逃がさないスズカと逃げるマヤと逃げられないトレーナー 作:エアジャガーる
「トレーナーさん?」
ゴール板を抜けた先で、ターフにぺたりと座り込んだマヤノトップガンの様子に、駆け出そうとしたサイレンススズカは隣にいるフユミの様子がおかしいことに気付いて声をかける。
いつもなら真っ先に動くだろうハズのフユミが、微動だにしない。
らしくない、というよりも、有り得ない。
いつもなら、ゴール板を抜けた頃には既に歩き出しているハズなのだ。
「トレーナー、さん?」
サイレンススズカは隣からフユミの顔を覗き込む。
口を一文字に結んで、ターフを睨んだまま、ピクリともしない。
ここまでターフを睨んでいるフユミを、サイレンススズカは見た覚えがない。
負けたことが悔しい?
いや、それはなにかが違う気がする。
怒っている、という表現をするには、しっくりとこない。
そもそも負けて怒るほど皐月賞を勝ちたかったのだろうか、という引っ掛かり。
怒るとしても、彼はマヤノトップガンに怒るだろうか?という疑問。
彼が何を考えているのか、あまりよくわからない。
それはある意味ではいつも通りで、それでも何かがマズいと引っ掛かる。
引っ掛かったものがなんなのか、わからない。
まるで無味無臭の毒のように、それがマズいものだとわかっているのに実感がないような感覚。
「トレーナーさん!」
フユミの肩を掴んで揺すろうかと、サイレンススズカが手を伸ばそうとしたところで、反対側からタイキシャトルが中身のポップコーンのなくなったバケツを地面に落として横からフユミを思いっきり抱き締める。
突然のことにフユミも驚いてバランスを崩し、抱き締められた勢いのまま、タイキシャトルに寄り掛かる。
「今はシンキングタイムではアリマセン!マヤのことを迎えに行きマショウ!」
「そうです。早くマヤちゃんを迎えに行きませんか?」
「…………そうだな。すまない……行こうか」
タイキシャトルの言葉で何かに気付かされたように、フユミは一瞬だけ眼を見開いたあと、いつもより落ち着いているような表情に戻る。
いつもの胡散臭さも、どこかに消えている。
ただ、少しだけ落ち込んでいるように見えた。
その表情は一瞬だけのことで、タイキシャトルから離れて歩き出した頃にはいつもの胡散臭さのある顔に戻っていた。
まるで、仮面を被るように。
皐月賞で負けた今、フユミは何を考えているのか。
気になっても、聞き出せない。
今はまだ、彼の顔から胡散臭い笑顔の仮面を引き剥がそうとしても、何もいいことがないことだけはわかるから。
一瞬だけフユミが見せた表情を、サイレンススズカは二回だけ見たことがある。
一度は桜花賞でダイワスカーレットと引き分けた時。
そして、もう一度は……
今はただ、彼の手首をそっと掴んで隣を歩く。
彼がどこかに行ってしまわないように。
新宿駅で一度だけ見た、あの顔をさせないように。
「あ、トレーナーちゃん……」
レースが終わったあと、コースの芝で掲示板を見ながらぺたりと座っていたマヤノトップガンは、フユミ達が歩いて来たのに気付いて振り返る。
すぐに立ち上がって足の埃を払う仕草からは、脚を出し切っての疲労感のようなものは感じられない。
最後の2ハロンを除けば全体的にはスローペースだったことを考えれば、当然かもしれない。
密集状態で低速走行を余儀なくされて、最後に脚を出し切れなくなって伸びずに負ける典型的な溜め殺しパターン。
サイレンススズカは、その経験に何度も歯噛みしたことがある。
普通なら上がりペースを速めたり、低速域から高速域への切り替えをより明確にしたり、いろいろと頭を使ってレース展開の駆け引きに対応出来るようにするのだろうが、サイレンススズカはそういう駆け引きの全てを明後日にぶん投げて“走りたいように走る”ことで半ば解決したが、マヤノトップガンは逆にどんな展開だろうがその通りに走れるように器用さがあった。
そのマヤノトップガンをしても破綻してしまうようなズルズルのレース展開は、サイレンススズカ以外から見ても泥沼の我慢比べだった。
他のウマ娘の様子からも、全力を出し切ったような爽快感が見えないので間違いないだろう。
「トレーナーちゃん……マヤ……負けちゃった……」
両手で上着の裾の端を握り締めて、俯きながら途切れ途切れに言葉を紡ぐマヤノトップガンの前で、フユミは膝をついてマヤノトップガンの顔を下から見上げるように目を合わせる。
フユミの表情は、いつもの胡散臭さを纏った、何を考えているのかよくわからない笑顔ではなくて。
そっとマヤノトップガンの頬に手を伸ばして、目元を親指でそっとなぞる。
「ごめんな。マヤを泣かせた」
「…………違うよ……マヤが泣いたんだよ」
「……そっか」
ややあって、マヤノトップガンの頭を撫でてから、フユミはいつものようにマヤノトップガンを抱き上げる。
抱え上げられたマヤノトップガンは珍しくフユミにすがり付くようにして、顔を隠している。
2着とはいえ、負けたことが相応に悔しかったのだろうか。
そして、二人のあまりにも言葉の少ないやりとりに困惑したのか、自分でもどうにもモヤモヤする気持ちを整理しつつ、二人の後ろを付いていくサイレンススズカにスペシャルウィークが話し掛けてきた。
「あの……抱っこしてますけど……」
「あれは、いつものことだから」
「えぇぇ……」
