逃がさないスズカと逃げるマヤと逃げられないトレーナー 作:エアジャガーる
ある日、サイレンススズカは落ち込んでいた。
トレーナーはレースに詳しくて、走り方のノウハウをとてもよく事細かに教えてくれた。
座学だけなら、彼女はレースのあらましを全部覚えていると言ってもいい。
問題は、それを実際に自分のレースに生かせないことだ。
もっと言えば、勝って当たり前の模擬レースすら流れに乗れないまま沈む。
周りに他のウマ娘がいるのが、ここまで煩わしいとは思わなかった。
自分より遅いウマ娘に併せて我慢して走り、焦れたのをじっと我慢しながらのろのろと走り、気付けば自分のペースがわからなくなって周りの凡走の巻き添えでそのまま沈む。
こんなの、何が楽しいのかわからない。
普通は考え無しに飛び出したら勝てない。
ペースを綺麗に作って走るべきタイミングで走るのがレースの勝ち方。
そんなことはわかっている。
なのに、それが出来ない。
その程度のことすらも出来ない。
自分の足がフラストレーションを抱えたままでイライラして、深夜に寝付けず、寝不足でボンヤリしたまま、酷い日は気付いたらまったく見たことのない場所に立ち尽くしていたこともある。
寮長に後ろから声をかけられた時、どことも知れない真っ暗な田んぼの畦道の真ん中で立ち尽くしていた自分にいよいよ嫌気が差した。
自分は、走っているのが好きなだけ。
レースは、狭くて、窮屈で、煩くて、煩わしい。
トレセン学園に来たのを後悔すらし始めた。
全てが嫌になる前に、走ることだけは好きなままでいたくて、新品の蹄鉄をシューズにキッチリと嵌めて、朝ご飯をカフェテリアが開くギリギリの時間で一番乗りしたあと、朝練と称して外に出てひたすら走った。
走り続けて、ひたすら走り続けて、どこまでも走り続けて、足が動かなくなって倒れた時に、それでも走るのが好きなままだったら、好きに走ることが出来たのなら、走るのが嫌になったなら、走ることを諦めたなら。
結論を振り切るようにひたすら走りに走って、途中から後ろにずっと付いてくるバイクの音がたまに気になっても振り切るように加速して、気付いたら何処ともわからない山の麓にいた。
足が力尽きて、道端の草むらに倒れた。
空は、腹立つほどに晴れていた。
「こんにちは、不良娘さん」
そう言って、雲の代わりに空を覆ったのは見慣れない男の人の顔。
人当たりの良さそうな顔でニコリとしながら急に話し掛けられて、スズカは飛び起きた。
「誰!?」
「僕は府中から奥多摩の入り口までずっと甲州街道からとんでもない速度で走り続ける変わり者な不良ウマ娘を追いかけてきたトレーナー見習い、ってところ。日野を跨いだ頃には流石に遅くなってたから追うのに苦労しなかったけど」
途中で後ろからずっとしていたバイクの音は、どうやらこの男のバイクだったらしい。
「君はどこに行こうとしていたのか、聞いてもいい?」
「……どこでもありません」
男の質問をスズカは突っぱねた。
見ず知らずの人に、わざわざ話すことなんてなかった。
見習いのトレーナーに何がわかるものか。
自分だって、本当はどこに行きたいのかわからないのに。
わかっていることは、一人でひたすら走りたかったことだけ。
この男にも、側にいてほしくない。
とっととどっかに行ってほしい。
それは、叶わない。
なら、自分が振り切るしかない。
「では、私はここで」
「あぁ、待て待て!」
起き上がって歩き、道に戻る。
あっちはバイク、こっちは自分の足。
ガス欠になるまで、振り切ってやる。
私一人になるまで、走り切ってやる。
思いっきり右足を踏み抜き、スズカは飛び出した。
バイクは自分の足と違ってすぐには走れない。
鍵を回して、エンジンをかけて、なんか他にもいろいろしてようやく走るものだ。
その間に、私の足なら地平線の彼方まで逃げられる。
そう思って次に出した左足は、地面を掴んだ感触がなかった。
世界が、急に暗くなる。
自分が、下に落ちていく。
前へ、前へ!
そう思っても、視界は前ではなく、下に向かう。
どうして。
「はっ!」
長い夢を見た。
そんな気がした。
起き上がった時、見慣れない和室にいた。
薄暗い畳間の真ん中で、布団で眠っていた。
障子を開いて、窓の外を見る。
日が落ちていくところだろうか。
山向こうに沈む太陽が、やけに白く眩しい。
テレビの横に置かれたデジタル時計は、5:37を表示していた。
テレビのリモコンのスイッチをテーブルの上に見つけて、電源を入れる。
なんだか思っていたのと違う感じの番組が映った。
ボンヤリと観ていると、アナウンサーがとんでもないことを言った。
《それではみなさん、今日も行ってらっしゃい!》
行ってらっしゃい?
こんな夕方に?
何を言ってるんだろう?
番組が変わって、アナウンサー達がまた並んでいる。
《みなさん、おはようございます!》
おはようございます?
その後、アナウンサーが言った日付が自分の中のカレンダーから一日ずれていることに気付いた。
デジタル時計には無情にも、カレンダー機能まで付いていた。
まさか、と思い外を改めて見る。
太陽は、山の後ろからさっきより顔を出している。
意味がわからない。
サイレンススズカは、ついに光を追い抜いて、時を越えて、半日先の未来に来てしまったらしい。
当然、そんなことはなく、疲れきって半日丸々寝ていただけだと現実を突き付けられるまで、残り一時間を切ったところだった。
触ると切れるナイフどころか近付くだけで自分から刺しに来る妖刀レベルの尖ったスズカ概念。