逃がさないスズカと逃げるマヤと逃げられないトレーナー 作:エアジャガーる
「トレーナーさーんッ!見てクダサーイッ!……って、アレ?ケンノン?な雰囲気デスネ……?」
部屋に飛び込んできたタイキシャトルは、フユミ達の様子に場違いさを感じたのか、扉を開けた最初の勢いがみるみる内に縮こまり始める。
機嫌の悪そうなフユミの様子に、耳を絞って気が立っていることがありありと伝わるサイレンススズカの背中と、後ろでおろおろしているスペシャルウィークの姿を見れば、余程の鈍感でなければ気付ける場の空気だ。
「タイキか、その格好は?」
そのタイキシャトルの格好は、フユミには見覚えのない緑色の衣装だった。
その格好にいち早く反応したのは、スペシャルウィークだった。
「その格好……勝負服ですか!?」
「イッエースッ!NHKマイルに間に合うようにデザイナーさんが作ってくれマシタ!」
「あぁ、勝負服か……そういえばそろそろ仕上がる予定だったな。着てきた、ってことは最後の調整試着か?」
卓上カレンダーを見返すと、タイキシャトルの勝負服の仕上がり予定は明日になっている。
サイレンススズカとマヤノトップガンの時は前のチームの時に既に勝負服が出来上がっていたので、初めて勝負服関係のやり取りをすることになって、いろんなことがまるでわからず、仕立て担当にほぼ丸投げするしかなかったので、出来ることが1つもない以上、無意識に自分のスケジュールから完全に消えていた。
予算オーバーか期日オーバーな時には連絡を、としていたが、どうやら予算内に収まったらしい。
完成の報せもまだなので、試着中に舞い上がってここまで走ってきてしまったのだろう。
トレセン内では割とままあることらしいが、タイキシャトルもその例に漏れなかったようだ。
「イエスッ!明日にでもコレで走れマスヨ!」
「待ってーっ!まだサイズ調整とか終わってないよー!」
後から追い掛けてきたマヤノトップガンが息を少し乱しながら、ようやく追い付いてきたらしい。
来るのが遅いと思っていたが、どうやらタイキシャトルの勝負服の試着に付き合っていたらしい。
たまたま途中でバッタリ出くわして、面白そうだからと付いていったのだろう。
服飾科のある別棟からここまで階段等の高低差を考えるとざっくり4ハロン、その間ハイテンションでここまで走ってきたのだろうタイキシャトルを全力で追走してきたとしたら少し息を乱すくらいで済んだ、と思うべきだろう。
どのみち、途中で竹刀担いだ風紀番長か青葉賞上がりの女帝もついでに振り切っただろうから、あとでお叱りは免れないだろうな。
「オゥ、でも今もフィットしてマスヨ?バッチリ、というのデスネ」
腰を捻ったり肩を回してみたりしながら、タイキシャトルは衣装の着心地を確かめる。
少し肌色が多い気がするが、サイレンススズカみたいにカッチリした格好だと窮屈で嫌なんだろうな、というのが聞かずともわかるし、デザインの申請が通ったんだから、問題ないのだろう。
「とりあえず完成なら完成で、ちゃんとそれをテイラーに伝えておいで。走らないで行くように」
「オーケーッ!行ってキマスネー!」
言うが早いか、タイキシャトルはまた走って部屋を飛び出した。
走るな、と言ったハズなのだが。
そんなタイキシャトルが廊下を飛び出した瞬間にガッ!と扉の梁を掴んで急停止してこちらに戻ってきた。
「トレーナーさん!1つ聞きそびれマシタ!」
「何かな?」
「私のコスチューム、似合ってマスカ?」
「……うん、いいと思う」
一言伝えると、タイキシャトルはムニッと口許を上げて、にこりと笑う。
本人が走りやすそうにしているのが一番だし、少し肌色が多く見えてもデザインが通っているなら問題ないし、あれだけ喜んでいるなら間違いないのだろう。
ここまで廊下を走ってきて、どこも破綻していない頑丈さも合格点だし、勝負服で一番大事なところは全部押さえている。
「オーケーッ!それも伝えてキマスヨー!」
「走らないようにな」
ウォーク、ウォーク……と言いながら廊下を小走り気味に遠ざかっていく足音を聞き届けながら、フユミは膝に乗ってきたマヤノトップガンを抱える。
膝の上のマヤノトップガンはいつの間にか、乙名史記者が置いていったコピーの束を手にして読んでいた。
「スズカちゃん、怒ってるでしょ。耳、絞ってるもん」
「えっ、あっ……うん」
膝の上でパラパラとコピーの束を捲っていきながら心情を言い当ててきたマヤノトップガンの指摘に、サイレンススズカは耳を慌てて手で触る。
