逃がさないスズカと逃げるマヤと逃げられないトレーナー 作:エアジャガーる
「……今日はレースして、そのあとも雨の中走って、さっきまで狸寝入りとはいえベッドに寝てたんだ。今日は早く身体温めて身綺麗にして寝なさい」
「トレーナーさん」
椅子から立ち上がって、外へと向かうフユミをサイレンススズカは呼び止める。
「明日は休みにする。体調不良がなければ明後日からメイクデビュー戦に備える。いいな?」
「……はい」
それだけ言って、フユミは扉を開けて保健室を出ていく。
サイレンススズカには、その言葉だけで充分だった。
それ以上の言葉は、彼の口から出てきはしまい。
だから、静かに見送った。
大丈夫。
彼は、私を選んでくれた。
「トレーナーちゃん、スズカちゃんは大丈夫だった?」
「ああ、明日休めば体調を崩すことはないと思う」
保健室から出てきたフユミに、マヤノトップガンは椅子から立ち上がって、歩くフユミの隣に立つ。
「ハルヤマ、すまない。サイレンススズカを僕に預けてほしい」
「頼み事を頼む時は口が下手だな、フユミ。最初からこっちが頼みたいことだ。サイレンススズカを、頼む」
フユミが保健室を出た時点で腰を上げていたハルヤマは、右手を差し出す。
「ああ、待ってろ。勝負は、シニアでだ」
フユミは、ハルヤマが差し出した右手を握り返す。
言ったフユミが少しだけ笑った意味に気付いて、ハルヤマは笑い返す。
「バカ言え。クラシックで勝ってやる。だろ?スカーレット」
「えっ、ええ!」
振られたダイワスカーレットは、意味がわからないまま生返事をする。
そして、手を離したあと、フユミはマヤノトップガンのほうに向き、サイレンススズカと一緒に寮に帰って一緒に浴場で汗とか雨とかを流して身体を温めてから早めに寝るように頭を撫でながら言いつけて、廊下を歩いていく。
しばらくして、切ったリンゴ6切れを載せた皿を持ったサイレンススズカが出てきた。
「ハルヤマトレーナー、お世話になりました」
「フユミのところに行くんだな。アイツはお前を相当高く買っているぞ。期待に応えてこい」
「はい。あ、これ……よかったら」
「あ、ありがとうございます。スズカ先輩……今度は、ターフで」
にこりと笑ったサイレンススズカは、マヤノトップガンに手を引かれながら、廊下を歩いていく。
向かった方向はフユミと逆方向なのに、同じ方向に歩いて行くように見えた。
「ところで……いったい、あれは何だったの?」
サイレンススズカ達が立ち去ったあとにダイワスカーレットは、リンゴを一欠片食べながらハルヤマを問い質した。
「あれ?」
「フユミトレーナーが「勝負は、シニアで」って言ってたあれ」
ハルヤマもリンゴを一欠片食べながら答える。
「気付かなかったのか?あれはアイツなりの感謝と宣戦布告、ってところだ」
「はぁ?」
首を傾げるダイワスカーレットに、リンゴの汁の付いた指をぺろりと舐めたあとに、ハルヤマは肩を竦める。
「今でもサイレンススズカはクラシックを楽勝で勝てるほど仕上がっているぞ、と言ったんだ。アイツは」
「……そういうことね。悔しいけど、言いたいことはわかったわ。今までスズカ先輩が勝てなかったのは、フィジカルの問題じゃなかったもの」
ダイワスカーレットは、最後のリンゴの一欠片を取ってから思う。
もしフユミが、サイレンススズカをティアラ路線にぶつけてきたら?
そこまで考え、ダイワスカーレットは頭を振る。
スズカ先輩だろうが、勝つのは私だ。
そう思わなくてどうする。
ダイワスカーレットは歯噛みした。
自身の心に、ほんの僅かでも湧いた弱気に。
「あの時に断ったサイレンススズカの担当を、改めて引き受けたい」
「了承ッ!その言葉を待っていたッ!たづなッ!」
理事長室で、フユミからの言葉に理事長は即座に了承した。
たづなさんは、即座に用意したままだった担当契約の書類を出して、フユミに渡す。
たづなさんから渡された書類の記名欄に、フユミは自分の名前を書いたあとに、担当ウマ娘の欄に既にサイレンススズカの名前があったことに気が付いた。
「いつ、書かせたんですか?」
怪訝な表情で問うフユミに、たづなさんはにこりと笑ってから答える。
「昨日、フユミトレーナーが部屋を先に出ていったあとですよ。サイレンススズカさんに、確認したんです」
「サイレンススズカさん、ここに担当契約の書類があります。まだ、名前は書いてありません」
「……ハルヤマトレーナーに、見限られたんですね」
書類を見た瞬間に、サイレンススズカの表情が曇ったので、たづなさんは慌ててフォローする。
「いえ、この書類のトレーナーの欄に入る名前を決めるのはあなたです。あなたがフユミトレーナーを選ぶか、ハルヤマトレーナーを選ぶか、それでこの書類の意味は変わります。フユミトレーナーの下に、と思うならこの書類に名前を書いてください。フユミトレーナーを説得するのは」
「自分でします」
たづなさんの言葉を、サイレンススズカは遮るように言い切る。
「私が、自分で」
たづなさんは、自分がサイレンススズカを見誤ったことに、ようやく気付いた。
サイレンススズカの表情は曇ったのではない。
覚悟をしたのだ。
サイレンススズカは、フユミの担当になることを、決意していた。
丸みをわずかに残した、しっかりとした筆跡でサイレンススズカは自分の名前を書いた。
「明日、私はフユミトレーナーが担当したくなるほどの走りをします。その、覚悟です。私が、二着以下だったらその紙を破り捨ててください」
険しい表情で、サイレンススズカは自分の名前を書いた書類をたづなさんに返す。
なんという覚悟だろうか、とたづなさんは思う。
メイクデビューすら果たしていないウマ娘が事実上の進退を、明日のレースに懸けると言い切るとは。
たづなさんは上がる口角を意識して押さえ付け、書類を受け取る。
「明日はレース前に雨が降り出すかもしれません。稍重以下のバ場になると思いますが」
「構いません。ターフは、ターフです」
そして、サイレンススズカは宣言通りに、宣言以上に圧勝した。
「全ては、僕待ちだった……ということですか」
「はい、それとこれですが……」
たづなさんは、一通の封筒を出す。
昨日、フユミがたづなさんに渡した封筒だ。
「返すのと破るの、どちらがいいですか?」
「……破ってください。それは、必要のないものです」
「素晴らしい返事です。サイレンススズカさんを、ちゃんと導いてあげてくださいね」
たづなさんの言葉に、理事長は頷き、頭の上の猫がにゃーと鳴く。
ようやっと、全てのゲートが開いた瞬間だった。
長い長い、本当に長い前フリにお付き合い頂いてありがとうございます。
普通だったら三話でちゃっちゃと片付けるような内容をステイヤーズステークス並みに引き伸ばしたことを御容赦ください。
ようやく、本編の開始です。出走の準備をしてください。