逃がさないスズカと逃げるマヤと逃げられないトレーナー 作:エアジャガーる
「エアグルーヴ、初敗北おめでとう」
「……敗北を祝う奴は初めて見た。わざわざレースを観ていたのだろう?」
独りだけの生徒会室。
テーブルに手を突いて敗北に歯噛みするエアグルーヴの元に、いつの間にか入っていたスーツ姿の男がからかうように声をかける。
エアグルーヴにしたら、カメラのフラッシュ並みに嫌いなものだ。
しかし、怒るに怒れない状況と相手に、テーブルの上の手で拳を握るしかない。
「そりゃあ一応、君のことも面倒見ているつもりだからね。あんな負け方はそうそう出来ない、貴重な経験だ」
「貴重な経験?敗北の時点で論外だ。女帝たる者の姿ではない」
「ルドルフも当時、このレースをギリギリで勝った時は……同じような態度だった」
「フン、私が会長に一枚劣るとでも言いたげだな」
「紙一重だった。それだけのことだ。君がミスをした、とは言えない。それにルドルフが勝った時、サイレンススズカはいなかった。それだけの差だ」
男はエアグルーヴが拳を置くテーブルに、蓋付きの紙コップとストローが入った袋を置く。
「会長でもスズカには敵わない。そう言わんばかりだな」
「あの頃にサイレンススズカがいたら、七冠が半分になっていたかもしれない。サイレンススズカが光も超えて過去に現れたりしない限りはたらればに過ぎない、無価値な推測だが。敗因とも言い難い敗因、いちおう聞いとくか?」
「……聞くだけ聞いてやる」
エアグルーヴは袋から紙コップとストローを出して、蓋の穴にストローを差し込む。
「お前がサイレンススズカをぶち抜いた時、6番の内を抜いたせいで、サイレンススズカの包囲に僅かな隙が出来た。といっても、サイレンススズカでなければあそこから脱出して猛追するなんて芸当は出来なかっただろうが」
「外から差しに行けば勝っていた、と?」
「そうしたら今度は6番がよれて内に、サイレンススズカの後ろに押し込まれて、サイレンススズカが君を追走するのがコンマ5秒速くなっただろうな」
「仕掛けが早かった」
「どうだろう。君の後ろ次第では、あれ以上の追走は今度は自分の身が危なかった可能性もある」
「なら、どうするというのだ!」
「言っただろう?君がミスをしたとは言い難いと。敗因とも言い難い敗因だと。不条理だろうが、レースというものはそういうものだ」
エアグルーヴは、こういう結論のない問題が大嫌いだ。
全ての問題や障害には、必ず回答があり、必ず乗り越えられる。
そう、思っているエアグルーヴにとって一番、嫌いな答えだった。
諦めろというのは、とてもではないが望む答えではない。
「ハッキリと結論を言え。細かい理屈が言い訳にしかならないのも承知している」
「ふむ、ではハッキリと言おう。君は確かに優秀なウマ娘だが、サイレンススズカは理外の化け物だった。斜行で縛っていた拘束を少し緩んだだけで抜け出し、無理矢理コーナーで前に出て、シニアの追い込みウマにだって負けないような大捲りでラスト2ハロンを爆走して差し返す。そんな力業のレースが出来るウマ娘がそうそう現れてたまるものかよ。あれは紛うことなく、化け物の類いだ」
エアグルーヴはムスリとしながら、ストローを咥えて紙コップの中身を飲む。
甘ったるい、ハチミツの味がする。
それなのに、エアグルーヴの感じる現実は、苦々しい。
「しかし、この甘ったるいのはなんだ?」
「はちみー、だとさ。今はこれが流行ってると聞いたが?」
「……楽しかった」
一人だけの部屋。
お風呂も済ませて、ベッドに寝転がる。
今日は、終わってみれば楽しかった。
窮屈な箱の中から飛び出して、がむしゃらにエアグルーヴを追い掛けて、気付いたらゴール板の先を抜けて、脚の中にある全てを出した……
ライブもバタバタとしてしまったが、歌はなんとか歌いきれたし踊るのも大丈夫だったと思う。
足に、まだ感触が残っている。
彼の男の人にしては細い指が、私の足を撫でる、あの感覚が。
いつもと違って、真剣な顔をしていた。
あれだけ周りに目がある中で、彼は私を躊躇いなく抱き締めていた。
きっと、彼がトレーナーじゃなかったら、堂々とときめいたりもしたのだろうか。
心配をかけておいて、こんな気持ちになるのはどうかと思う。
ほんの数ヶ月もない、短い期間。
たった3つのレースしか、まだ走ってない。
ようやっとGⅢレースを一回出ただけ。
まだそんな、浅く短い関係でしかないというのに、そんなことを考えてしまった。
いつも何を考えているかわからない顔の彼が、あの時は真剣に私の脚を診ていた。
その横顔に、当てられてしまったのだろう。
足元がふらついた私の前だから、あんな顔をしたのだろうか?
彼の言動を振り返る。
おかしい……
普段の彼と今日の彼が、繋がらない。
普段の彼なら、どうしてた?
いつもなら、もっと突き放した態度だと思う。
いつもならどうしたかは、わからないけど。
なんで、そう感じるのだろう。
そもそも、何を考えているかわからないというのも印象の問題だ。
彼は私の完成した姿を知っていて、その私を倒すためにウマ娘を育てようとして去られて、今は私とマヤちゃんの担当で、何を考えているかわからない表情で指示するトレーニングを続けていて。
あと、料理が妙に上手で、あれ、あと何を知ってるんだろう?
そっか、私……トレーナーさんのことをまるで知らないんだ。
私が知らなくても、何も構わないことなのに。
彼に言わせれば、きっと知る価値のないことなのに。
それを知らないことに心がざわつくのは、なぜ?
自分の手が脛を撫でても、何もわからない。
少女達の100マイルの旅にお付き合いください。
なんてちょっとドラマチックなこと言いたいですが、とにかくバクシンすることしか知らないのでバクシンバクシーンッ!