逃がさないスズカと逃げるマヤと逃げられないトレーナー 作:エアジャガーる
「はぁ……はぁ……トレーナーさん?」
クールダウンを終え、泥跳ねに汚れているのも気にせず、雨の中で観客席を見渡す。
ゴール前にも見当たらない。
走ってきたコースの外側を歩いて、声援に手を振りながら、トレーナーの顔を探す。
彼が私の走りで勝敗を見極めるとしたら?
「お疲れ様、コーナーの外側は走りやすかっただろう」
そうだ、コーナー。
彼が唯一、私の走りで気にしたのはそこだ。
最終コーナー出口に、合羽を着た人の影がある。
そこに向かって、私は走り出す。
カバンを両手に持っている影に手を振りながら走る。
振り返る人影、合羽のフードの下には、久しぶりに見た顔。
「ハルヤマ、トレーナー……」
「やぁ、スズカ……って、見るからに落ち込んでいるね……」
「あ、その……ごめんなさい」
ハルヤマトレーナーに黙って飛び出してしまっていたことに気付いて、サイレンススズカは頭を下げる。
「いや、いいよ。それより尋ね人はフユミ?」
「……はい」
「そっか。ごめん」
なぜハルヤマトレーナーが謝るのだろうか?
サイレンススズカにはわからなかった。
「フユミは、君が最終コーナーを抜けて最後のストレートに入った時点で……」
「どうしたんですか?」
「俺にカバンを預けて、先に戻った。いや、行ってしまった」
行ってしまった?
どういうことだ?
どこに行ったというんだ?
「スカーレットに君を出迎えさせたかったけど、電話が通じなくてね。もう一回鳴らそうと思ったら……っと電話だ」
サイレンススズカが柵を越えたところでハルヤマトレーナーのスマホから着信音が鳴り、カバンを片方こちらに渡したあと、ダイワスカーレットからの電話に出る。
カバンのサイドに、封筒が見えた。
サイレ、と文字が見えたので引っ張り出す。
サイレンススズカへ、とボールペンで封筒に書かれている。
中の便箋を出して雨の中を読み始める。
「ああ、悪いね。スズカの出迎えに行ってほしかったんだ。俺?フユミを追い掛けるから手が空かないんだ。頼むよスカーレット。君が一番頼みになるんだ。そうそう、一番頼りにしてる。頼んだよ……っとスズカ。とりあえずそのカバンを持って……スズカ?」
雨に、便箋が濡れていく。
便箋だけじゃない。
髪が、肩が、頬が。
そして、視界が。
ただの雨なのに、まるでそれが赤いシミにすら見えた。
「スズカ、何が書いてあった?」
雨にふやけた便箋が、握る手で破れそうになる。
身体が、震える。
考えることが、出来なくなってくる。
「おわっ!スズカ!?」
走り出した。
カバンをハルヤマトレーナーに向かって投げて、駐輪場に向かって。
レース用の靴のまま走り、蹄鉄がガチガチと足元のレンガを叩く。
関係者用の駐輪場に着いた時、トレーナーの姿はなかった。
今度は門のほうに向かう。
門まではバイクを押していくハズだ。
門まで来て、いるのはガードマンボックスの守衛さんだけ。
「すみません!」
「おっと、生徒さんがこんな雨の中、体操服のまま、泥だらけでどこに」
「人を探してます!さっき、バイクに乗ったトレーナーさんが通りませんでした!?」
「え、ああ、それならさっき出ていったよ。随分、行儀よく頭を下げてから」
「どっちに!?」
「お、ああ、表の道を右に出ていったね」
「ありがとうございます!」
門を抜けて守衛さんから聞き出したほうへ走る。
あのバイクは、そんなに速くなさそうだった。
あれなら、追い付ける!
道を雨の中、ひたすら走る。
アスファルトの道は、蹄鉄の付いたシューズだと走りにくい。
苛立って、足を止めて、履いたまま靴の裏を隣のガードレールに引っ掛ける。
思いっきり足を降ろして、蹄鉄を靴から引き剥がす。
もう片方も同じように。
歩道に、がらんと蹄鉄が転がる。
これで、走れる!
改めて走り出す。
靴の中がみるみる濡れていくのがわかる。
それでも、走る。
構うもんか。
レース後でも、知らない。
まだ走るだけの力がある。
追わなきゃ。
追い掛けなきゃ。
どこかに行ってしまう!
二度と、会えない!
「やっほー、トレーナーちゃん」
「マヤ、どうして学園の外にいる」
「えへへ、お買い物だよ!」
トレーナーのバイクが信号で止まった時、隣から肩を叩かれて振り向いたところに、かわいらしい柄の合羽を着たマヤノトップガンがそこにいた。
「トレーナーちゃんこそ、どこに行くの?スズカちゃんのレースは?」
「サイレンススズカは圧勝したよ。全て済んだ」
「ううん、済んでないよ。まだ、終わってないよ」
「終わったよ」
「終わってない!」
トレーナーの言葉に、マヤノトップガンは叫んだ。
「これからだもん!トレーナーちゃんとスズカちゃんのレース!スズカちゃんとトレーナーちゃんがキラキラするレースは!」
「サイレンススズカはちゃんと輝くさ。マヤが心配することはないよ」
「違うの!マヤはトレーナーちゃんにキラキラしてほしいの!」
「ごめんな、マヤ。それは夢だよ」
信号が青になって、エンジンを回す。
トレーナーはマヤの頭を撫でてから、走り出す。
「待って!トレーナーちゃん!」
「雨の日は危ないから外で走らないこと!いいね」
そう言ってトレーナーは走って行った。
マヤノトップガンは慌てて追い掛けるが、合羽姿だと走りにくくて、バイクに追い付けない。
交差点ふたつで、信号に引っ掛かり、マヤノトップガンは追い切れなくなった。
「トレーナーちゃん……っ!」
「はぁ、はぁ……はぁ……」
サイレンススズカは全力で走っていた。
体操服どころか下着まで雨で濡れて、全身ずぶ濡れなままで。
泥跳ねや雨でグシャグシャの姿のまま、レース用のゼッケンも外していなかったサイレンススズカは、ついに足が止まった。
息が、苦しい……
でも、まだ……
そう思っても、足がもう、進まない。
雨の中、歩道で座り込んでしまう。
雨はまた強くなってきて、項垂れていると髪を伝った雨が全身を濡らしていく。
寒い……こんなにも。
背中も、お尻も、足の裏も、水が伝って、染みて、こんなにも寒い。
「スズカちゃん!?」
遠くから、声がする。
でも、違う。
サイレンススズカ、って呼んでくるあの声がしない。
「スズカちゃん!」
俯いて下ろした髪で遮った外から、声がする。
「ねぇ、スズカちゃん!」
肩を揺さぶられても、もう外を見たくない。
1人になった現実を、見たくない。
人生とは!出会いと別れの繰り返し!優等生の第一歩ですね!