逃がさないスズカと逃げるマヤと逃げられないトレーナー 作:エアジャガーる
「お待たせしました」
「ん、あぁ……早かったな」
話し掛けられてタブレットから目線を上げると、そわそわと尻尾を揺らすサイレンススズカが前に立っていた。
今日は少し暖かいからか、体操服姿で走るらしい。
「少しでも多く走りたくて」
「今日は疲労を残さないように軽めに、だからな。のんびり走っておいで」
「はい」
短いながらも、はっきりと返事をしたあと、いつもに比べれば遥かにゆっくりだが、サイレンススズカは走り出した。
思いの外素直に、そしてゆっくり走るサイレンススズカに注視する。
無理に抑え込んで走っている、という感じはない。
ターフの上だと突っ走りたいとか、そういう問題はないらしい。
フォームをちゃんとキープしている。
リズムも一定のリズムで走っている。
本人は無自覚だろうが、サイレンススズカのトレーナーが教えたのであろう一定のペースを維持する走りを、サイレンススズカの足はちゃんと身に付けているのだ。
ただ、レースの競り合いになってしまうとストレスでペースを掻き乱されやすいのだろう。
そこだけ解決すれば、重賞のトロフィーでチェスが出来ると思う。
辛抱強くこれだけの下地を作った指導力を、羨ましく思う。
だからこそ、ここで担当を変えるなど愚の骨頂だ。
これだけの指導力で、強みがわかってさえいるなら、ここから一足飛びで大きく成長させられるハズだ。
少なくとも、自分より、ずっと。
マヤノトップガンがやたら懐いていたので躊躇っていたが、そろそろここを去るタイミングなのだろう。
彼女が無事に調子を取り戻して、踏み外しかけた道を戻ったなら、その手伝いが多少でも出来たのなら、僕がここに来た意味はちゃんと果たされたのだと思う。
三人がターフから去るのを止められなかった新人でも、この程度のことは出来たことに満足している。
それ以上は、もはや望むべくもない。
「戻りました」
ふぅ、と軽く一息したサイレンススズカは、特に息を切らしたりとかはなく、にこやかに微笑んでいる。
「おかえり。走ってきてどうだった?」
「はい、前はゆっくり走るのは嫌だったのに……今日は一歩一歩が、なんだか軽くて……少し、名残惜しいです」
「気分よく走れているなら、それでいい。君はたぶん、それがいい」
サイレンススズカは、自分の足に制約をかけることはさほど、苦にしていない。
だとしたら、やはり自分以外のペースで走るのが苦手なのだ。
もっと言えば、他のウマ娘に囲まれるのも嫌なのだろう。
ここまでのヒントで、彼女の最高の走りは、もう既に推察出来る。
中距離での前のめりな先行、もっと言えば完全な大逃げ。
脚力任せな暴走とも言える走りに、正確な速度操作とスタミナ維持を覚えさせた足は、天性の才覚と根気の努力の完全な融合だ。
嫌だっただろう周りに合わせてペースを維持した走りも、サイレンススズカはきちんと取り組んでいた。
だからこそ身に付けたのが、今の強固な大逃げを可能にする彼女の足だ。
彼女のすらりとした足は、柔らかく白い肌の下に、他のウマ娘には出来ない自己中心的かつ極めて正確な走りを実現する能力を組み込んでいる。
その完成形は間違いなく……
「あの、トレーナーさん……」
「ん、ああ……すまない。考え込んでいた」
「私の足に、なにか……?」
サイレンススズカは少し、不安そうにこちらを見ている。
しまった、という後悔はもう遅い。
早い後悔というのは存在しないだろうが。
不安を残してはならない、そのためには褒めるのが早いか。
「綺麗、だと思って」
「綺麗、ですか?」
いけない。
口説き文句だ、これでは。
他のトレーナーのウマ娘を口説いてどうするんだ。
しかし、否定の言葉を出せばそれは問題だ。
正直に、賞賛するしかないか。
喉のつかえを咳で払い、改めてサイレンススズカを褒めることにした。
「あの日に飛び出すまで……今までの苦手なトレーニングも、苦手な走り方のレースも、君自身はきちんと行ってきたのだろう。君の足は、君のひたむきさが指導を無視しなかったから培えたものだ。君はこの綺麗な足という成果に自信を持っていい」
「……本当、ですか?」
「嘘や世辞を言っても、どうしようもないだろう?」
「トレーナーさん、私は明日……勝てますか?」
「そこを疑ったことはないよ」
「私の勝利を、信じてくれますか?」
「他に信じるものはないよ」
「わかりました」
サイレンススズカは、決意したようにトレーナーをまっすぐ見る。
少しだけ、頬に色味を出しながら。
少しだけ、強い声で伝えてきた。
「明日、勝ってきますから」
「トレーナーちゃん、あと少しかなぁ」
サイレンススズカと話してるトレーナーを少し離れたところから見て、マヤノトップガンは思う。
ことの最初は、チームのトレーニングがつまらなくて逃げ出した時のこと。
チーム名の表札がない部屋があったので、空き部屋だと思って逃げ込んだところにいたのが彼だった。
「どうしたの?」
そう優しく訊いてきた声で、部屋の奥でデスクに座っている彼に気が付いた。
「んー、かくれんぼ!」
「そっか。それなら静かにしないとな」
追い出されるか、摘まみ出されるかすると思ったら、あっさりと流されてほったらかしにされた。
キーボードを叩く音だけがする。
マヤのことをまるで気にも止めずに、パソコンに向かっている彼が気になった。
どこかに行ってしまいそうな気がした。
行かせてはダメ、だと直感で思った。
どうしてかはわからないけど、一人にしたらいけないと思った。
「ねぇねぇ、お兄ちゃんはトレーナーなの?」
「見習いで、新人で、たぶんもう少しで元、って付くと思うけど」
マヤは確信した。
楽しくなさそうな笑顔が、嫌だった。
あんなに露骨な作り笑いで、マヤを騙せると思われたのが、嫌だった。
そこから先は、トレーナーちゃんを振り回しに振り回した。
自分が側にいる時は、トレーナーちゃんが少し笑ったりしたから。
つまらないことよりも、トレーナーちゃんを振り回して一人にしないほうが大事だった。
本当ならチームを移籍したらよかったけど、トレーナーちゃんは既にチームを畳んでいたからそれは出来なかった。
「マヤとデートしよ!」
そう言って外にも引っ張り出した。
作り笑いじゃない笑顔がたまに見えるようになったけど、やっぱりどこか暗い笑顔がトレーナーちゃんの常だった。
そんな時、トレーナーちゃんはどこか沈んだ顔のスズカちゃんを連れてきた。
トレーナーちゃんは、スズカちゃんを見ている時は少しだけ複雑そうな顔をしていたけど、マヤから見たらスズカちゃんを気にしているトレーナーちゃんは、ちょっとだけ素敵に見えた。
ちょっとだけ羨ましかったけど、嬉しかった。
それに、スズカちゃんはすごく強かった。
あんなにすごいペースで最初から前を走って、マヤが勝ったと思って差しにかかったのに、差し返されて負けるなんて、初めてだった。
何より走りきったスズカちゃんは、キラキラで明るい顔をしていた。
たぶん、今はまだトレーナーちゃんはマヤのことを気にかけてくれる余裕はないと思う。
でも、スズカちゃんが走ってくれたら、トレーナーちゃんもきっと、ここから歩き出せると思う。
そう思うから、今はスズカちゃんの背中を押すことにした。
※マヤちゃんは全て、勘だけで動いています