逃がさないスズカと逃げるマヤと逃げられないトレーナー 作:エアジャガーる
“ばちゃんねる”での話題のみならずゲラが間に合った各誌は3月第1週の土日に並ぶ今回のチューリップ賞と弥生賞の内容を大きく報じた。
チューリップ賞はダイワスカーレット、ウオッカ、エアグルーヴの再激突。
弥生賞はサイレンススズカとマヤノトップガンの同門対決にナイスネイチャが食い込む形だったところに電撃的にトウカイテイオー参戦。
今期のクラシックシーズンを占う指標としては、どちらもかなりの重要なレースであることは間違いなく、チューリップ賞は言ってしまえば阪神JFのやり直しとも言える出走内容で、弥生賞はクラシック路線の王道もティアラ路線の王道も避けていたサイレンススズカがついにクラシック本命としての姿を初披露するということで、注目度は否応なしに高まった。
その3月第1週の土曜日、チューリップ賞の日がやってきた。
「トレーナーさん、お願いがあります」
弥生賞の2日前にチーム丸ごと中山に移動して、次の日に何度か本人達の走りたいようにターフを走らせてしばらくした頃、サイレンススズカが珍しく自分からお願いを切り出した。
お願いの内容は、だいたい予想がつく。
今日は、仁川でチューリップ賞がある。
「今日のレース、チューリップ賞の中継を観たいんです」
正直、サイレンススズカが自分の出ていないレースを気にするようになるとは、思わなかった。
自分が速く走ること以外に興味を向けるようになったのは、いいことか悪いことか、今はまだわからない。
いや、それ以上にサイレンススズカをしてダイワスカーレットが気がかりになるだけの状況でもあるのだが。
ダイワスカーレットが、桜花賞を出走するのに必要なレートを考えても、チューリップ賞がトライアルレースであることを加味しても、ここで3着以内に収まらなければトリプルティアラの道はこの時点でほぼ断たれる。
ここでうっかり掲示板を外した日には、桜花賞はサイレンススズカの出走申請で減ったフリー枠に、抽選で飛び込まなければならない。
サイレンススズカが気にするのは、当然のことだろう。
あとから付いてきたマヤノトップガンとタイキシャトルも、やはり気になるらしい。
もっとも、タイキシャトルの場合は単に1人でターフにいるのが寂しいからとか、そういう理由だろうが。
「休憩室に行こう。大人数で見るなら、ちゃんと大きいモニターで見たほうがいい」
「スカーレット」
阪神レース場の出走選手控え室、鏡の前で紅い瞳すら微動だにせずに自分の姿を直視したまま動かないダイワスカーレットに、ハルヤマはさすがに声をかけた。
ダイワスカーレットからの返事は、ない。
このままでは阪神JFの焼き直しだ。
ハルヤマはそのくらいはわかっている。
だからって、楽勝だから緊張するなと言えるほど、今回はスカーレットが勝つと言い切れるほど、ハルヤマは自分の指導に自信がない。
この阪神レース場、昨年末の役者はすでに出揃っている。
ダイワスカーレットのリベンジの時は来た。
彼女なら勝てる、そう堂々と送り出さなくてどうする。
ハルヤマは自身の気の弱さを恥じる。
カチン、と壁掛け時計の分針が動いた音と同時に、ダイワスカーレットは眼を閉じて、椅子から立ち上がる。
パドックへの登場時刻まで、ちょうど残り15分。
ダイワスカーレットは眼を閉じたまま、ハルヤマのほうに振り向き、眼を開く。
「トレーナー、今のアタシは……完璧?」
胸の下で左腕を右腕の肘に添えるように組んで、口許に右手の指を添えて不敵に微笑むダイワスカーレットに、ハルヤマは背筋に走るものを感じた。
ここにいるダイワスカーレットは、いつもの中等部の背伸びしがちな意地っ張りで負けん気の強い少女ではない。
彼女は鏡をじっと見て、理想の自身の姿を描いて着ぐるみのように上から被った。
このままダイワスカーレットを送り出すことは、ハルヤマには出来ない。
今の彼女の姿がどれだけ背伸びした物か、ハルヤマにはわかっている。
このままだと、本当に年末のあの時と同じことを繰り返しそうだ。
「スカーレット、悪い」
「えっ?」
ダイワスカーレットをしっかりと抱き締める。
きっと、今のダイワスカーレットは自分の身体が浮き足立ってるのを自覚している。
ちゃんと彼女に、自分の肩幅を思い出させるように、しっかりと抱き締める。
前回のダイワスカーレットの敗因は、言ってしまえば自身の感覚と身体の解離だった。
緊張感から目を背けるために、無理に理想的な自分の走りをしようとした。
その結果が、前回の一歩負けだった。
今のダイワスカーレットを見て、やっと敗因を確信した。
いつも通りのダイワスカーレットだったら、今回はもとより、前回だって勝っている。
荒療治でも、彼女の素の姿を引っ張り出すしかない。
「ちょっと!トレーナー!トレーナーってば!」
尻尾をバタバタさせて、引き剥がそうとする腕ごと抱え込む。
どれだけ力があっても、しっかりと抑え込めば身動きが取れない。
トレーナーになる時のセミナーで教わったことを、こんなことに使うのは論外だろうが、今は必要だ。
「ちょっと……何か言いなさいよ……わかったから、何か言いなさいよ……」
尻尾も落ち着いて、突き放そうとする手のひらの力が抜けたのを確かめてから、あやすように頭の後ろから背中を撫でる。
ちゃんと、いつものダイワスカーレットがここにいる。
「……大丈夫、無理しなくてもお前は完璧だ。だから、落ち着いて走ってこい」
「……はぁ、わかったわよ……こんなことしてまで、言うことはそれだけ?」
「お前が一番だ。観客席に、今日一番のウマ娘を見せ付けてこい」
「……今日だけじゃないわ。アタシはずっと一番よ」
「その通りだ。勝ってこい」
背中を二回ほど叩いてから抱き締めていた腕を解くと、一歩下がったダイワスカーレットがさっきと違う、いつもの笑顔で微笑む。
大丈夫だ。
いつもの、ダイワスカーレットに戻っている。
ふふん、といつもの癖で鼻を鳴らしたあとに一言だけ言って控え室からダイワスカーレットは出ていく。
「今度、いきなりこんなことしたら怒るからね」
抱き締めたらいい香りしそうな勝負服着てるウマ娘第一位はダスカちゃんです、たぶん。
めっちゃ空気含んでそうだし。