耳の動きはどうしても半ば無意識に出るところなので、気を付けたところでどうにかなるものでもないのだが。
耳の動きまで律するほどの完璧超人など、なかなかいないものだ。
「スズカちゃんが怒ってる理由、わかっちゃった」
「えっ」
マヤノトップガンはほとんど斜め読みかパラパラ読み程度しか読んでないだろうに、バサリとデスクにコピーの束を置いて言い切った。
わかったという割には、少し落ち込み気味で、抱き留めているフユミの腕に絡むようにしがみつく。
「トレーナーちゃん、スペちゃんのことを決めるの……ちょっとだけ待ってよ」
サイレンススズカは改めて驚かされた。
乙名史記者の持ち込んだコピーの束と、部屋の中にいた自分達の様子で、この部屋で起きていたことを少なくとも半分は把握したのだ。
「……待つって、いつまで?」
「うーん、ダービーまで!」
「ダービーまで待って、どうするんだ?」
フユミに問われたマヤノトップガンは口許に指を当てながら、少しだけ考えて、スペシャルウィークのほうを見る。
「ん、マヤは走るだけだよ。トレーナーちゃんとスペちゃんが決めることだから。だからこの話は今はやめよ?」
マヤノトップガンはそれだけ言って、えへへと笑って誤魔化す。
フユミがそうか、と片手をマヤノトップガンの頭に置いて軽く撫でて、それ以上を問い質さないのは、これ以上のことはきっと口を割らないとわかっているからだ。
マヤノトップガンのことは、フユミのほうがずっとわかっている。
その上で問い質さないということは、マヤノトップガンの考えていることがわかっているか、もしくは問い質す意味がないと思っているかのどちらかだろう。
マヤノトップガンは白紙の答案用紙だけを渡して、肝心の問題用紙は表面を伏せたまま、それを開く時と答える時だけを明かしているのだ。
サイレンススズカは釈然としないが、マヤノトップガンに問い質すのも、マヤノトップガンを挟んでまでフユミに電話の向こうの女のことを改めて問い質すのも、少し躊躇われた。
「それに、スタジオの予約時間もそろそろだよ?」
「えっ、あっ!そうね。行かなくちゃ……」
マヤノトップガンの一言で、なんとか予約が取れたライブ練習のためのスタジオ予約が、ほぼ昼一番の時間からだったことを思い出す。
桜花賞から始まるクラシックシーズンはライブ練習の予約が殺到しがちで、学内のスタジオの予約が取れないと、学外のスタジオに行くか、最悪は自腹でカラオケに入ることになる。
時間を気にせずに済むし途中で一息入れるのにも困らないカラオケ派もいるが、防音能力の差が大きいのと、練習そのものの自由度の差でスタジオのほうが人気だ。
「……じゃあ、行こうか。マヤも行こうな」
「うん」
フユミはマヤノトップガンを膝から降ろして、頭を撫でる。
ちゃんと確認するか怪しいが、フユミはタイキシャトルにもスタジオへ行くことをメッセージで送る。
ライブの機会が一番直近なタイキシャトルが、一番来られるか怪しいのだが、それはさておく。
途中で捕まってお叱りを受けてすぐに来られない、が8割以上だろうけど仕方ない。
「あつ!私も行っ!ても……って、ダメですよね?すみません……」
スペシャルウィークは勢いで言い出した途中で、はたと気付いて悩みながら、あるいは迷いながら、惜しみながら、笑って誤魔化しながら取り下げる。
サイレンススズカはスペシャルウィークの様子に、なんと言うべきか悩む。
さっきまでの言い合いも、つまるところはこうやって一緒にいることがキッカケの出来事だった。
言ってしまえば、甘やかしと甘えのツケだ。
「スペちゃんも行こうよ!」
「えっ!ちょっ!わっ!」
サイレンススズカが返事に迷ってる間に、マヤノトップガンがスペシャルウィークの手を引いて走り出してしまう。
止める間も無く先に行ってしまい、サイレンススズカとフユミは置き去りになってしまう。
二人で廊下に出てから部屋の鍵を閉めたフユミに、サイレンススズカは向き合う。
「トレーナーさん」
「……マヤは、僕にスペシャルウィークをスカウトさせたいらしい。スズカも、そうか?」
どう答えたものか、とサイレンススズカは頭の中が渦を巻いているような気分の中で、一番無難だろう答えを返すことにした。
とりあえず、という保留にしかならないのはわかっている。
この答えが本心じゃないことも、わかっている。
妥協と先送りと、現状維持。
そんなものでは、返ってくる反応もなんの進展もないものになるのは、当たり前のことで。
「……変な人のとこには、行ってほしくないです」
「中央でやってるトレーナーの時点で、その心配は薄いと思うけどな……」