周りをキョロキョロと見ながら付いてくるスペシャルウィークの反応に、確かに普通なら抱っこして運ぶようなことはしないことに気付いた。
隣を見ればタイキシャトルがちょっとだけ不貞腐れている。
「ワタシはハグされたことないデス」
「…………嘘でしょ?」
タイキシャトルの背丈はフユミとあまり変わらない。
それを考えれば、お姫様抱っこするのが難しいのだろうことは想像出来る。
では、マヤノトップガンよりタイキシャトルのほうが背丈は近いハズの自分が割と軽々、お姫様抱っこされてるのはどういうことなのだろうか。
タイキシャトルと自分の姿を改めて見比べる。
きっとタイキシャトルは脚に無理があるようなレースをしていないだけだ。
きっとそうだと思う。
自分がお姫様抱っこされた時は必ず何かしらフユミが脚を心配するようなレース展開だった。
たぶんそれだけのことだ。
きっとそう、そうに決まっている。
あれ、でもゴールドシチーもお姫様抱っこされてない……
「あの、スズカさん?」
「えっ、何かしら?」
スペシャルウィークの声で考え事をやめて顔を上げると、何故かスペシャルウィークが前にいて向かい合っていた。
というより、来た道の逆を向いていた。
「いえ、突然回り出したので……左に」
「担当が勝ったのに観客席で自分の世界に入り込む奴があるか!急ぐぞ!」
「…………勝ちは拾いましたが……余裕のない勝ちでした……」
トウカイテイオーの勝利者インタビューのためにターフに向かう途中のこと。
ごちゃごちゃとまた独り言を呟きながら思考に没入するホオヅキをエアグルーヴがなんとか現実に引っ張り出して、ウィナーズサークルへと向かわせるまでにかなり手こずらされたせいで席を立つのがかなり遅れてしまった。
仮にも担当であるトウカイテイオーが皐月賞を獲ったというのに、ホオヅキの表情は険しく独り言も多い。
少しは喜んでもいいだろうに。
隣でホオヅキの姿を見るエアグルーヴまで表情が険しくなる。
「まずは勝った。そのことは喜んだらどうだ?」
「…………勝ち方というものがあります……三冠を獲ろうというウマ娘なら……それに相応しい勝ち方を求められる……そうは、思いませんか?」
黒ぶち眼鏡の奥の目を更に細めながら言うホオヅキに、エアグルーヴは閉口する。
地方から移ってきて初の年にいきなり担当がGⅠを獲ったトレーナーなど、過去にほとんどいないだろうに。
「……ハッキリと言えば……今回もマヤノトップガンに勝ちきったとは言えません……同じ展開でゴール板がもう2ハロン先だったら……そう考える余地があるレースでした……来月、マヤノトップガンに勝つために……すべきことは山ほどあります……」
二人が歩く前から、マヤノトップガンを抱えたフユミがサイレンススズカ達を引き連れて向かってくる。
マヤノトップガンはフユミにしがみついているので表情を伺い知れない。
エアグルーヴとサイレンススズカは軽く会釈だけして、タイキシャトルとその隣の見慣れないウマ娘はむむむ、と何かを堪えるように黙していて、そのまますれ違った時だった。
「……フユミトレーナー」
「……なんですか?ホオヅキトレーナー」
背中合わせになったところで、いつもなら独り言しか言わないホオヅキの口が無駄に動いて、フユミを呼び止めた。
エアグルーヴは思わず顔をしかめる。
いつもは考え事に専念して挨拶どころか反応もしない失礼を重ねるクセに、こんな時だけ挨拶して喧嘩でも吹っ掛けるつもりなのか。
「……勝負は、ダービーで」
「どうしてそれを僕に、君が?僕達が走るわけじゃあるまいに」
振り向かず、吐き捨てるようにそれだけを言ったフユミは、何か言いたげにもがくマヤノトップガンを抑えながらそのまま歩き出す。
あまり交遊のないエアグルーヴすら、やや低いフユミの声色と隣にいるサイレンススズカの表情から、フユミの機嫌がかなり悪くなったことを察した。
フユミ達の姿が見えなくなってから、エアグルーヴはホオヅキを睨んで問い質した。
「貴様、今のはなんだ?」
「…………ほんのちょっとした……威力偵察といったところ……ですかね……反応は予想外でしたが……」
ホオヅキは少しだけ唸りながら首を傾げていたが、首を一度回したあと、首筋から肩を握った手でこんこん叩きながら歩く。
「…………隣のウマ娘が違うだけで、ずいぶんと見違えるものです……」
「古い知り合いなのか?」
「…………一方的にですが……トレーナーとして一度……完敗させられたので」
ホオヅキの言葉に、エアグルーヴは眉をひそめる。
ホオヅキはカワサキを中心に地方でのレースに担当を送り込んで、瞬く間に圧勝してその功績で中央に来た。
その来歴に、当然ながら中央のトレーナー養成所からトレセン学園に来たフユミが関わるところは、どこにもないハズだ。
「……取るに足らないささやかな因縁です……そんなことはさておき……行きましょうか……皐月賞ウマ娘が待ち兼ねてますし……」
「おい貴様!勝手に話をだな!」
それだけ言ったホオヅキは、すたすたと先に歩いてしまう。
そもそも出遅れたのも、途中で余計なやりとりをしたのも、全部ホオヅキのせいである。
少々、自分勝手が過ぎる自分のトレーナーに悩まされつつ、エアグルーヴは慌てて付いていく。
「……ところでエアグルーヴ……貴女が付いてくる必要はないですが……」
「……たわけ!貴様がボヤボヤしていたから、私が引っ張り戻したのだろうが!」
次回からここに◎モブ娘名鑑◎がしれっと載るよ