逃がさないスズカと逃げるマヤと逃げられないトレーナー 作:エアジャガーる
走れない。
前に出られない。
ずっと遅い背中が邪魔をしてくる。
横に出たくても、後ろからドタドタと走ってきてハナを出してくる。
後ろの足音がうるさい。
前の足音がうるさい。
煩わしい。
足音が増えた。
速い、でもちゃんとリズムのある足音。
ターフの葉が千切れる音。
風が横を抜けた。
エアグルーヴの背中が、前に飛び出した。
エアグルーヴが、先に行った。
私よりも、先に!
ダメ。
それは……
それはっ!
『エアグルーヴ、短いストレートからそのまま最終コーナーへと入る!独走!エアグルーヴの独走が始まる!このままウイニングランとなるか!?』
もう少しやるかと思ったが、サイレンススズカはあの檻を脱することもままならずに、このまま後方の集団に呑まれるのが確定した。
少々速いタイミングだったが、あの先頭集団は既にサイレンススズカを封じることに注力し過ぎたせいで、あれ以上は伸ばせない。
そして、サイレンススズカはあの檻を抜け出す前に、エアグルーヴの早仕掛けに釣られた後続の波に呑まれる。
そして、なんのストレスもなくマイペースで走った自分の足。
これだけの条件で、もはや私の勝利が揺らぐはずもない。
女帝の確信は、観客席の確信とほぼ同じだった。
ただ、観客席の二人を除いて。
「女帝め、見栄を張ったな」
「いつまでも檻に閉じ込められた獲物をいたぶるのは、強き女帝のすることではない。そういうことだ」
フユミは隣の男の言葉に、レース展開にむくれるマヤノトップガンの頬をぺちぺちと指で叩きながらくすりと笑う。
「慢心したものだな。女帝も」
「慢心?」
聞き返す男が見たフユミの横顔は、八重歯をわずかにちらつかせて笑っていた。
「エアグルーヴ……お前の、負けだ」
うるさい。
邪魔。
もう、知らない。
私の前に、私の横に、私の後ろに……
もう誰も近付かないで!
さっきまでいた、後続の不規則なうるさい足音が、遠い。
足裏がターフを、しっかりと掴む。
最終コーナーの入り際、大きく膨らみながら、前を走るウマ娘の隣に一気に飛び出す。
開けた先にはエアグルーヴが走っている。
許さない。
私の景色に、割り込むなんて。
その景色は、私のものだ!
誰にも、譲れないッ!
サイレンススズカは初めて、無理矢理と思える全力疾走を始める。
今までは自分のペースで走るか、押さえ付けたペースで走っていた。
それが、初めて何かを追うためにハイペースでターフを駆ける。
いや、最近一度だけ、このハイペースとすら呼びがたい滅茶苦茶な全力疾走で走ったような気がする。
そんなことはどうでもいい。
ターフから葉の形が消えた緑の一面となって、ラチが白い壁となって、空だけがそのままの、あの世界が、あともう少し。
あとは前に入り込むエアグルーヴの背中を、消し去るだけ!
『サイレンススズカ!ここでコーナーを膨らみ一気に2番をまくって、ストレートへ飛び出した!先頭のエアグルーヴに猛追!あの脅威の逃げ足が!フクキタルをストレートで5バ身振り切ったあの末脚がっ!エアグルーヴの背に牙を剥いたぁああっ!』
エアグルーヴの目が、こちらをちらりと見た気がする。
そんなものは、もう関係ない。
すぐそこにいるエアグルーヴを、視界から消し去るっ!
「どいて!」
『サイレンススズカ!伸びる!迫る!ラスト1ハロンがあまりにも長い!一歩踏み出す度に!サイレンススズカがエアグルーヴに迫る!ゴール板まであと50もない!エアグルーヴが!ゴール板まで!あと20!差されっ!?抜けっ!?抜けたっ!?最後の最後、エアグルーヴとサイレンススズカが完全に並んでゴール板を抜けた!判定!判定は……!審議中!』
ゴール板を抜けた瞬間、サイレンススズカはそのまま突っ走った。
減速するまでの1ハロン。
勝ったのかは、わからない。
最後にエアグルーヴが消えた瞬間、ゴール板は見えなかった。
減速して、歩くような速さにようやく落ち着いて、足が震える。
よたつかないように、しっかりとターフを踏み締めて歩く。
こんなに後先考えずに遮二無二走ったのは、いつ以来だろうか。
走りきった、という感じがした。
たった1600のマイル戦で、こんなに走った気持ちになれるなんて、思わなかった。
「マヤ、迎えに行くぞ。ウイナーズサークルだ」
「うん!」
「……結果発表は、まだだが?」
ゴール板をエアグルーヴとサイレンススズカが抜けた瞬間に、席を立つフユミとマヤノトップガンへと隣の男が釘を刺すように言う。
「サイレンススズカの勝ち、いや……エアグルーヴの負けだ」
「なぜ?」
「エアグルーヴは自分が抜き去る時に、大外ではなく内から貫いた。そのせいで、サイレンススズカの横を押さえていた6番がわずかに後ろに下がった。そして、6番はサイレンススズカを抑えるのに足を使っていたせいで元の位置に復帰出来ず、2番はエアグルーヴに抜かれてわずかに足を早めた。その結果、掛かったサイレンススズカが解き放たれた。あとは掛かりっぱなしのサイレンススズカが普段なら無意識に後先考えて、なかなか出せなかった限界領域の速度でエアグルーヴを猛追した。ただですらふざけた脚をしているサイレンススズカの、後先考えない加速での猛追だ。エアグルーヴの模範的な丁寧なペースでの走りでは、背後に迫るサイレンススズカに気付いた頃にはもう……逃げられない」
言うだけ言ったフユミは、マヤノトップガンを連れて観客席を出る。
男はその背中を見届けたあと、目を閉じてアナウンスを聞く。
不思議と、笑いが出てしまった。
どうやらこのレースは、どう足掻いてもサイレンススズカが勝ったらしい。
『判定!一着……サイレンススズカ!二着、ハナ差でエアグルーヴ!』
ゴール板の横でスキルをぶっぱなすんじゃない