明なものだったから。
「エアグルーヴとトウカイテイオー、この2人の今のトレーナーは……お前みたいな奴だからな」
「…………はぁ?」
※この世界のタイムオーバーは時間で問答無用で切られます。是非もないネ。