逃がさないスズカと逃げるマヤと逃げられないトレーナー 作:エアジャガーる
「トレーナーさん」
「なんだ?」
フユミが車をしばらく走らせた先、アテにしていたスーパー銭湯でサイレンススズカに汗を流させて、休憩ブースでベンチに座らせた風呂上がりのサイレンススズカの脚を解している時だった。
「トレーナーさん、トレセン学園に来る前は何をしていたんですか?」
「何って?」
「トレーナーになる前のことです」
しばらくフユミは黙ってサイレンススズカの足裏を指圧したあと、スリッパの上にそっと足を置く。
少しだけ溜め息を吐いた後に、マッサージするのにサイレンススズカの前で膝立ちになっていたフユミは立ち上がると、困り顔でサイレンススズカの隣に座る。
「トレーナーさんは、あの山道やグランマにどんな関係があったのか。どうしてトレセン学園に来たのか。トレーナーさんのことを、少しくらいは聞きたいんです」
「……山道で一時期、トレーナー紛いなことはしていた。と言っても、無理矢理いろんなことを勉強させられたってほうが近い。身体のマッサージも、いろんなトレーニングも、その頃の独学で得たものだ」
妙なトレーニングなんだろうな、と思うことはいろいろあった。
途中からの追走や、今回の山道にしてもそうだ。
真っ当なトレーニングではないことはわかっていた。
もともとがアングラな出身だったなら、納得は行く。
「その時のウマ娘は……?」
「今はいない……生きてるから、そんな顔をするな」
サイレンススズカがぎょっとした瞬間に、フユミはサイレンススズカの頭を撫でながら苦笑する。
サイレンススズカには、余計にわからなくなる。
嘘を言われたことはないから、そのウマ娘が生きていることは間違いないだろう。
ただ、フユミが全部を明かしたこともない。
生きていること以外を伏せているのが、余計に怖い。
「二年前に地方トレセンが結託してスカウトを強化した。第2のオグリキャップが市井にいる、雌伏している……その可能性に追われて、草の根を掻き分けるようなスカウトを始めたんだ。今までの権威付けによる試験での、謂わば待ちの姿勢から切り替えてな」
「なんで、そんなことが?」
「さぁね。ただ、僕はその流れに乗ることにした。山道への締め付けも強くなっていくのが目に見えていたし、給料もまぁまぁ悪くなかったし、スカウトなら割と面倒なことはパスして入れたし、あと僕は真っ当にサラリーマンが出来る気がしなかった」
「その時の仲間の人とかは、どうしたんですか……?グランマ以外にもいたハズですよね?」
「だいたいが公道を去ったよ。現実を思い知らされた、無理して脚を壊した、早くに結婚した、不運と踊って事故った、真っ当に社会に戻った、まぁいろいろ」
トレーナーさんが当時のウマ娘のことをぼかしたのは、その中のひとつなのだと思う。
たぶん、そんなのは聞かせたくなかったからぼかしたのだと思う。
いや、言いたくなかったのかな。
いや、違う。
それなら彼はもっとぼかすと思う。
つまり、当時のウマ娘はきっと今もどこかで走っているのだ。
中央ではわからない、遠いどこかで。
それよりも、彼は妥協の末にターフに来たのだろうか?
本当は、ターフでのレースはつまらないのだろうか。
「トレーナーさん……ターフでのレースはつまらないですか?」
「安心して見ていられる、という点ではつまらないという言葉も当てはまるし、楽しいとも言えるよ。少なくとも崖の下に落っこちたり壁に突き刺さったりはしないし、走ってる様子を全部見られる」
だからこその戦略や紛れの少なさは確かにつまらない部分だけどね、と付け足し肩を竦める。
ようやく、タイキシャトルがシンザン記念で怒涛の追い込みで全員をぶっちぎったレースに苛立っていた理由がなんとなくわかった。
彼は、才能ひとつでごり押すレースがきっと嫌いなんだ。
つまり、私のレースもきっと、本当は好きじゃない。
「スズカ。今、考えたことを当てようか?『私の走りは嫌いなのかな』とかそこら辺だろう?」
そんなにわかりやすかっただろうか。
ずっと頭を撫でながら、実は手で私の考えてることを読み取っているんじゃないだろうか。
「ターフに来たからにはターフで理想のウマ娘を育てることを、ちゃんと目標にしている。そのためのモデルは半年くらいで2つ、考えていた。その片方のモデルに向けて、君を走らせてる。これでも試行錯誤して、少しずつ理想の姿に近付く君達を見ているのを、楽しんでいる僕がいるんだ」
「フユミか。どうした?」
『遅い時間で悪かった。今、いいか?』
追加のトレーニングを求めたダイワスカーレットに付き合って暗くなるまで走り込ませたあと、チームルームで足裏とかの具合を確認したりしている時だった。
久しぶりに電話が鳴ったと思ったら、フユミからの着信だった。
合コンとかの誘いではないことは明白なので、ダイワスカーレットの前で堂々と取る。
前に友人からの合コンの誘いの連絡をしていたのをダイワスカーレットに聞かれて、かなり機嫌が斜めになった経験からしばらくは控えることにしたが、未だに通知音がする度にダイワスカーレットが耳をピクリとさせるので迂闊にスマホのマナーモードが解けない。
思春期の少女には、やはり気分の悪いものらしい。
『マヤとタイキはちゃんとトレーニングを終えたらまっすぐ寮に帰ったか?』
「ああ、それなら問題ない。二人はちゃんと寮に帰った。そこからまた抜け出す難易度は、お前も知ってるだろ?」
『ああ、トレーニングの内容は?』
「お前の書き置き通りにしといた。ついでにスカーレットにも同じトレーニングをさせたが構わないな?」
『そうするだろうと思ったからその前提で組んだ。ダイワスカーレットにも少しは意味のあるトレーニングのハズだ』
「イヤミなくらい用意周到なこった。で、それだけの電話じゃないんだろ?」
テーブルの向かい側にいたダイワスカーレットが、電話から漏れるフユミの声を聞いた瞬間にチームルームから出た音が、向こうにも聴こえたハズだ。
何かしら、用があっての電話に決まってる。
『他にトレーニングに交ざってきたウマ娘はいないか?具体的にはトウカイテイオー』
「トウカイテイオー?こっちには来なかったな」
『……そうか』
何を考えてるかいまいちわかりにくいフユミにしては、わかりやすい声をしている。
ひとまずの安心と、困惑だ。
「トウカイテイオーがどうかしたのか?」
『いや、いなかったなら別にいい。今夜の内に戻るから明日は大丈夫だ。助かった。ありがとう』